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『とはずがたり』巻4.「隅田川、三芳野の伝承」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p258)


 さても、隅田川原近きほどにやと思ふも、いと大きなる橋の、清水(きよみづ)・祗園(ぎをん)の橋のていなるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり。「このわたりに隅田川といふ川の侍るなるは、いづくぞ」と問へば、

「これなんその川なり。この橋をばすだの橋と申し侍る。昔は橋なくて、渡し船にて 人を渡しけるも、煩(わづら)はしくとて橋出(い)できて侍る。隅田川などはやさしきことに申しおきけるにや。賤(しづ)がことわざには、すだ川の橋とぞ申し侍る。 この川の向へをば、昔は三芳野(みよしの)の里と申しけるが、賤が刈り乾す稲と申すものに、実の入らぬところにて侍りけるを、時の国司里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めちれて後、稲うるはしく実も入り侍る」

など語れば、業平(なりひら)の中将、都鳥(みやこどり)に言(こと)問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、

たづね来(こ)しかひこそなけれ隅田川すみけん鳥の跡だにもなし

川霧こめて、来し方行く先もみえず、涙にくれてゆく折ふし、雲居(くもゐ)遙かに鳴くかりがねの声も、折知りがほにおぼえ侍りて、

旅の空涙にくれてゆく袖をこととふ雁の声ぞかなしき

堀兼の井は跡もなくて、ただ枯れたる木の一つ残りたるばかりなり。これより奥さままでも行きたけれども、恋路の末にはなほ関守(せきもり)も許しがたき世なれば、よしやなかなかと思ひかへして、また都の方(かた)へ帰り上りなんと思ひて、鎌倉へ帰りぬ。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 ところで隅田川原近い辺りだろうかと思うが、たいそう大きな橋で清水や祗園の橋ぐらいなのを渡ると、小ざっぱりした男二人と会った。「この辺りに隅田川という川があるそうですがどこでしょう」と問えば、

 「これがその川ですよ。この橋をすだの橋と申します。昔は橋がなくて、渡し船で人を渡しましたが、わすらわしいというので橋ができました。隅田川などとはやさしい名を付けておいたものですね。土地の者たちの言いならわしでは、すだ川の橋と申しております。

 さてこの川の向うを昔は三芳野(みよしの)の里と申しましたが、百姓たちの刈り乾す稲と申すものに、実の入らぬ所でしたのを、時の国司が里の名を尋ね聞いて、実の入らないのも道理であるとて、吉田の里と名を改められて後、稲はちゃんと実が入るようになりました」

三芳野について、久保田淳氏は「「『伊勢物語』十段に「すむ所なむ入間の郡、みよし野の里なりける」と語られる三芳野の里か。現、埼玉県坂戸市横沼。」としているが(『完訳日本の古典.とはずがたり二』p32)、そうだとすれば浅草寺から直線距離で50qほども離れた関東平野の内陸部になってしまう。
 隅田川を挟んで浅草の対岸が三芳野だという、この奇妙な話についての私の考え方はこちら。(久保田淳氏「『とはずがたり』−配所の仮託」)
 こう語るので、業平(なりひら)の中将が都鳥(みやこどり)に思う人のことを尋ねた故事も思い出されて、折から鳥さえもみえないので、

たづね来(こ)しかひこそなけれ隅田川すみけん鳥の跡だにもなし
(隅田川まで訪ねてきたけれど、住んでいたという都鳥のあとさえないので、かいのな いことよ)

川霧が立ちこめて来(こ)し方(かた)行く末もみえず、涙のうちに一日もくれてゆく折から、雲居(くもい)はるかに鳴く雁の声も折知り顔に思われて、

旅の空涙にくれてゆく袖をこととふ雁の声ぞかなしき
(旅の空は涙のうちに暮れていって、私の袖を訪れる雁の声が悲しく聞える)

在原業平(825〜880.56歳)は「平安初期の歌人。六歌仙、三十六歌仙の一。阿保親王の第五子。世に在五中将・在中将という。容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手。『伊勢物語』の主人公と目され、伝説化されて色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃にも取材された」(『広辞苑』)。業平について、より詳しくはこちら

掘兼の井戸は武蔵の国の歌枕。現埼玉県狭山市掘兼。次田香澄氏は「解説」において「埼玉県はすでに江戸期に川の流路も大きく変り、今では衛星都市化してめざましい発展を遂げつつある地域であるから、古い由緒ある土地も、その現状を突き止めることはむつかしい。地名でさえ統廃合を繰返し、文学遺跡のある地名も消えてしまうのは残念である。ちなみに現在の三芳野はずっと上流にあり、この辺の記述は、作者の記憶の混乱もあるかもしれない。また、入間川はもっと下流までの名であった可能性もある」と言われている。
 私は、直前の場面で示された後深草院二条の圧倒的な博識を見るだけでも、「この辺の記述は、作者の記憶の混乱もあるかもしれない」とは思わない。
 堀兼の井戸は跡もなくて、ただ枯れた木が一本残っているだけである。さてこれから奥のほうまでも行きたかったけれども、「恋路の末」はやはり関守も許し難いならいというから、ままよ、かえってきりがないと思って、鎌倉へもどった。












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