up11.12/1

| 原文(『とはずがたり(下)全訳注』p258) さても、隅田川原近きほどにやと思ふも、いと大きなる橋の、清水(きよみづ)・祗園(ぎをん)の橋のていなるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり。「このわたりに隅田川といふ川の侍るなるは、いづくぞ」と問へば、 「これなんその川なり。この橋をばすだの橋と申し侍る。昔は橋なくて、渡し船にて 人を渡しけるも、煩(わづら)はしくとて橋出(い)できて侍る。隅田川などはやさしきことに申しおきけるにや。賤(しづ)がことわざには、すだ川の橋とぞ申し侍る。 この川の向へをば、昔は三芳野(みよしの)の里と申しけるが、賤が刈り乾す稲と申すものに、実の入らぬところにて侍りけるを、時の国司里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めちれて後、稲うるはしく実も入り侍る」 など語れば、業平(なりひら)の中将、都鳥(みやこどり)に言(こと)問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、
|
| 次田香澄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
||
| ところで隅田川原近い辺りだろうかと思うが、たいそう大きな橋で清水や祗園の橋ぐらいなのを渡ると、小ざっぱりした男二人と会った。「この辺りに隅田川という川があるそうですがどこでしょう」と問えば、 「これがその川ですよ。この橋をすだの橋と申します。昔は橋がなくて、渡し船で人を渡しましたが、わすらわしいというので橋ができました。隅田川などとはやさしい名を付けておいたものですね。土地の者たちの言いならわしでは、すだ川の橋と申しております。 さてこの川の向うを昔は三芳野(みよしの)の里と申しましたが、百姓たちの刈り乾す稲と申すものに、実の入らぬ所でしたのを、時の国司が里の名を尋ね聞いて、実の入らないのも道理であるとて、吉田の里と名を改められて後、稲はちゃんと実が入るようになりました」 |
隅田川を挟んで浅草の対岸が三芳野だという、この奇妙な話についての私の考え方はこちら。(久保田淳氏「『とはずがたり』−配所の仮託」) |
||
こう語るので、業平(なりひら)の中将が都鳥(みやこどり)に思う人のことを尋ねた故事も思い出されて、折から鳥さえもみえないので、
|
私は、直前の場面で示された後深草院二条の圧倒的な博識を見るだけでも、「この辺の記述は、作者の記憶の混乱もあるかもしれない」とは思わない。 |
||
| 堀兼の井戸は跡もなくて、ただ枯れた木が一本残っているだけである。さてこれから奥のほうまでも行きたかったけれども、「恋路の末」はやはり関守も許し難いならいというから、ままよ、かえってきりがないと思って、鎌倉へもどった。
|