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『とはずがたり』巻4.「飯沼判官との惜別、熱田社」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p244)


 とかく過ぐるほどに、九月(ながつき)の十日余りのほどに、都へ帰り上らんとするほどに、さきに馴れたる人々、めんめんに名残惜しみなどせしなかに、暁とての暮れ方、飯沼(いひぬま)の左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、さまざまの物ども用意して、いま一ど続歌(つぎうた)すべしとて来たり。 情もなほざりならずおぼえしかば、夜もすがら歌よみなどするに、「涙川と申す川はいづくに侍(はべ)るぞ」といふことを、先のたび尋ね申ししかども、知らぬよし申して侍りしを、夜もすがら遊びて、「あけばまことに立ち給ふやは」といへば、「とまるべき道ならず」といひしかば、帰るとて、杯(さかづき)据ゑたる折敷(をしき)に書きつけてゆく。

わが袖にありけるものを涙川しばしとまれといはぬ契りに

返し遣はしやするなど思ふほどに、またたち返り旅の衣(ころも)など賜はせて、

着てだにも身をばはなつな旅衣さこそよそなる契りなりとも

鎌倉のほどは、常にかやうに寄り合ふとて、「あやしく、いかなる契りなどぞ」と申す人もあるなど聞きしも、とり添へ思ひ出でられて、返しに、

乾(ほ)さざりしその濡れ衣(ぎぬ)もいまはいとど恋ひん涙に朽ちぬべきかな

 都を急ぐとしはなけれども、さてしもとどまるべきならねば、朝日とともに明け過ぎてこそ立ち侍りしか。めんめんに宿(しゆく)々ヘ次第に輿(こし)にて送りなどして、程なく小夜(さや)の中山に至りぬ。西行(さいぎやう)が「命なりけり」とよみける、思ひ出でられて、

越えゆくも苦しかりけり命ありとまた訪はましや小夜の中山

 熱田の宮に参りぬ。通夜(つや)したるほどに、修行者どもの侍る、「大神宮より」と申す。「近く侍るか」といへば、津島の渡りといふ渡りをして参るよし申せば、いとうれしくて参らんと思ふほどに、宿願にて侍れば、まづこの社にて、華厳経の残りいま三十巻を書きはて参らせんと思ひて、何となく鎌倉にてちと人の賜(た)びたりし旅衣など、皆 り集めて、またこれにて経をはじむべき心地せしほどに、熱田の大宮司(だいぐうじ)とかやいふもの、わづらはしくとかく申すことどもありて、かなふまじかりしほどに、とかくためらひしほどに、例の大事に病起り、わびしくて、何のつとめもかなひがたければ、都へ帰り上りぬ。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 とかくするうち、九月の十日過ぎのころ、都へ帰り上ろうとしたところ、先に馴染んだ人々がめいめいに名残を惜しみなどしたなかに、暁に発とうという前日の暮れ方、飯沼の左衛門の尉がいろいろの物を用意して、いま一度続歌(つぎうた)をしましょうといって、やってきた。友情もなみなみならず思われたので、夜通し歌を詠みなどしたが、「涙川と申す川はどこにあるのですか」と、前に会ったとき私に尋ねられたけれども、知らないと答えておいたのを、(今宵は)夜通し遊んで、「明けたらほんとうにお発ちになるのですか」というので、「(人生の旅は)とどまるわけにはまいりません」と答えると、彼は帰るときに、杯を据えた折敷(おしき)に歌を書き付けていった。

わが袖にありけるものを涙川しばしとまれといはぬ契りに
(しばしとどまって下さいとはいえないあなたとの間柄ゆえに、涙川は私の袖にあった ものを〈今知りました〉)

飯沼資宗(1267〜93.27歳)は当時権勢の絶頂にあった平頼綱の二男。1258年生まれの後深草院二条より九歳年下。「新将軍久明の東下」「鎌倉で和歌の交歓、川口の歳晩」 の場面に既出。





男女の間で「衣」を贈答することと「衣」に関する和歌表現については岩佐美代子氏「『とはずがたり』における和歌表現」に緻密な分析がなされている。
 返歌をしようかなど思っているうちに、すぐ続けて、彼は旅の着物などを届けてくれて、

着てだにも身をばはなつな旅衣さこそよそなる契りなりとも
(せめてこの衣(きぬ)を着てなりと身を放さないで〈私を思い出して〉下さい。こんなよそながらの御縁だったとしても)

 鎌倉にいる間は、いつでもこのように寄合っているというので、「怪しい、どんな間柄なのだろう」と申す人もあるなどと聞いたことも、取り添え思い出されて、返歌に、

乾さざりしその濡れ衣(ぎぬ)もいまはいとど恋ひん涙に朽ちぬべきかな
(前に疑われても釈明しなかった、その濡衣も、今からあなたを思う涙で朽ちてしまう でしょう)
「袖」「涙」「旅衣」「契り」「濡れ衣」などの言葉が出てくる二人の歌は、明らかに読者に二人の間の交情を連想させるものである。そして「鎌倉のほどは、常にかやうに寄り合ふとて、『あやしく、いかなる契りなどぞ』と申す人もあるなど聞きしも」との表現は、読者がそのような反応をするであろうことを予想して作者が楽しんでいることを示しており、巻二の「院と亀山院小弓、負態に女房蹴鞠」の場面の「二三日かねてより局々に祗候して、髪結ひ、水干・沓など着ならはし候ふほど、傅たち経営して、養ひ君もてなすとて、片よりに事どものありしさま、推しはかるべし。」と並んで、作者と読者の関係を考えるうえで極めて興味深い箇所である。

後深草院二条の西行追慕についてはこちら(目崎徳衛氏『西行』)。なお、岩佐氏の前掲論文によれば「小夜衣」は特別の意味がある言葉なので、衣をめぐる歌の後に「小夜」が出てくるのは偶然ではないようにも感じられる。

 帰京を急ぐというわけではないけれども、そういつまでとどまっているわけにもいかないので、朝日とともに、すっかり明けてから出立(しゅったつ)した。馴染んだめいめいが、宿(しゅく)から宿へと、順次に輿(こし)で送ってくれたりして、程なく小夜(さや)の中山に着いた。西行が「いのちなりけり」と詠んだ歌が思い出されて、

越えゆくも苦しかりけり命ありとまた訪はましや小夜の中山
(小夜の中山を越えてゆくのもつらいことだ。今後命があるとしても、ここをまた訪ねることがあるだろうか)

 熱田の宮に詣でた。参籠して通夜をしているときに、そこにいた修行者たちが、「伊勢の大神宮から参りました」という。「近いでしょうか」と聞くと、大神宮へは津島の渡りというのをして参るのだという。たいそううれしくなり、参宮をしようと思ったが、宿願なので、まずこの熱田の社で華厳経の残り、あと三十巻を書き終え申そうと思って、なんとはなく鎌倉でちょっと人々が下さった旅衣などを、みなとり集めて、またここで写経を始めようという気持になったところ、熱田の大宮司とかいう者が、めんどうにいろいろと申すことがあって、できそうになかったので、どうしようかとためらっているうち、例の持病がひどく起り、つらくてなんの修行もできそうもなかったので、都に帰り上ることにした。



熱田社については三田村雅子氏「後深草院二条−夢を生きる−」が参考となる。



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