更新12.2/6 up12.2/5


原文を見る
『とはずがたり』巻4.「石清水八幡で院と邂逅」




原文(『とはずがたり(下)全訳注』p281以下)


 かやうにしつつ年も返りぬ。二月(きさらぎ)のころにや都へ帰りのぼるついでに八幡(やはた)へ参りぬ。奈良より八幡は道のほど遠くて、日の入るほどに参り着きて、猪鼻(ゐのはな)をのぼりて宝前へ参るに、石見(いはみ)の国のものとて矮人(ひきうど)の参るを、行きつれて、「いかなる宿縁にてかかるかたは人となりけんなど、思ひ知らずや」といひつつ行くに、馬場殿の御所あきたり。

 検校(けんげう)などが籠(こも)りたる折もあけば、かならず御幸などいひ聞かする人も、道のほどにてもなかりつれば、思ひも寄り参らせで過ぎゆくほどに、楼門(ろうもん)を上るところへ、召次(めしつぎ)などにやとおぼゆる者出できて、「馬場殿(どの)の御所へ参れ」といふ。

 「誰(たれ)かわたらせ給ふぞ。誰と知りて、さることを承るべきことおぼえず。あの矮人(ひきうど)などがことか」といへば、「さも候はず。まがふべきことならず。御ことにて候ふ。一昨日(をととひ)より、富の小路殿の一院御幸にて候ふ」といふ。ともかくも物も申されず。

 年月は、心のうちに忘るる御ことはなかりしかども、一年(ひととせ)今はと思ひ捨てし折、京極(きやうごく)殿の局(つぼね)より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに、苔(こけ)の袂(たもと)、苔の衣、霜雪霰(あられ)にしをれ果てたる身の有様は、誰(たれ)かは見知らんと思ひつるに、誰か見知りけんなど思ひて、なほ御所(ごしよ)よりの御こととは思ひ寄り参らせで、女房たちの中にあやしと見る人などのありて、ひが目にやとて問はるるにこそ、など案じゐたるほどに、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)一人走りて、「とく」といふなり。

 何とのがるべきやうもなければ、北の端(はし)なる御妻戸(つまど)の縁に候(さぶら)へば、「なかなか人の見るも目立たし。内へ入れ」と仰せある御声は、さすが昔ながらに変らせおはしまさねば、こはいかなりつることぞと思ふより胸つぶれて、少しも動かれぬを、「とくとく」と承れば、なかなかにて参りぬ。



次田香澄氏による現代語訳

 このようにしつつ年も改まった。二月のころであろうか、都へ帰り上るついでに石清水 (いわしみず)八幡宮に参詣した。奈良から八幡(やわた)へは道のりが遠くて、日没のころに参り着いて、猪鼻(いのはな)をのぼって神宮へ参るとき、石見(いわみ)の国の者といって矮人(こびと)たちが参るのと行き連れになり、「どんな宿縁でこうしたかたわ人に生れたのだろう、などと思うことはありませんか」と(かたわらの人に)話しながら歩いていると、馬場殿の御殿があいている。

 この御殿は石清水の検校(けんぎょう)などが籠(こも)る際にも開くことであるし、たしかに院の御幸です、などと教えてくれる人も、道の途中でもなかったので、思い寄りもせず過ぎてゆくうちに、社の楼門(ろうもん)を上るところへ、召次(めしつぎ)などかと思われる者がやってきて、「馬場殿の御所へおいでなさい」という。

 「どなたかおいでになっていらっしゃるのですか。私をだれと御承知になって承るのか、思いあたりません。あの矮人などのことでしょうか」といえば、「そうではございません。間違いではありません。あなたでございます。一昨日から富小路殿の一院(後深草院)の御幸でございます」という。なんとも言葉も出ない。

 この年月、心の中に忘れ申すことはなかったけれども、先年、いまはこれまでと御所を退出した折、京極殿の局(つぼね)から御前へ参上したのを、この世でお目に掛る最後と思っていたので(そまつな墨染の)衣を着て、霜雪霰(あられ)に打たれ、しおれ果てた身の有様を、だれもわかるはずはないのに、だれが見つけたのだろうなどと思い、なお院からの直接のお召しとはまだ思い寄らず、女房たちの中に私をいぶかしく見る人でもあって、人ちがいかと尋ねられるのだろう、などと考えているうちに、北面(ほくめん)の武士一人が走ってきて、「早く」とせかす。

 何と逃れようもないので、御殿の北の端の、妻戸の縁にひかえていると、「そこではかえって人目に立つ。中へはいりなさい」とおっしゃられるお声は、さすが昔のままお変りにならない院のお声なので、これはどうしたことだと思うと、ふと胸を衝(つ)かれてすこしも動かれないのを、「はやく、はやく」とおっしゃるので、御遠慮してもかえって失礼と思って、内に入った。



※久しぶりの後深草院との対面であり、前後の記事との関係から1291年(正応4)2月、後深草院49歳、二条34歳のときの出来事とされている。ただし後深草院の石清水参籠がなされたのは史実ではこの年の4月26日から7日間であり、2月のことではない。
 この段で二条が「矮人(ひきうど)」に「いかなる宿縁にてかかるかたは人となりけんなど、思ひ知らずや(どんな宿縁でこうしたかたわ人に生れたのだろう、などと思うことはありませんか)」と言ったというのは、仮に作り話だとしても、ずいぶん残酷な話である。「宿縁」というのは「前世からの因縁。前業の報い」であって、「矮人」にとってみれば、自らの力で如何ともしがたいことであり、そんなことを人から面と向かって言われたらたまらないはずである。
 ま、それはともかく、後深草院が登場する場面で二条が「矮人」を「かたわ人」と呼んでいることは、相当に微妙な問題を孕んでいるような感じがする。
 というのは、『増鏡』には11歳で元服した当時の後深草院が「余りささやかにて、また御腰などのあやしくわたらせ給ふ(ひどく小柄で、また御腰などが普通の状態でおありにならなかった)」と書かれていて(原文はこちら。)、これをもって幼少期の後深草院が身体障害者であったと考える学者もおり、例えば三田村雅子氏(「鎌倉宮将軍の源氏物語絵」)は「后腹の後深草の身体に障害があり、腰が据わらず、歩くことも困難であった」などと言われているのである。
 『増鏡』などより遙かに信頼できる『弁内侍日記』を読む限り、後深草院がそんなにひどい状況だったとは私にはとうてい思えないが、そうはいっても後深草院が小柄な人であったことは確からしく、『天子摂関御影』という鳥羽院から後醍醐院までの肖像を描いた絵巻を見ると、後嵯峨院・亀山院・後宇多院・伏見院がほぼ同じくらいの体格なのに対し、後深草院は明らかに小さく描かれている。(なお、若干12歳で亡くなった四条院は後深草院よりさらに小柄に描かれている。)
 そこで、改めてこの石清水参詣の場面を読み返してみると、話の流れから見て「矮人」は絶対に必要な登場人物ではなく、『とはずがたり』の作者が重要な事実のみを記録するという態度で臨んでいるなら、別に削除してもおかしくない話である。
 それなのに、後深草院が小柄な人であることを熟知している二条が「矮人」を登場させて「かたは人」などと言っていることは、やはり後深草院に対する二条の悪意の現れなのではないかと疑いたくなる。
 そしてその疑いは、巻5の熊野参籠の場面で、二条の夢に「右の方へちとかたぶかせおはしましたる」後深草院が登場し、二条が傍らの父雅忠に「十善の床をふみましましながら、いかなる御宿縁にて、御かたははわたらせおはしますぞ」と言うことを考え合わせると、ますます強まるのである。


※石清水八幡宮についてはこちら。(『日本史大事典』)




工事中

トップページ 原文を見る 次の場面