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『とはずがたり』巻4.「院と語り明かす」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p285以下)


 「ゆゆしく見忘られぬにて、年月隔(へだた)りぬれども、忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などよりはじめて、昔今の事ども、「移り変る世のならひ、味気(あぢき)なく思し召さるる」など、さまざま承りしほどに、寝ぬに明けゆく短か夜は、ほどなく明けゆく空になれば、「御籠(こも)りのほどはかならず籠りて、またも心静かに」など承りて、立ち給ふとて、御肌に召されたる御小袖を三つ脱がせおはしまして、「人知れぬ形見ぞ、身を放つなよ」とて賜はせし心のうちは、来(こ)し方(かた)行く末の事も、来(こ)ん世の闇も、よろづ思ひ忘れて、悲しさもあはれさも何と申しやる方なきに、はしたなく明けぬれば、「さらばよ」とて引き立てさせおはしましぬる御名残は、御あと懐しく、にほひ近きほどの御移り香も、墨染(すみぞめ)の袂にとどまりぬる心地して、人目あやしく目立たしければ、御形見の御小袖(こそで)を墨染の衣の下に重ぬるも、びんなく悲しきものから、

重ねしもむかしになりぬ恋ごろもいまは涙に墨染の袖

 むなしく残る御面影を袖の涙に残して立ち侍るも、夢に夢見る心地(ここち)して、今日ばかりもいかでいま一たびも、のどかなる御ついでもやなど思ひ参らせながら、憂き面影も、思ひ寄らずながらは、力なき身のあやまりとも思し召されぬべし。あまりにうちつけにとどまりて、またの御言の葉を待ち参らせがほならんも、思ふところなきにもなりぬべしなど、心に心をいましめて都へ出づる心の中、さながらおしはかるべし。

 御宮めぐりをまれ、いま一たびよそながら見参らせんと思ひて、墨染の袂は御覧じもぞつけらるると思ひて、賜(たま)はりたりし御小袖を上に着て、女房の中にまじりて見参らするに、御裘代(きうたい)の姿も昔には変りたるも、あはれにおぼえさせおはしますに、階(きざはし)のぼらせおはしますとては、資高(すけたか)の中納言、侍従の宰相(さいしやう)と申しし頃にや、御手を引き参らせて入らせおはします。「同じ袂なつかしく」などさまざま承りて、いはけなかりし世の事まで数々仰せありつるさへ、さながら耳の底にとどまり、御面影は袖の涙に宿りて、御山を出で侍りて都へと北へはうち向けども、わが魂はさながら御山にとどまりぬる心地して帰りぬ。



次田香澄氏による現代語訳
私の立場からの補足
 「よくも忘れずにおまえを(群衆の中から)見つけたということで、年月隔たっても忘れなかった心の程はわかってくれよ」などから始めて、昔から今までのことどもを、「移り変る世の習いを味気なく思っている」などとさまざまおっしゃるのを、うかがっているうちに、春の短夜は寝る間もなく明るくなってきたので、「この参籠(さんろう)の間はおまえもかならず籠って、また心静かに話をしよう」とおっしゃって、お立ちになろうとして、お肌に召された御小袖を三枚お脱ぎになられ、「人にはいわぬ形見だ。身からはなすなよ」といって、ちょうだいした心の中は、来(こ)し方(かた)行く末の事も、来世の闇もすべて思い忘れて、悲しさも哀れさもなんとも申しようもないのに、無情にも夜が明けてしまったので、「ではな」と言って、私をお引き立てになられて立ち去られた御名残は、お後が懐しく、御身近く過した院の移り香も墨染(すみぞめ)の袂に残る心地がし、人目にあやしく目立ちそうなので、御形見の小袖を墨染の衣の下に重ねるのも、やむをえず悲しくはあるけれど、

重ねしもむかしになりぬ恋ごろもいまは涙に墨染の袖 (たがいに衣の袖を重ねて契った仲だったのも昔のことで、今は墨染の衣に重ねて涙に濡らすことですよ)

石清水での後深草院との対面は1291年(正応4)2月、後深草院49歳、二条34歳のときの出来事とされている。ただし史実では後深草院の石清水参籠はこの年の4月26日から7日間であり、2月のことではない。そしてこの場面の次に熱田社炎上の話が出てくるが、史実としては熱田社が炎上したのは2月2日であって、『とはずがたり』を基本的に事実の記録だと考える立場の学者は石清水参籠との前後関係を問題にせざるを得ないことになる。詳しくはこちら。(三田村雅子氏「後深草院二条−夢を生きる−」)
石清水八幡宮についてはこちら。(『日本史大事典』)
この石清水の一夜において「僧体の男女の交情」があったか否かについて国分学会では真剣な議論がなされているのであるが(八嶌正治氏「頽廃の魅力」)、岩佐美代子氏(「『とはずがたり』における和歌表現−「衣」をめぐる考察−」)が詳細に論じられているように、「肌小袖を賜わった事によって、肉体交渉の存在は自明」である。ただ、それは作り話としての『とはずがたり』にそう書いてあるだけであって、国家の重事を祈願するために伊勢神宮に次ぐ国家の宗廟たる石清水八幡宮に参籠した後深草院が、史実としてそのような行為をしたはずはないと私は考える。
「心に心をいましめて都へ出づる心の中、さながらおしはかるべし。」という表現は明らかに読者を意識したものである。類似の表現は巻2の女房蹴鞠の場面にも見られる。
 むなしく残る御面影を袖の涙に残して退出したのも、夢に夢見る心地がして、今日だけでも、なんとかしていま一度、ゆっくりした機会はなかろうか、など思い申しあげながら、いやこんなみじめな姿でお目にかかるのも、(このような)思いがけない様子でなら仕方がない事情と思って許していただけよう。いい気になって逗留(とうりゅう)して、またのお召しを待ち顔なのも、あまりに思慮がなさ過ぎることだろうなど、残る心を強(し)いてみずから抑えて都へと出発する心の中、すべて推しはかってほしい。

 摂社の御巡拝をなりと、いま一度よそながら見申しあげようと思って、墨染の袂の姿では、私とお見付けになってしまうだろうと思い、ちょうだいした御小袖を上にかずき着て、(物見の)女たちの中にまじって見申しあげると、(御参拝のための)御法服の姿が昔の御姿とは変っていられるのも、あわれ深く存じあげるが、階段をお上りになるときには、資高(すけたか)の中納言がまだ侍従の宰相と申したころだったろうか、御手を引き申しあげて、お入りになられる。

「資高の中納言」は二条資高(1265〜1304.40歳)のこと。巻2の女房蹴鞠の場面で後深草院の相談相手として登場する二条資季(1207〜1289.83歳)の孫で、その猶子。巻2の巻末、「近衛大殿」が伏見殿で二条と関係を持つ場面にも登場する。1291年(正応4)3月25日に27歳で任参議兼侍従。1296年、任権中納言。
 ゆうべは「(おまえも私も)同じ墨染の袂になったのを懐しく思うよ」などさまざまにおっしゃって、私が幼かった当時の事までかずかず仰せられたことさえも、そっくり耳の底に残り、御面影は袖の涙に宿って、石清水の御山を出て都へと足は北へ向っても、私の魂はそのまま御山にとどまってしまった心地で帰った
後深草院二条をモデルとした瀬戸内晴美氏の小説『中世炎上』においては、この後、後深草院との愛欲の一夜を覗き見た矮人を二条が絞殺するという恐るべき話が展開される。いくら小説とはいえ、それまでは『とはずがたり』を忠実になぞっておきながら、唐突に二条を殺人者にするのはひどいと思うが、この点については水原一氏も激怒されている。(「『とはずがたり』の虚構性をめぐって」



『とはずがたり』の奇妙さについて

 次田香澄氏はこの段の「解説」において、「一夜院とともに語るが、院に別れて後の感懐に、「夢に夢見る心地」とあるのをはじめ、はなはだ印象深く心を動かした様子がみられるのはやや奇異の感を覚える。あれほど冷たい仕打ちをうけて退出させられたのに、旅の間にくり返し思慕を記しつづけ、今またにわかに優しくされてここまで感動する、巻四・五を通しての大きな主題にかかわるだけに、いろいろの問題を含む。」と述べておられるが、『とはずがたり』の各場面の記述を整合的に理解しようとする限り、次田香澄氏の疑問は永遠に解決されないのではないかと思われる。
 『とはずがたり』の読者は、ひとつひとつの場面を、何とまあ「リアル」で面白い話だなあと楽しめばよいのであって、他の場面との整合性を真剣に考え込んだり、年表を作って、『とはずがたり』の記事と後深草院の石清水参詣や熱田社炎上といった史実と照らし合わせ、どうも史実とずれがあるようだ、などと深く悩んだりするのは、それ自体が無駄な作業だ、と私は考える。
(『とはずがたり』の奇妙な構造についての私の考え方はこちら。)






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