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| 原文(『とはずがたり(下)全訳注』p235) かかるほどに、後深草の院の皇子(わうじ)、将軍に下り給ふべしとて、御所(ごしよ)造りあらため、ことさら世の中はなやかに、大名七人御迎へに参ると聞きしなかに、平左衛門入道(へいさゑもんにふだう)が二郎、飯沼(いひぬま)の判官(はうぐわん)、未だ使の宣旨もかうぶらで、新左衛門と申し候ふがその中に上るに、流され人の上り給ひしあとをば通らじとて、足柄山(あしがらやま)とかやいふところへ越えゆくと聞えしをぞ、みな人あまりなることとは申し侍りし。御下り近くなるとて、世の中ひしめくさま、事ありがほなるに、いま二三日になりて、朝(あした)とく小町殿よりとて文(ふみ)あり。 何ごとかとてみるに、思ひかけぬことなれども、平入道が御前(ごぜん)、御方(かた)といふがもとへ東二条院より五つ衣(ぎぬ)を下し遣(つかは)されたるが、調(てう)ぜられたるままにて縫ひなどもせられぬを、申し合はせんとて、さりがたく申すに、「出家の習ひ苦しからじ。そのうへ誰(たれ)とも知るまじ。ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたびかなふまじきよしを申ししかども、果ては相模(さがみ)の守(かみ)の文(ふみ)などいふものさへとり添へて、何かといはれしうヘ、これにては何とも見沙汰(みさた)する心地にてあるに、安かりぬべきことゆゑ、何かと言はれんもむつかしくて、まかりぬ。 相模の守の宿所(すくしよ)のうちにや、角殿(すみどの)とかやとぞ申しし。御所(ごしよ)さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉(こんごんきんぎよく)をちりばめ、光耀鸞鏡(くわうえうらんけい)を瑩(みが)いてとはこれにやとおぼえ、解脱(げだつ)の瓔珞(やうらく)にはあらねども、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、几帳(きちやう)の帷子(かたびら)引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。 御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣(ぎぬ)に、白き裳(も)を着たり。みめことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道(にふだう)あなたより走りきて、袖(そで)短かなる白き直垂(ひたたれ)姿にて馴れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地(ここち)し侍りし。 御所よりの衣(きぬ)とて取り出だしたるをみれば、蘇芳(すはう)の匂ひの内へまさりたる五つ衣(ぎぬ)に、青き単(ひとへ)重なりたり。上は、地は薄々と赤紫に、濃き紫、青き格子(かうし)とを、かたみがはりに織られたるを、さまざまに取りちがへて裁ち縫ひぬ。重なりは内へまさりたるを、上へまさらせたれば、上は白く二番は濃き紫などにて、いと珍らかなり。「などかくは」といへば、「御服所(ごふくどころ)の人々も御暇(ひま)なしとて、知らずしに、これにてして侍るほどに」などいふ。をかしけれども、重なりばかりはとり直させなどするほどに、守(かう)の殿より使あり。 「将軍の御所の御しつらひ、外様(とざま)のことは比企(ひき)にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。これは、さほどに目あてられぬほどのことにてもなく、うちまかせて公(おほやけ)びたる御事どもなり。御しつらひのこと、ただ今とかく下知(げち)しいふべきことなければ、「御厨子(づし)の立て所(どころ)所らく御衣(きぬ)の掛けやうかくやあるべき」などにて帰りぬ。 すでに将軍御着きの日になりぬれば、若宮小路は所もなく立ち重なりたり。御関迎への人々、はや先陣は進みたりとて二三十、四五十騎、ゆゆしげにて過ぐるほどに、はやこれへとて、召次(めしつぎ)などていなる姿に直垂(ひたたれ)着たるもの、小舎人(ことねり)とぞいふなる二十人ばかり走りたり。 そののち大名ども、思ひ思ひの直垂(ひたたれ)に、うち群れうち群れ、五六町にもつづきぬとおぼえて過ぎぬるのち、女郎花(をみなへし)の浮織物の御下衣(したぎぬ)にや召して、御輿(こし)の御簾(すだれ)あげられたり。のちに飯沼の新左衛門、木賊(とくさ)の狩衣(かりぎぬ)にて供奉(ぐぶ)したり。ゆゆしかりしことどもなり。 御所には、当国司・足利より、みなさるべき人々は布衣(ほうい)なり。御馬(むま)引かれなどする儀式めでたくみゆ。三日にあたる日は、山内(やまのうち)といふ相模殿(さがみどの)の山荘へ御入りなどとて、めでたくきこゆることどもを見聞くにも、雲居(くもゐ)の昔の御ことも思ひ出でられてあはれなり。 |
| 次田香澄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| こうしているうちに、後深草院の御子(久明親王)が将軍としてお下りになることになったというので、御所を造り改め、格別世の中もはなやかに、大名が七人お迎えに参ると聞いた中に、平左衛門入道(平頼綱)の次男の飯沼の判官(資宗)、まだ検非違使尉(けびいしのじょう)の正式の任命を蒙らないで新左衛門と申していたのが、その人数にいて上洛した。(一行は)流され人のお上りになったあとを通るまいとて、足柄山とかいう所へ越えて行くと聞えたのを、だれもあんまりなことだと申した。 御下りが近くなったというので、世間が騒ぎ立つさまは、事があるような様子であるが、あと二三日というころになって、朝早く小町殿からといって手紙があった。 |
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| 何ごとかと思ってみると、思いがけないことであるけれど、平左衛門入道の奥方、御方という者のところへ、東二条院から五つ衣(ぎぬ)を下し遺わされたのが、生地(きじ)をとりそろえたままで縫いなどもされていないのを、相談したい、ぜひにと申すので(いったん断わったが)、
「出家の姿は(どこでも自由なのだから)さし支えないでしょう。そのうえ、だれともわかりますまい。ただ京の人と申しただけなのですから」
と、しいて申されたのもわずらわしいので、たびたび辞退申したけれども、はては相模守(さがみのかみ)の手紙などいうものまで取添えてなにかと言われたうえ、小町殿は自分を何ごとも面倒みてくれるつもりなので、なんでもないことのために、なにかといわれるのもわずらわしくて、平入道の所へいった。 |
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| (そこは)相模守の邸内であろうか、角殿(すみどの)とか申した。(将軍の)御所の方の御しつらいは普通の程度である。こちらは金銀・金玉をちりばめ、鸞鏡(らんけい)を磨いたように光り輝いてとは、こういうのを言うのだろうかと思われ、極楽浄土の装飾ではないが、綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)を身にまとい、几帳(きちょう)の帷子(かたびら)・引き物まで目も輝き辺りも光る様子である。 |
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| 御方(かた)とかが出てきた。薄青の地に紫の濃淡の糸で、紅葉を大きな木に織り浮かした唐織物のニつ衣(ぎぬ)に、白い裳(も)を着ている。容貌・体つきが堂々として、丈が高く大きい。このようにたいしたものとみているうち、入道があちらから小走りに出て来て、袖短かの白い直垂(ひたたれ)姿で馴れ顔に御方の側に座ったのは興ざめな心地がした。 |
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| 東二条院からの衣とて取り出したのをみれば、蘇芳(すおう)色の匂いで内のぼうへしだいに濃くなっている五つ衣に、青い単(ひとえ)が重なっている。表着(うわぎ)は、地は薄々と赤紫色に、濃い紫と青色の格子(こうし)を段がわりに織られた衣を、さまざまにとり違えて裁ち縫ってしまっている。五つ衣の重なりは内の方へ濃くすべきを、外へ濃くさせたから、上は白く二番目は濃い紫といったふうで、はなはだ妙なさまである。「どうしてこんなふうに」というと、「御服所の人々もお暇がないということで、よく知らないまま、ここでいたしましたので」などいう。おかしく思ったが、重ね方だけは直させなどするうちに、相模守殿から使いが来た。 |
このすぐ後の場面でも、後深草院二条は本当は人にものを教えるのが好きで好きで仕方ないのに、表面的にはあくまで謙虚に奥ゆかしく、何度も頼まれましたので仕方なく私の見解を述べさせていただきます、みたいな形にしているのが面白い。 |
| 「将軍の御所の設備を、表向きの方は比企(ひき)の担当で男たちが手配申しあげているが、常の御所の室内の装飾を京の人にみせなさい」
といわれた。とは何ごとだとわずらわしいけれども、ゆきがかりのところでもあり、冷淡なふうにいうべきではないので、御所へ参った。これはそれほどひどいというほどのことでもなく、一通りに正式の風にできている。御飾りつけのことは、ただ今とやかく指示して言うようなことはなかったので、「御置棚の立て所や御衣(おんぞ)の掛けようはこんなふうがよろしいでしょうか」などいったことで帰った。 |
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| もはや将軍がお着きという日になると、若宮小路は場所もなく人立ちがしている。関所までお出迎えの人々は、はや先陣は進んできたということで、二三十騎・四五十騎が立派な様子で過ぎるうち、もう行列がこちらへ来られたとて、ちょうど召次などの風体(ふうてい)で、直垂(ひたたれ)を着た小舎人(ことねり)とかいうものが二十人ばかり走ってきた。 その後大名たちが思い思いの直垂で、うち群れ五六町も続いたと思われて過ぎたのち、新将軍が女郎花(おみなえし)の浮織物の御下衣(したぎぬ)であろうか召されて、御輿(みこし)の御簾(みす)を上げていられる。うしろに飯沼の新左衛門が木賊(とくさ)色の狩衣(かりぎぬ)でお供を申しあげている。すばらしいことである。 御所では当国司(北条貞時)・足利貞氏をはじめ、みなしかるべき人々は布衣(ほうい)である。馬御覧の儀で御馬を引かれなどする儀式はりっぱにみえた。三日目に当る日は、山の内という相模殿の山荘へおはいりなどといってめでたく聞えることをいろいろ見聞くにつけても、院の御所での昔の御ことが思い出されて感慨が深い。 |
このとき朝廷側の随行者代表は堀川基俊(1261〜1319.59歳)だったが、これを鎌倉で迎えた後深草院二条は基俊について何ら言及していない。(なお、基俊が万秋門院とともに『増鏡』巻12「浦千鳥」に登場する場面はこちら。) |