更新11.11/23 up11.11/18


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『とはずがたり』巻4.鎌倉の展望、鶴岡八幡宮




原文(『とはずがたり(下)全訳注』p218)


 明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)をみれば、東山(ひんがしやま)にて京を見るにはひきたがへて、階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。

 由比(ゆひ)の浜といふところへ出でてみれば、大きなる鳥居あり。若宮の御社はるかにみ え給へば、他の氏よりはとかや誓ひ給ふなるに、契りありてこそさるべき家にと生(むま)れ けめに、いかなる報いならんと思ふほどに、まことや、父の生所(しやうじよ)を祈誓申したりし折、 「今生(こんじやう)の果報にかゆる」と承りしかば、恨み申すにてはなけれども、袖をひろげんをも嘆くべからず。

 また小野小町も衣通姫(そとほりひめ)が流れといへども、簀(あじか)を肘(ひじ)にかけ蓑を腰に巻きても、身のはてはありしかども、わればかり物思ふとや書き置きし、など思ひつづけても、まづ御社へ参りぬ。

 所のさまは、男山(をとこやま)の景色よりも、海みはるかしたるは見どころありともいひぬべし。大名ども浄衣(じやうえ)などにはあらで、いろいろの直垂(ひたたれ)にて参る、出づるも様(やう)変りたる。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 夜が明けると鎌倉へはいったが、極楽寺という寺へ参ってみると、僧の所作は都と違わないのをなつかしく思ってみた。化粧坂(けわいざか)という山を越えて鎌倉のほうをながめると、東山で京をみるのとはだいぶ違って、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたようにぎっしりと住まっているのは、ああやりきれない、とだんだん見えてきて、心の惹かれるような気もしない。

『とはずがたり』では、後深草院二条は将軍惟康親王(1264〜1326.63歳)が廃せられて久明親王(1276〜1328.53歳)が新たな将軍として迎えられた年、即ち1289年に鎌倉を訪問したことになっている。

極楽寺で二条が拝んだであろう本尊は、『増鏡』が語られる舞台として設定されている清涼寺の三国伝来の釈迦像を模した清涼寺式釈迦如来像である。
 なお、極楽寺から化粧坂を越えて鎌倉に入るという行程は奇妙であるが、この点についての私の考え方はこちら


後深草院二条が父親の発言として述べることは自慢話などの変な話が多い。その一例はこちら
 由比の浜というところへ出てみると、大きな鳥居がある。若宮のお社がはるかにお見えなので、− 他の氏よりはとくに源氏を守って下さるとか、お誓いになっているということだが、自分は縁があったればこそ源氏の名門に生れたのだろうに、どういう報いでこうなのであろうと考えてみると、− そうだった、父が来世に極楽に生れ変るようにと(石清水八幡に)祈誓申した折、「おまえの現世の幸福と引替えに、かなえよう」と承ったので、(それを)恨み申すわけではないけれど……たとえ乞食の境涯におちても嘆くことはできない。

 また小野小町も衣通姫の流れといっても、簀(あじか)を肘にかけ簑(みの)を腰に巻いても、晩年を過さねばならなかったけれども、私ほど物思いをしたとは書き置いていないのに、など思い続けながらも、まずお社へ参詣した。

 所のさまは、男山の景色よりも、海をはるかに見わたすのは見どころがあるともいうべきだろう。大名たちが浄衣(じょうえ)などではなくて、いろいろの色の直垂(ひたたれ)で参詣し下向するのも、都とは様子が変っている。

当時の鶴岡八幡宮の様子は現在のそれと相当に異なる。この点の詳細はこちら。(貫達人氏『鶴岡八幡宮寺−鎌倉の廃寺』)




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