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『とはずがたり』巻4.「小町殿と交通、病臥、新八幡放生会」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p221)


 かくて荏柄(えがら)・二階堂・大御堂(おほみだう)などいふところども拝みつつ、大蔵(おほくら)の谷(やつ)といふ所に、小町殿とて将軍に候(さぶら)ふは、土御門の定実のゆかりなれば、文遣はしたりしかば、「いと思ひ寄らず」といひつつ、「わがもとヘ」とてありしかども、なかなかむつかしくて、近きほどに宿をとりて侍りしかば、「たよりなくや」など、さまざまとぶらひおこせたるに、道のほどの苦しさもしばしいたはるほどに、善光寺(ぜんくわうじ)の先達(せんだち)に頼みたる人、四月(うづき)の末つ方(かた)より大事に病み出だして、前後を知らず、あさましとも言ふばかりなきほどに、少しおこたるにやと見ゆるほどに、わが身またうち臥しぬ。

 二人になりぬれば、人も「いかなることにか」といへども、「ことさらなることにてはなし。ならはぬ旅の苦しさに持病(じびやう)の起りたるなり」とて、医師(くすし)などは申ししかども、いまはといふほどなれば、心細さもいはん方なし。

 さほどなき病にだにも、風の気(け)、はなたりといへども、少しもわづらはしく、二三日にも過ぎぬれば、陰陽(おんやう)・医道の洩るるはなく、家に伝へたる宝、世に聞えある名馬まで、霊杜霊仏に奉る。南嶺(なんれい)の橘(たちばな)、玄圃(けんぽ)の梨、わがためにとのみこそ騒がれしに、病の床(ゆか)に臥してあまた日数はつもれども、神にも祈らず仏にも申さず、何を食ひ何を用ゐるべき沙汰にも及ばで、ただうち臥したるままにて、明かし暮らす有様、生(しやう)を変へたる心地すれども、命は限りあるものなれば、六月(みなづき)のころよりは心地もおこたりぬれども、なほ物参り思ひ立つほどの心地はせで、ただよひありきて、月日むなしく過ぐしつつ、八月(はづき)にもなりぬ。

 十五日の朝(あした)、小町殿のもとより、「今日は都の放生会(はうじやうゑ)の日にて侍る、いかが思ひ出づる」と申したりしかば、

思ひ出づるかひこそなけれ石清水同じ流れの末もなき身は

返し、

ただ頼め心のしめの引く方に神もあはれはさこそ掛くらめ

 また鎌倉の新八幡(やはた)の放生会といふことあれば、事の有様もゆかしくて、立ち出でて みれば、将軍御出仕の有様、所につけてはこれもゆゆしげなり。大名どもみな狩衣(かりぎぬ)に て出仕したる、直垂(ひたたれ)着たる帯刀(たちはき)とやらんなど、思ひ思ひの姿ども珍しきに、赤橋といふ所より、将軍車よりおりさせおはします折、公卿(くぎやう)・殿上人(てんじやうびと)少々御供したる有様ぞ、あまりにいやしげにも、ものわびしげにも侍りし。

 平左衛門入道(へいさゑもんにふだう)と申す者が嫡子、平二郎左衛門が、将軍の侍所(さぶらいどころ)の所司とて参りし有様などは、物にくらべば、関白などの御振舞とみえき。ゆゆしかりしことなり。流鏑馬(やぶさめ)、いしいしのまつりごとの作法(さはふ)・有様は、見てもなにかはせんとおぼえしかば、帰り侍りにき。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 このようにして荏柄(えがら)・二階堂・大御堂(おおみどう)などという所を巡拝した。さて大蔵の谷(やつ)という所に小町殿といって将軍に仕えている者は、土御門の定実の縁者なので、手紙をやったところ、「まったく思いも寄りませんでした」といって、「私のところへいらっしゃい」と返事があったが、かえってわずらわしく思って、そこ近いあたりに宿をとったところ、「便りなく御不自由ではありませんか」などと、いろいろ見舞ってくれたので、道中の疲れもしばらく休めていた。

 そのうちに、善光寺詣での案内者に頼んであった人が四月の末ごろからひどい病気になって、前後もわからず、情けないともなんとも言いようがなかったが、やがてその人が少しよくなったとみえたころ、私自身もまた寝込んでしまった。

荏柄は荏柄天神社、二階堂は頼朝が平泉中尊寺の二階堂を模して造った永福寺、大御堂は頼朝が父義朝の供養のために建立した勝長寿院のこと。
土御門定実(1241〜1306.66歳)は後嵯峨天皇の即位に多大の貢献をした土御門定通(1188〜1247.60歳)の孫。後深草院二条より17歳上の又従兄弟。後宇多院政下の1301年、太政大臣となった。『増鏡』では息子の雅房・親定ともども激賞されているが、この点についてはこちら

善光寺についてはこちら。(『日本史大事典』『国史大辞典』)
 病人が二人になってしまったので、人々も「どうしたことだろう」というけれども、「別に変ったことではありません。馴れない旅の疲れで持病が起ったのです」といって、いちおう医者などは頼んだが、もはやこれまでと思うくらいなので、心細さは言いようがない。

 さほどでない病でさえ、風邪気(かぜけ)とか洟(はな)が垂れたといっても、すこしでもぐあいが悪く、二三日も続くと、陰陽道・医道に手を尽くさぬところはなく、家に伝えた宝、世に聞えた名馬まで、霊社・霊仏に奉り、南嶺(なんれい)の橘、玄圃(けんぽ)の梨と、私一人のために騒がれたのに、病の床に臥して何日も経ったけれども、神にも祈らず仏にもお願いせず、なにを食べなにの薬を用いるというてだてもできないで、ただうち臥しているままで明かし暮らす有様は、まったく違った人間になったような心地がするけれども、命には限りがあるものなので、六月のころからは気分もだいぶよくなった。けれども、なお物詣でを思い立つほどの気持はしないで、なんとなく落着かぬ心地で月日をむなしく過して、八月になってしまった。

次田香澄氏はこの部分の「解説」において、「作者は生来心身ともに逞しかったが、時に大病をわずらうことがあった。巻二の一五段、巻三の二○段のごとく、人事不省になることもあった。」と述べておられるが、東へ西へと尋常ならざる健脚にまかせて歩きまわる二条が「時に大病をわずらう」のも変な話である。二条が本当に病臥していたのかは確かめようがないことではあるが、私はカモフラージュだと考えている。鎌倉に到着したとたん、惟康親王が流されるような大事件を目撃したりするのでは余りに不自然であるし、また少し後に平頼綱やその奥方に優越感丸出しで対応したり、飯沼助宗と遊び回る場面が出てくるので、そんな場面ばかりだと明るい「諸国漫遊記」になってしまうから、少し調子を抑えるために病気の話を作っているのだと私は考える。
 その十五日の朝、小町殿のところから、「今日は都の放生会(ほうじょうえ)の日でございます。どのように思い出していらっしゃいますか」といってきたので、

思ひ出づるかひこそなけれ石清水同じ流れの末もなき身は
(思い出してもかいのないことです。同じ源氏の流れでも、落魄した私の身は)

小町殿の返歌、

ただ頼め心のしめの引く方に神もあはれはさこそ掛くらめ
(ただ一心に神をお頼みなさい。神も同じ流れのあなたに、きっとあわれを掛けて下さるでしょう)
 
鶴岡八幡宮のホームページはこちら


 また鎌倉の新八幡(鶴岡八幡宮)の放生会ということが催されるというので、その様子も知りたくて出掛けてみると、将軍(惟康親王)御出仕の有様は、場所柄としてはこれもりっぱである。大名たちはみな狩衣(かりぎぬ)姿で出仕しており、直垂(ひたたれ)を着た帯刀(たちはき)とかいうものなど、思い思いの姿は珍しいが、赤橋というところから将軍が車をお隆りになられる折、公卿・殿上人が少々お供をしている有様は、あまりにそまつでもあり、わびしげでもあった。

 平左衛門入道(へいさえもんにゅうどう)と申す者の嫡子平二郎左衛門が、将軍の侍所(さぶらひどころ)の次官として参った有様などは、たとえていえば関白などの御振舞とみえた。たいしたことである。流鏑馬(やぶさめ)、またつぎつぎと行われる神事の作法・有様は、みてもなにになろうと思ったので、帰ってきた。



惟康親王(1264〜326.63歳)は父の宗尊親王(後嵯峨院皇子.後深草院・亀山院の異母兄.1242〜1274.33歳)が1266年に謀叛の疑いがあるとして鎌倉を追われると、わずか3歳で将軍宣下を受け、鎌倉幕府第7代将軍となった。1289年に父と同じく鎌倉を追われたときには26歳で、以後は嵯峨に隠棲した。詳しくはこちら。(瀬野精一郎氏「第七代惟康親王」)

1285年11月の霜月騒動で安達泰盛派を文字通り殲滅した平頼綱による専制政治下の状況についてはこちら。(網野善彦氏『蒙古襲来』)
次田香澄氏は「平左衛門入道と申す者が嫡子、平二郎左衛門」を平頼綱の長男宗綱とするが、「二郎」で「左衛門」なのだから、次男の飯沼助宗であろう。

『増鏡』でこの鶴岡八幡宮放生会の場面に対応する箇所はこちら







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