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『とはずがたり』巻4.「将軍惟康、都へ配流」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p228)


 さるほどに、幾ほどの日数も隔たらぬに、鎌倉に事出(い)で来べしとささやく。誰(た)がうへならんといふほどに、将軍都へ上り給ふべしといふほどこそあれ、ただ今御所を出で給ふといふをみれば、いとあやしげなる張輿(はりこし)を対(たい)の屋のつまへ寄す。丹後の二郎判官(はうぐわん)といひしやらん、奉行(ぶぎやう)して渡し奉るところヘ、相模の守(かみ)の使とて、平二郎左衛門出で来たり。

 その後(のち)先例なりとて、「御輿さかさまに寄すべし」といふ。またここには未だ御輿だに召さぬさきに、寝殿には小舎人(ことねり)といふ者のいやしげなるが、藁沓(わらうづ)はきながら上(うへ)へのぼりて、御簾(みす)引き落しなどするも、いと目もあてられず。

 さるほどに、御輿出でさせ給ひぬれば、めんめんに女房たちは、輿などいふこともなく、物をうち被(かづ)くまでもなく、「御所はいづくへ入(い)らせおはしましぬるぞ」などいひて、泣く泣く出づるもあり。大名など心寄せあるとみゆるは、若党など具(ぐ)せさせて、暮れゆくほどに、送り奉るにやとみゆるもあり。思ひ思ひ心々に別れゆく有様は、いはん方なし。

 佐介(さすけ)の谷(やつ)といふところへまづおはしまして、五日ばかりにて、京へ御上りなれば、御出での有様も見参らせたくて、その御あたり近きところに、押手(おしで)の聖天(しやうでん)と申す霊仏おはしますへ参りて、聞き参らすれば、御立ち、丑(うし)の時と時をとられたるとて、すでに立たせおはします折ふし、宵(よひ)より降る雨、ことさらその程となりては、おびたたしく風吹き添へて、物など渡るにやとおぼゆるさまなるに、時たがへじとて出(い)だし参らするに、御輿を筵(むしろ)といふものにて包みたり。あさましく目もあてられぬ御様(やう)なり。

 御輿寄せて召しぬとおぼゆれども、何かとてまた庭にかき据ゑ参らせて、ほどふれば御洟(はな)かみ給ふ。いと忍びたるものから、たびたび聞ゆるにぞ、御袖(そで)の涙もおしはかられ侍りし。

 さても将軍と申すも、ゑびすなどがおのれと世をうち取りて、かくなりたるなどにてもおはしまさず。後の嵯峨の天皇、第二の皇子と申すべきにや、後深草のみかどには、御年とやらんほどやらん御まさりにて、まづ出でき給ひにしかば、十善(じふぜん)のあるじにもなり給はば、これも、位をも継ぎ給ふべき御身なりしかども、母准后(じゆごう)の御事ゆゑかなはでやみ給ひしを、将軍にて下り給ひしかども、ただ人(うど)にてはおはしまさで、中務(なかつかさ)の親王(しんわう)と申し侍りしぞかし。その御あとなれば、申すにや及ぶ。何となき御おもひ腹(ばら)など申すこともあれども、藤門執柄(とうもんしつぺい)の流れよりも出(い)で給ひき。いづ方につけてか、少しもいるがせなるべき御ことにはおはします、と思ひつづくるにも、まづ先立つものは涙なりけり。

五十鈴(いすず)川同じ流れを忘れずはいかにあはれと神も見るらん

御道のほども、さこそ露けき御ことにて侍らめとおしはかられ奉りしに、御歌などいふことの一つも聞えざりしぞ、前将軍の「北野の雪の朝ぼらけ」など遊ばされたり し御あとにと、いと口惜しかりし。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 そうこうしているうち、いくらも日数が経(た)たないのに、鎌倉に事が起りそうだとひそひそと噂が立つ。だれのことだろうといううちに、将軍が京にお帰りになるらしい、といっているまもなく、ただいま御所をお出になるというのを見れば、まことにそまつな張輿(はりごし)を対(たい)の屋の端へ寄せる。丹後(たんご)の二郎判官という者だったか、命を受けて親王を輿にお乗せ申しあげるところへ、相模守(さがみのかみ)の使いとて平二郎左衛門が出てきた。

 その後先例だといって「御輿(こし)をさかさまに寄せよ」という。また親王がまだ御輿にさえ召されぬ先に、寝殿では小舎人(ことねり)という賤しげな者が、藁沓(わらぐつ)をはいたまま御殿へ上って御簾(みす)を引落しなどするのも、まったく目もあてられない。そのうち御輿がお出になられると、女房たちはめいめいに、輿の仕度などということもなく、衣(きぬ)を頭にかずくまでもなく、「御所はどちらへいらっしゃったのでしょう」などいって、泣く泣く出てゆくものもある。大名などの中に親しくしている人があるとみえる女房は、若侍などに供をさせて、暮れゆくころに(どこか落着き先へ)女房を送り申すのであろうかとみえるのもある。思い思い、心々に別れゆく有様は言いようもない。

後深草院二条が鎌倉に着いたのは1289年3月。その半年後の同年9月に惟康親王(1264〜1326.63歳)は京都に追放された。この惟康親王追放の場面は『増鏡』に大幅に「引用」されているが、『増鏡』の当該部分はこちら

「丹後の二郎判官」は二階堂行貞(1269〜1329.61歳)のこと。このとき21歳。
「相模守」は北条貞時(1271〜1311.41歳)のこと。このとき19歳。
「平二郎左衛門」は平頼綱(?〜1293)の長男宗綱(生没年未詳)のこと。
 親王は佐介(さすけ)の谷(やつ)という所へまずおいでになって、五日ばかりで京へお上りなので、御出発の様子もお見上げしたくて、その辺り近い場所に、押手(おしで)の聖天(しょうでん)と申す霊仏がおいでになる所へ参って、人に聞き申すと、御出立(しゅったつ)は午前二時ごろと時を定められているということで、もはやお発(た)ちになる折柄、宵(よい)から隆っていた雨が、その頃となっては格別ものすごく風が吹き加わって、魔性(ましょう)の物などが通るのであろうかと思われるさまであるのに、時刻をたがえまいとて出立をおさせするが、御輿を筵(むしろ)というもので包んである。あまりひどくて、目もあてられない御様子である。

 御輿を寄せてお召しになったと思われたのに、なにかあるとみえて、またにわかに御輿を庭にかき据え申して、しばらくすると御洟(はな)をおかみになる。ごく忍びやかではあるものの、たびたび聞えるので、御袖(そで)の涙も推しはかられたことである。

このあたりの描写の分析は大岡信氏「女たちの中世−建礼門院右京大夫と後深草院二条」(『あなたに語る日本文学史』所収)に詳しい。
 さてもこの御方は、将軍と申しても、地方の武士などが自力で天下を討ち取って将軍になったなどいうことでもいらっしゃらない。御父の宗尊親王は、後嵯峨天皇の第二の皇子と申すべきだろうか、後深草のみかどよりは御年がほんのちょっと上でいらっしゃって、まずお生れになったので、もし(宗尊親王が)十善の天子にもおなりになったならば、この方(惟康親王)も皇位をお継ぎになるはずの御身だったけれども、(宗尊親王の)母の准后(じゅごう)の御身分が低かったゆえ、かなわないで終ってしまわれたが、将軍としてお下りになったけれども、皇族の御身分のままで、中務(なかつかさ)の親王と申しあげたのだった。(惟康親壬は)その後嗣でいらっしゃるので、高貴なことは申すまでもない。

 御子といってもなんということもない妾腹(しょうふく)ということもあるが、(惟康親王の)母方は藤原氏摂関の家からお出になった。御父方・御母方のどちらから言っても、すこしでも権成のゆるぐ方でいらっしゃろうか、と思い続けるにつけても、まず先立つものは涙であった。

五十鈴(いすず)川同じ流れを忘れずはいかにあはれと神も見るらん
(親王が同じ皇室の流れということをお忘れにならぬならば、伊勢の神もいかにあわれと御覧になることだろう)

惟康親王(1264〜326.63歳)は父の宗尊親王(1242〜74.33歳)が1266年に謀叛の疑いがあるとして鎌倉を追われると、わずか3歳で将軍宣下を受け、鎌倉幕府第7代将軍となった。鎌倉追放は26歳のときのことで、以後は嵯峨に隠棲した。
 惟康親王について、詳しくはこちら(瀬野精一郎氏「第七代 惟康親王」)。





惟康親王の母は関白近衛兼経(1210〜59.50歳)の娘宰子(1241〜?)。近衛兼経は『とはずがたり』「近衛大殿」に比定されている鷹司兼平(1228〜94.67歳)の兄である。兼経・兼平についてはこちら。(『鎌倉・室町人名事典』)

 京への道中もさぞ涙勝ちでいらっしゃるだろうと推しはかり申しあげたが、この時の御歌などいうものが一つも伝わらなかったのは、前将軍(宗尊親王)の「北野の雪の朝ぼらけ」などお詠みになった御子なのにと、まことに残念なことだった。
 
宗尊親王の「猶たのむ北野の雪の朝ぼらけあとなきことにうづもるる身も」という歌は、「あとなき」に雪に足跡がないことと無実の罪とを掛けたもの。「北野」は菅原道真を祀った北野天満宮のことで、宗尊親王は無実の罪で流された道真と自らの運命を重ね合わせた訳である。『増鏡』巻七の名「北野の雪」は宗尊親王のこの歌による。





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