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『とはずがたり』巻4.「鎌倉で和歌の交歓、川口の歳晩」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p244)


 やうやう年の暮にもなりゆけば、今年は善光寺(ぜんくわうじ)のあらましもかなはでやみぬと口惜(くちを)しきに、小町殿の、 これより残りをば刀にて破(や)られて候、おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしく候、…… 心のほかにのみおぼえて過ぎゆくに、飯沼(いひぬま)の新左衛門(さゑもん)は、歌をもよみ好き者といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふ者を使にてたびたび呼びて、続歌(つぎうた)などすべきよしねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情あるさまにて、たびたび寄り合ひて、連歌・歌などよみて遊び侍りしほどに、十二月(しはす)になりて、河越(かはごえ)の入道と申す者のあとなる尼の、武蔵の国川口といふ所へ下る、あれより、年返らば善光寺へ参るべしといふも、たよりうれしき心地してまかりしかば、雪降り積りて分けゆく道もみえぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。

 かやうの物へだたりたる有様、前には入間(いるま)川とかや流れたる。向へには、岩淵(いはぶち)の宿といひて、遊女どものすみかあり。山といふものはこの国内(くにうち)にはみえず。はるばるとある武蔵野の萱(かや)が下折れ、霜枯れはててあり。なかを分け過ぎたる住まひ思ひやる。都の隔たりゆく住まひ、悲しさもあはれさも、とり重ねたる年の暮なり。

 つらつら古(いにしへ)をかへりみれば、二歳の年母には別れければ、その面影も知らず。やうやう人となりて、四つになりし九月(ながつき)二十日あまりにや、仙洞(せんとう)に知られ奉りて、御簡(みふだ)の列(れち)に連なりてよりこの方(かた)、かたじけなく君の恩眷(おんけん)をうけたまはりて、身を立つるはかりごとをも知り、朝恩(てうおん)をもかぶりて、あまたの年月を経しかば、一門の光ともなりもやすると、心のうちのあらましも、などか思ひ寄らざるべきなれども、捨てて無為(むゐ)に入るならひ、定まれる世のことわりなれば、妻子珍宝及(きふ)王位、臨命(りんみやう)終時(しゆじ)不随者、思ひ捨てにし憂き世ぞかしと思へども、馴れこし宮のうちも恋しく、折々の御情も忘られ奉らねば、ことのたよりには、まづこととふ袖(そで)の涙のみぞ色深く侍る。

 雪さへかきくらし降り積れば、ながめの末さへ道絶えはつる心地して、ながめゐたるに、あるじの尼君が方より、「雪のうちいかに」と申したりしかば、

思ひやれ憂きことつもる白雪のあとなき庭に消えかへる身を

 問ふにつらさの涙もろさも、人めあやしければ、忍びてまた年も返りぬ。軒端(のきば)の梅に木伝ふ鶯(うぐひす)の音におどろかされても、あひみかへらざるうらみ忍びがたく、昔を思ふ涙は、あらたまる年ともいはずふるものなり。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 だんだん年も暮になってゆくので、今年は善光寺詣での計画も実現できないであろうと無念であるのに、小町殿の ここから残りを小刀で切り取られています。気掛りで、どうしたことかと不審に思います。 まったく心外とばかり思って過ぎてゆくうち、飯沼の新左衛門は、歌をも詠み風流人という名があったせいでか、若林の二郎左衛門という者を使いとしてたびたび私を呼んで、続歌(つぎうた)などしようと丁寧に申してきたので、行ってみたところ、思ったよりも心細やかなさまで、しばしば寄り合って連歌や歌などを詠んで遊んでいた。そのうち十二月になって、河越の入道と申す者の後家(ごけ)の尼が、武蔵の国川口という所へ下向するという。「そこから年が改まったら善光寺へ参詣する予定です」というのも、好い機会とてうれしい心地がしていっしょに川口へ向うと、雪が降り積って分けゆく道もみえないけれど、鎌倉から二日で行き着いた。

『とはずがたり』の記事切断に関しては三田村雅子氏「後深草院二条−夢を生きる−」に若干の分析がある。
「飯沼の新左衛門」は時の最高実力者平頼綱の二男、飯沼資宗(1267〜93.27歳)のこと。平頼綱と飯沼資宗については安田元久氏「平頼綱と長崎高資」、 森幸夫氏「平頼綱」、川添昭二氏「日蓮と北条時宗の被官平頼綱」、網野善彦氏「得宗御内人の専権」、峰岸純夫氏「永仁元年関東大地震と平禅門の乱」が参考となる。名字の地「飯沼」についてはこちら。(今井雅晴氏「平頼綱と『教行信証』の出版」)
 そこは、このように都からいよいよ隔たった田舎びた有様で、前には入間川とかが流れている。川向いには岩淵の宿といって遊女たちの住みかがある。山というものはこの国の内にはみえない。はるばると続く武蔵野の萱の下折れは霜枯れ果てている。その草むらの中を分けていって住んでいる人々の生活を想像する。都から隔たってゆくここの住まいは、悲しさも哀れさもとり重ねた年の暮である。

岩淵宿については西岡芳文氏 「水陸交通の要衝 浅草・岩淵」、谷口榮氏「中世岩淵の景観」が参考となる。なお、谷口氏の論文に関係する新聞記事として「『弥生のつぼ』渥美焼だった-北区『岩淵宿』の遺物か」(東京新聞)がある。
 つらつら昔をかえりみれば、二歳の年母には別れたので、その面影も知らない。だんだん成長して、四つになった九月二十日過ぎであったか後深草院にお召しを受けて、殿上出仕の数に加えられてからこの方、恭(かたじけな)く君の御寵愛をこうむって身を立てる手だてをも知り、朝廷の厚遇をも頂いて、多くの年月を経たので、(皇子誕生などによって)自分が家門の栄誉となるかもしれないという、心の中の期待ももったことがあった。しかし(遅くも早くも)恩愛を捨てて無為に入るならいは、定まった世の道理であるので、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者」、思い捨ててしまった憂き世なのだとは思うけれども、(幼時から)馴れてきた御所のうちも恋しく、折々の院の御情けもお忘れ申すことはないので、事にふれてまずおとずれる袖の涙も深いことだ。

二歳の年に母に別れた云々は『とはずがたり』の中でしつこいほど何度も繰り返される話である。ここでは、流浪の尼との設定で鎌倉に来たのに、何故か当時権勢の絶頂にあった平頼綱・その妻・飯沼資宗らと交流を繰り広げるという豪勢な話が続いたあと、再びしみじみした話に戻る転換点に置かれている。『とはずがたり』に極めて懐疑的な私の立場からは、いくら流浪の尼を装っても根が自慢話好きな著者であるので、自らの華麗な交際について書かずにはいられず、そうかといってさすがに少し浮かれすぎている感じが否めないので、ここで少し引き締めておこうとの意図のもとに書かれたのではないかと思われる。
 雪までも空も暗くなるほど降り積るので、都の方をながめやる道も絶え果てた心地がして、ぼんやりながめていると、あるじの尼君の方から、「雪の中をいかがお過しですか」と申してきたので、

思ひやれ憂きことつもる白雪のあとなき庭に消えかへる身を
(この白雪のように悲しいことが積っているのに、だれも訪ねて来ず、心細い思いをし ている私をお察しください)

 問われてつらさを思い出して涙もろくなるのも、人目に立ちそうなのを忍んで、また年も改まった。軒端の梅に木伝う鶯の声におどろかされても、もはや返ってこない恨みは忍びがたく、昔を思う涙は、新年にもかかわらずふるものである。





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