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『とはずがたり』巻5.後深草院三回忌、御影供養







原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(下)全訳注』p437)


 そののち、いぶせからぬほどに申し承りけるも、昔ながらの心地(ここち)するに、七月(ふづき)の初めのころより、過ぎにし御所(ごしよ)の御三めぐりにならせおはしますとて、伏見の御所にわたらせおはしませば、何となく御あはれも承りたく、いまは残る御形見(かたみ)もなければ、書くべき経はいま一部なほ残り侍れども、今年はかなはぬも心憂(う)ければ、御所の御あたり近く候(さぶら)ひて、よそながらも見参らせんなど候ひしに、

 十五日のつとめては、深草の法華堂(ほつけだう)へ参りたるに、御影(みえい)の新しく造られさせおはしますとて、据(す)ゑ参らせたるを拝み参らするにも、いかでか浅くおぼえさせおはしまさん。袖(そで)の涙もつつみあへぬさまなりしを、供僧(ぐそう)などにや、並びたる人々、あやしく思ひけるにや、「近く寄りてみ奉れ」と言ふもうれしくて、参りて拝み参らするにつけても、涙の残りはなほありけりとおぼえて、

 露消えしのちの形見の面影にまたあらたまる袖の露かな


 十五日の月いとくまなきに、兵衛(ひやうゑ)の佐(すけ)の局(つぼね)に立ち入りて、昔今のこと思ひつづくるも、なほあかぬ心地して、立ち出でて、みやうじやう院殿の方ざまにたたずむほどに、「すでに入らせおはします」などいふを、何ごとぞと思ふほどに、今朝深草の御所にて見参らせつる御影(みえい)、入らせおはしますなりけり。案(あん)とかやいふものに据ゑ参らせて、召次(めしつぎ)めきたるもの四人してかき参らせたり。仏師にや、墨染の衣着たるもの奉行(ぶぎやう)して、二人あり。また預(あづかり)一人、御所侍(さぶらひ)一二人ばかりにて、継(つ)ぎ紙おほひ参らせて、入らせおはしましたるさま、夢の心地して侍りき。

 十善万乗(じふぜんばんじよう)のあるじとして、百官にいつかれましましける昔は、おぼえずして過ぎぬ。太上(だいじやう)天皇の尊号をかうぶりましましてのち仕へ奉りし古(いにしへ)を思へば、忍びたる御歩(あり)きと申すにも、御車寄(くるまよせ)の公卿、供奉(ぐぶ)の殿上人などはありしぞかしと思ふにも、まして、いかなる道に一人迷ひおはしますらんなど、思ひやり奉るも、いまはじめたるさまに悲しくおぼえ侍るに、つとめて、万里(まで)の小路の大納言師重(もろしげ)のもとより、「近きほどにこそ、昨夜(よべ)の御あはれいかが聞きし」と申したりし返事に、

 虫の音も月も一つに悲しさの残るくまなき夜半(よは)の面影


 十六日には御仏事とて、法華の讃嘆(さんだん)とかやとて、釈迦・多宝二仏、一つ蓮台におはします、御堂いしいし御供養(くやう)あり。かねてより院御幸(ごかう)もならせおはしまして、ことにきびしく庭も上も雑人(ざふにん)払はれしかば、墨染の袂(たもと)はことにきらふと、いさめらるるも悲しけれど、とかくうかがひて、雨垂(あまだ)りの石の辺(へん)にて聴聞(ちやうもん)するにも、昔ながらの身ならましかばと、厭ひ捨てし古(いにしへ)さへ恋しきに、御願文(ぐわんもん)終るより、懺法(せんぽふ)すでに終るまで、すべて涙はえとどめ侍らざりしかば、そばにことよろしき僧の侍りしが、「いかなる人にてかくまで嘆き給ふぞ」と申ししも、亡き御影の跡までもはばかりある心地して、「親にて侍りしものにおくれて、このほど忌(いみ)明きて侍るほどに、ことにあはれに思ひ参らせて」など申しなして、立ちのき侍りぬ。

 御幸の還御(くわんぎよ)は今宵(こよひ)ならせおはしましぬ。御所さまも御人少なに、しめやかに見えさせおはしまししも、そぞろにもの悲しくおぼえて、帰らん空もおぼえ侍らねば、御所近きほどになほ休みてゐたるに、久我(こが)の前(さき)の大臣(おとど)は、同じ草葉のゆかりなるも忘れがたき心地して、ときどき申し通ひ侍るに、文遣はしたりしついでに、彼より、

 都だに秋のけしきは知らるるを幾夜(いくよ)ふしみの有明の月

問ふにつらさのあはれも、忍びがたくおぼえて、

 秋を経て過ぎにしみよも伏見山またあはれそふ有明の空

またたち返り、

 さぞなげに昔を今と忍ぶらん伏見の里の秋のあはれに

まことや、十五日は、もし僧などに賜(た)びたき御ことやとて、扇を参らせし包紙に、

 思ひきや君が三年(みとせ)の秋の露まだ乾(ひ)ぬ袖にかけんものとは



次田香澄氏の現代語訳

私の立場からの補足


 その後遊義門院の御所へ時おり寂しくない程度に文通をさせていただくのも、昔にかえった心地がしていたが、七月の初めごろから、亡くなられた院の御三回忌になられるということで、(遊義門院が)伏見の御所においでになっているので、なんとなく御法要の有様も承りたく、今は残る院の御形見も残っていないので、書くべき経はあと一部なお残っているけれども今年はかなわないのもつらく、御所の辺り近くにいて、よそながらも拝見しようなどと思っていた。


後深草院の崩御は1304年なので、この三回忌が行われたのは1306年。

遊義門院(1270〜1307.38歳)は後深草院二条の宿敵東二条院の子。後二条天皇准母、後宇多天皇皇后。巻5の、しかも最終部分になって突然、極めて重要な人物として浮上してくる。巻1には、その誕生の時の盛大な祈祷の様子が詳細に描かれているが、実際には1270年9月19日の誕生なのに、何故か1271(文永8)年8月20余日のこととされており、それが『増鏡』でも踏襲されている。

「深草の法華堂」は現在の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ.京都市伏見区深草坊町)で、後深草院以下、伏見・後伏見・後光厳・後円融・後小松・称光・後土御門・後柏原・後奈良・正親町・後陽成天皇と伏見宮栄仁親王の13方が合葬されている。
 十五日の早朝は深草の法華堂へ参ったところ、院の御木像が新しくお造られになったというので、それをお据え申しあげたのを拝み申しあげるにつけても、どうして感慨深く思われ申さないことがあろうか。袖の涙も隠し切れない有様であったのを、奉仕する僧などであろうか、並んでいる人々がいぶかしく思ったのか、「近く寄って拝見しなさい」というのもうれしくて、参って拝み申しあげるにつけても、涙の残りはまだあったことよと思われて、

露消えしのちの形見の面影にまたあらたまる袖の露かな
(亡くなった院の形見の御木像を拝して、またあらためて涙をもよおすことよ)

 十五日の月が照り渡っている夜、兵衛の佐の局に立ち寄って、昔から今までのことを思い続けるけれども、やはり満たされない気持がして、立ち出てみょうじょう院殿の方にたたずんでいると、「ただ今おはいりになりました」という声がするのを、何ごとだろうと思ううちに今朝深草の法華堂で拝見した御木像がおはいりになられるのであった。案(あん)とかいう台に据え申しあげて、召次らしい者が四人でかき申しあげている。仏師であろうか、墨染の衣を着たものが指図をして二人いる。また預(あずかり)が一人、御所侍が一、二人ばかりで、継紙で覆い申しあげて、おはいりになられた様は、夢のような心地がした。

 十善万乗の主として、百官にかしずかれておいでになった昔のことは、知ることなくて過ぎた。太上天皇の尊号をお受けになられて後、私のお仕え申しあげた往事を思えば、お忍びの御幸と申しても、御車寄せに奉仕する公卿や御幸にお供する殿上人などはあったものだと思うにつけても、ましてお供もなく冥土への途をさぞひとりお迷いになっていられるだろう、などと思い遣り申しあげるのも、今初めてのように哀しく思われるのに、翌朝、万里小路の大納言師重のところから、
「近くにいらっしゃったのですね。昨夜の御仏事をどのような気持でお聞きでしたか」
と申してきた返事に、

虫の音も月も一つに悲しさの残るくまなき夜半の面影
(昨夜、院の御影をあらたに拝して、御仏事を聴聞いたしますと、月の光も虫の音も一つになって、余すところもない悲しさでございました)

後深草院の天皇在位は1246年(4歳)から1259年(17歳)まで。弟の亀山天皇への譲位については、一般に父後嵯峨院の愛情が弟の方に厚かったから、といった説明がなされているが、私は正嘉の飢饉を背景とした国政の刷新という、一種の「徳政」的発想に由来するものと考えている。

「万里小路の大納言師重」は北畠師重(1270〜1322.53歳)のこと。南朝のイデオローグ北畠親房の父。1306年当時、37歳で権大納言。翌1307年7月に後宇多院が遊義門院の死を嘆いて出家した時、ともに出家している。
 十六日には伏見院の御仏事で、法華経の讃嘆と(さんだん)かいうことで、釈迦・多宝の二仏が一つ蓮台にいらっしゃるお堂で、つぎつぎと御供養がある。かねてから後宇多院の御幸もおありで、とくに厳しく庭も堂上も一般の者を(制限され)払われたので、墨染の衣姿の僧尼はことにならぬと禁ぜられるのも悲しかったが、あれこれと警護の隙をうかがって、雨垂れの石の辺で説法を伺うにつけても、昔のままに御所に仕えている身であったならばと、世をいとい捨てた昔まで恋しく思うところへ、御願文を読み終るころから懺法(せんぽう)が終ってしまうまで、どうにも涙はとどめられなかったので、私の傍らに相応の様をした僧が参列していたのが、「どのような方でそんなにお嘆きになるのですか」と尋ねてくれたけれど、亡き院の御名のためにも遠慮される心地がして、「親に当りました者に先立たれて、このほど忌みが明けましたところですので、ことに感慨深く存じあげまして」など申し紛らして立ち去った。

伏見院(1265〜1317.53歳)

後宇多院(1267〜1324.58歳)






僧とのやりとりは、何気ない話なのであるが、こうした部分こそ読者の心理をじんわりと動かすのであって、非常に巧みである。作者は、この種の細かな部分を丁寧に描くことによって、全体をリアルな雰囲気に持って行くのがうまい。
 御幸のお帰りは今宵行われた。伏見御所の方も御人少なで、しめやかにお見えになられたのも、なんとなくもの悲しく思われて、帰る気持もしないので、御所近い辺りになお休んでいたが、久我の前大臣は亡父の縁故の者であるのも忘れ難い気持がして、ときどき文を通わし合っていたが、このたび、その前大臣に手紙を遣わした折に、彼から、

都だに秋のけしきは知らるるを幾夜ふしみの有明の月
(都でさえ秋の気配に悲しさを覚えますのに、あなたはいく夜思い出の伏見で過して有明の月をながめていられるでしようか)




「久我の前(さき)の大臣(おとど)」は作者の従兄弟の久我通基(1240〜1308.69歳)のこと。『徒然草』第195段との関係を考えると、久我通基との歌の贈答は極めて不審な箇所である。
とあった。問い慰められてさらに新たにする悲しさも堪え難く思われて、

秋を経て過ぎにしみよも伏見山またあはれそふ有明の空
(悲しかった秋を繰返して御所様の三回忌にあい、また伏見で三夜もすごして悲しみを新たにしています)

また折返し彼から、

さぞなげに昔を今と偲ぷらん伏見の里の秋のあはれに
(さぞほんとうに、昔を今さらのごとく忍んでいられることでしょう。伏見の里の秋のあわれの中で)

 ところで十五日には遊義門院様ヘ、「もし僧の御布施にでもお使いいただけましたら」とて扇を差上げた包紙に、

思ひきや君が三年(みとせ)の秋の露まだ乾ぬ袖にかけんものとは
(御所様の亡くなられたときの涙がまだ乾かないのに三回忌の秋を迎えて、また涙にぬれようとは思いもいたしませんでした)



補説−『徒然草』第195段との関係について


 「久我の前(さき)の大臣(おとど)」に関する諸注は次のようになっている。

@冨倉徳次郎氏(『とはずがたり』筑摩書房.1969年.p387)
「源通基であろう。正応元年内大臣任、同年辞。この年六十六歳。通忠の子。二条の従兄に当る。あるいはその子通雄(永仁五年内大臣、翌年辞。この年四十八歳)かとも考えられる。」

A福田秀一氏(『新潮日本古典集成.とはずがたり』.1978.p329)
「作者の従兄弟久我通基(当時従一位前内大臣、六十七歳)、またはその子通雄(当時正二位前内大臣、四十九歳であろう。」

B井上宗雄・和田英道氏(『全対訳日本古典新書.とはずがたり』創英社.1984.p522)
「二条の従兄弟通基、またはその子通雄。通基は従一位前内大臣で六十七歳、通雄は正二位前内大臣で四十九歳。」

C久保田淳氏(『完訳日本の古典.とはずがたり(二)』小学館.1985.p102)
「源(久我)通基か、その男、通雄か。通基は右大将通忠の男。従一位内大臣に至る。延慶元年(一三〇八)没、六十九歳。この年は六十七歳で前内大臣。通雄は従一位太政大臣に至る。元徳元年(一三二九)没、七十三歳。この年は五十歳で、やはり前内大臣。」

D次田香澄氏(『とはずがたり.(下)全訳注』.1987.p445)
「全内大臣通基。作者の従兄弟。」

E岸田依子・西沢正二氏(『とはずがたり』三弥井書店.1988.p226)
「二条の従兄弟久我通基(この時従一位前内大臣で六十七歳)、あるいはその子通雄(この時正二位前内大臣で四十九歳)か。」

F三角洋一氏(『新日本古典文学大系.とはずがたり・たまきはる』岩波書店.1994.p248)
「源通基か。右大将通忠の男。前内大臣、六十七歳。その男通雄も前内大臣、五十歳であるが、中院を号したらしい。」
  

 1306年に生存している久我家関係者のうちで「前大臣」を探すと、候補としては通基(1240〜1308.69歳)と、その息子の通雄(1257〜1329.73歳)に絞られることになる。

 この二人のうち、年齢的に見て二条(1258年生まれ)と一歳しか違わない通雄の方が、歌の贈答をする相手としてふさわしいように感じられるのであるが、次田香澄氏のように理由も付さずに通基と断定している人もいるし、両方の名前をあげる学者も、どちらかといえば通基だと考えているようである。

 私は、久我通基が精神に異常をきたした人だったという『徒然草』第195段を読んだ時、『とはずがたり』最終部分に出てくる人との関係に思い当たって、愕然としたのであるが、仮に「久我の前大臣」が通雄だとすれば、何の問題もないはずである。また、1288年7月に内大臣になったばかりの通基に対し、10月22日に勅使日野俊光をもって辞職を要求し、自発的な辞職がないまま同27日に職を停止させたのは、1287年10月に院政を開始した後深草院であることを考えると、感情的な面でも、後深草院を偲んでの通基との歌の贈答は不自然のように思えてくる。

 それにもかかわらず、通基説が強いのは、三角洋一氏が指摘するように通雄は「中院を号した」からであろう。「久我の前大臣」という名前を聞いて真っ先に思い浮かべるのが久我通基であり、「中院を号した」通雄では変な感じがするためであろう。

 結論としては、私も多くの学者と同じように、「久我の前内大臣」は久我通基だと考えているのであるが、そうだとすれば、『徒然草』第195段との関係如何という問題が当然に生じてくるはずである。学者たちが『徒然草』第195段を知らない、などということは全くありえない。学者たちは『徒然草』第195段との関係があるから通基だと問題があることを熟知しているにもかかわらず、それに触れると『とはずがたり』の作者が嘘をついていることになり、結局、自分たちが形作った『とはずがたり』のイメージが壊れるから触れようとしないのである。こうした学者たちの態度は、学問的な誠実さを欠いていて、非常にけしからんと私は思う。


※『徒然草』第195段については、こちら



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