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| 原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(下)全訳注』p446) 深草のみかどは、御かくれののち、かこつべき御ことどもも、あと絶えはてたる心地して侍りしに、去年(こぞ)の三月(やよひ)八日、人丸(ひとまろ)の御影供(みえいぐ)をつとめたりしに、今年の同じ月日、御幸(ごかう)に参りあひたるも不思議に、見しむば玉の御面影もうつつに思ひ合せられて、さても宿願の行く末、いかがなりゆかんとおぼつかなく、年月の心の信も、さすがむなしからずやと思ひつづけて、身の有様をひとり思ひゐたるも、飽かずおぼえ侍るうへ、修行の志も、西行が修行のしき、うらやましく覚えてこそ思ひ立ちしかば、その思ひをむなしくなさじばかりに、とかやうのいたづらごとを続けおき侍るこそ。のちの形見まではおぼえ侍らぬ。
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| 次田香澄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 | |
後深草の帝は崩御ののち、院の縁者とまったく連絡が絶え、昔のことを語り合う御縁もなくなったような気持がしていたが、去年の三月八日に、人麿の御影供を催したのに、今年また同じ月の同じ日に、遊義門院の御幸に参り合ったのも不思議に、去年夢想に見た院と遊義門院の御面影も現実に思い合せられて、それにしても、宿願の将来がどうなってゆくだろうかと心もとなく、長の年月いだいてきた信心も、いくらなんでもむなしくはなかろうと思い続けて、わが身の境涯をひとり心にこめて思い続けているのも飽き足らず思われるうえ、修行の志も、西行の修行のやり方がうらやましく思われてこそ思い立ったのだから、その思いをむなしくしないためばかりに、このような無用な自分のものがたりを書き続けておいたのである。後の形見とまでは思っていない。
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| 補説−刀で切り取られた旨の注記について 『とはずがたり』には、跋文の後を含め、巻4・5の合計4箇所で、小刀で切り取られている旨の注記がなされている。 切り取ったのは誰か、そして何のために切り取ったのかについては、最終部分の一箇所を除いて、他人の目を憚る内容だったために作者またはその近親者が切り取ったとか、中世には夢想・霊託にかかわる記事を集め残すことがはやったので、後人がやった、とかの説があるそうであるが、その一方で、そもそも切り取りが本当になされていたのかを疑う説もある。 例えば福田秀一氏は、「本作品が勅撰集や秘伝書のような丁重な扱いで転写相伝されたのではないことはもちろんだが、記事の一部を後人がみだりに切り取ってその前後の文章の続きを補綴せずにおくということは、あまりありふれたことではないし、本作品が成立後もほとんど ─ 『増鏡』が利用しているのは例外で、『豊明絵草子』との前後も問題になっている ─ 世に出なかったと見られることをも併せ考えると、以上三箇所の切り取りも、元来作者自身が原本に加えたところではなかったかとも思われるのである。(中略)更に進んで、この巻末の注記に関しては、初めの「本云」の二字を含めて作者自身の手になるものではないか、と考えている。」と述べられ、その動機については、「この作品が少なくとも一度の転写を経たように見せかけてその内容に一種の客観性 ─ 他人に読まれ書写されたという事実は、客観性の一証となる ─ をも与えようとしたものとは、見られないだろうか。」(『新潮日本古典集成.とはずがたり』p368)とされている。 福田秀一氏の見方が正しいとすれば、『とはずがたり』の作者は相当に複雑で屈折した性格の人物と考えるのが自然であるように思われるが、福田秀一氏は、『とはずがたり』全体の虚構性について、他の学者と特別異なった見解を持たれている訳でもないようである。福田秀一氏が、切り取り注記に限って、作者を執拗に疑う理由が、私にはあまり理解できない。 私は『とはずがたり』全体が虚構に満ちていると考えているので、切り取りなど最初から全く行われておらず、存在するのは「切り取り注記」だけで、それは作者自身が、ミステリアスな雰囲気を盛り上げるために自分で書いたものと考えている。 |