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『とはずがたり』巻5.「白峰で写経供養」




原文(『とはずがたり(下)全訳注』p355)


 讃岐(さぬき)の白峰(しろみね)・松山などは、崇徳院(すとくゐん)の御跡もゆかしくおぼえ侍りしに、訪(と)ふべきゆかりもあれば、漕(こ)ぎよせておりぬ。松山の法華堂は、如法(によほふ)行ふ景気みゆれば、しづみ給ふともなどかと頼もしげなり。「かからむ後は」と西行(さいぎやう)がよみけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそ生(むま)れけめ」と、あそばされける古(いにしへ)の御ことまで、あはれに思ひ出で参らせしにつけても、

物思ふ身の憂きことを思ひ出でば苔の下にもあはれとはみよ

 さても、五部の大乗経の宿願残り多く侍るを、この国にてまた少し書き参らせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに小さき庵室をたづね出だして、道場にさだめ、懺法(せんぽふ)・正懺悔(さんげ)などはじむ。九月(ながつき)の末のことなれば、虫の音も弱りはてて、何をともなふべしともおぼえず。三時の懺法を読みて、慙愧(ざんぎ)懺悔、六根罪障と唱へても、まづ忘られぬ御言の葉は心の底に残りつつ、さても、いまだ幼かりしころ、琵琶の曲を習ひ奉りしに、たまはりたりし御撥(ばち)を、四つの緒をば思ひ切りにしかども、御手なれ給ひしも忘られねば、法座のかたはらに置きたるも、

手になれし昔の影は残らねど形見とみればぬるる袖かな

 このたびは大集経四十巻を、二十巻書き奉りて、松山に奉納し奉る。経のほどのことは、とかくこの国の知る人にいひなどしぬ。供養(くやう)には、ひととせ御形見(かたみ)ぞとて三つたまはりし御衣(おんぞ)、一つは熱田(あつた)の宮の経のとき、誦経(じゆきやう)の布施(ふせ)に参らせぬ。このたびは供養の御布施なれば、これを一つ持ちて布施に奉りしにつけても、

月出でん暁までの形見ぞとなど同じくは契らざりけん

御肌(はだ)なりしは、いかならん世までもと思ひて残しおき奉るも、罪深き心ならんかし。



次田香澄氏による現代語訳

 讃岐の白峰・松山などは、崇徳院の御旧跡も心ひかれ、お参りしたく思っていたところ、ちょうど訪ねる縁者もあったので、船を漕(こ)ぎ寄せて降りた。松山の法華堂(ほっけどう)に参ると、如法供養(にょほうくよう)を行う様子が見えるので、たとえ悪道にお沈みになっても、どうして成仏なさらぬことがあろうと、頼もしく感じた。「かからむ後は」と西行が詠んだ歌も思い出され、「かかれとてこそ生(むま)れけめ」と述懐された土御門院の御事までも、しみじみと思い出し申しあげるにつけても、

物思ふ身の憂きことを思ひ出でば苔の下にもあはれとはみよ (物を思う身はどんなにつらいかを思い出されたら、いま煩悩ゆえに迷う私をも、地下であわれと思〈おぼ〉し召して下さい)

 ところで、宿願の五部の大乗経が多く残っているのを、この国でまたすこし書き申しあげたく思って、いろいろと準備し、松山からあまり遠くない所に小さい庵室(あんしつ)を探し出して道場に定め、懺法(せんぽう)・正懺悔(しょうさんげ)などを始めた。九月の末のことであるので、虫の音(ね)も弱り果てて、何を道連れにもできない。三時に懺法を読み、慙愧(ざんき)懺悔、六根(ろっこん)罪障と唱えながらも、まず忘れられない院の御言葉は心の底に残り、さてまだ幼かったころ、琵琶の曲をお習いしたときに院から頂戴した御撥(ばち)を、琵琶は四本の絃を切って断念してしまったけれど、御手馴れのものだったことも忘れ難いので、いまも法座のかたわらに置いているにつけても、

手になれし昔の影は残らねど形見とみればぬるる袖かな (院のもとで琵琶を弾いた昔の面影は残っていないけれど、これがそのころの形見と思えば袖が濡れることよ)

 このたびは、大集経四十巻を二十巻書き奉って、松山に奉納申しあげる。写経や供養のことは、いろいろとこの国の人に頼みなどした。供養には、先年院から「形見だよ」とおっしゃって三枚戴いた御衣を、一枚は熱田(あつた)の宮の納経のときに誦経(ずきょう)の布施(ふせ)として奉納した。このたびは供養の御布施であるので、この衣を一つ持って布施に奉るにつけても、

月出でん暁までの形見ぞとなど同じくは契らざりけん (この衣を、同じことならなぜ弥勒出世の暁までとっておこうとお約束しなかったのだろう)

お肌に召されていた小袖は、どんな世になっても手放すまいと思ってだいじに残して置くのも、罪深い心であろうよ。




☆この場面は1302年、作者45歳のときの出来事として描かれている。直前に足摺岬訪問の記事があるが、旅程や時間の面で無理が多いので実際には行っていないと考える国文学者がかなり多い。しかし原文を見る限り、作者は実際に訪問しているとしか思えない書き方をしているのであって、それは他の場所、例えばこの讃岐白峰訪問と同じである。

☆作者が「四つの緒をば思ひ切」って、琵琶を一生断念したと書いている場面はこちら。女楽事件のときの話であるので、学者の年立てによれば1277年、作者20歳である。

☆西行についてはこちら。(目崎徳衛氏『西行』)





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