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『徒然草』第107段.女の物言ひかけたる返事






原文(『徒然草(二)全訳注』.p280)


 女の物言ひかけたる返事(かへりごと)、とりあへずよきほどにする男はありがたきものぞとて、亀山院の御時、しれたる女房ども、若き男達の参らるるごとに、「郭公(ほととぎす)や聞き給へる」と問ひて心みられけるに、なにがしの大納言とかやは、「数ならぬ身は、え聞き候(さうら)はず」と答へられけり。堀川内大臣殿は、「岩倉にて聞きて候ひしやらん」と仰せられたりけるを、「これは難なし。数ならぬ身、むつかし」など定め合はれけり。

 すべてをのこをば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。「浄土寺前関白殿(じやうどじのさきのくわんぱくどの)は、幼くて、安喜門院(あんきもんゐん)のよく教へ参らせさせ給ひけるゆゑに、御詞(おんことば)などのよきぞ」と人の仰せられけるとかや。山階(やましなの)左大臣殿は、「あやしの下女(げぢよ)の見奉るも、いと恥づかしく、心づかひせらるる」とこそ、仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣文(えもん)も冠(かうぶり)も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。

 かく人に恥ぢらるる女、いかばかりいみじきものぞと思ふに、女の性(しやう)は皆ひがめり。 人我(にんが)の相(そう)深く、貪欲(とんよく)甚だしく、物の理(ことわり)を知らず、ただ迷ひの方(かた)に心もはやく移り、詞(ことば)も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意あるかと見れば、また、あさましき事まで、問はず語りに言ひ出(い)だす。深くたばかり飾れる事は、男の智慧にもまさりたるかと思へば、その事、跡よりあらはるるを知らず。すなほならずして、つたなきものは女なり。その心に随ひてよく思はれん事は、心憂かるべし。されば、何かは女の恥づかしからん。もし腎女(けんぢよ)あらば、それもものうとく、すさまじかりなん。ただ迷ひを主としてかれに随ふ時、やさしくも、おもしろくも覚ゆべき事なり。



三木紀人氏の現代語訳

私の立場からの補足

 女がなにか言葉をかけたときの返事を、とっさに、しかも的確にすることができる男というものはめったにいない。そんなことを言って、亀山院の御代に、軽薄な女房たちが、若い男たちの参内するたびに「今年はもうほととぎすの声を聞きましたか」と尋ねて彼らの機転を試した。なにがしの大納言とかいう人は、「取るに足りぬ身なので、まだ聞くことができません」とお答えになった。堀川内大臣殿は、「岩倉で聞いたような気がします」とおっしゃったが、女房たちは、「この答が無難だ。取るに足りぬ身などという言い方は、感じが悪い」などと批評し合われた。

「堀川内大臣殿」は兼好が家司として仕えた堀川具守(1249〜1316.68歳)のこと。兼好は具守が1316年正月に亡くなり、堀川家の山荘のあった洛北岩倉の地に葬られた翌年の春に延政門院一条という女性との間で歌の贈答をしており、その詞書には「ほりかはのおほいまうちぎみを、いはくらの山庄におさめたてまつりにし又の春」と見える(兼好歌集67番)。具守は兼好にとって特別に大切な存在だったことが伺える。
  すべて、男は、女に笑われないよう育てるべきだという。「浄土寺の前関白殿は、幼時に安喜門院がよくお教え申し上げなさったので、口の利き方が御りっぱである」と、ある人がおっしゃったという。山階左大臣殿は、「いやしい下女の目があるときも、ひどく気恥ずかしく、用心させられる」とおっしゃった。女がいない世ならば、衣服や冠の着け方がどんなであれ、身づくろいする人はあるまい。

 このように、人に気をおかれる女は、ではどれほどりっぱなものだろうと思うと、実は、その本性はねじけたものだ。我執が強く、欲望ははなはだしく、物の道理を知らず、ただ迷いのほうに心が赴き、ことばは巧みながら、そのくせ、人が問うときには、差し支えないことでも答えない。では、つつましく黙っているのかと思うと、また、とんでもないことまで、問われもしないのにしゃべり出す。深く思慮をめぐらしてうわべを飾る点からすると、その知恵は男にまさっているのかと思えば、自分の本心がすぐにばれてしまうのに気づかない。すなおさを欠き、しかも至らないのが女というものだ。その女の心に追従して気に入られるとすれば、それは情けないことであろう。だから、女の目を気にする必要がどこにあろうか。 かといって、もし賢女というものがいるなら、それはそれで親しみにくく、興ざめなものだろう。ただ、心の迷いに身を任せて女とつきあう時、彼女らは、優雅にも魅力的にも感じられるはずである。
「浄土寺前関白殿」は九条師教(1273〜1320.48歳)のこと。「父は報恩院関白九条忠教、母は太政大臣西園寺公相の女。正応六年(1293)、内大臣、永仁二年(1293)右大臣となる。嘉元三年(1305)四月に関白の詔を受け、氏長者となる。徳治三年(1308)八月二十六日、花園天皇の践祚により摂政となるが、同年十一月十日には辞職する」(『鎌倉・室町人名事典』武田彩子氏)
安喜門院(1207〜1286.80歳)「後堀河天皇の皇后。名は有子。父は太政大臣三条公房。母は太宰大弐藤原範能(従三位藤原範季ともいう)女修子。貞応元年(1222)十月、従三位、十二月、入内し女御となる。翌年二月、皇后に冊立され、中宮職を付されたが、嘉禄二年(1226)七月、関白藤原家実の女長子が新たに皇后に冊立されるにあたり、付属職司を皇后宮職に改められた。嘉禄三年二月、院号宣下」(『鎌倉・室町人名事典』菊池紳一氏)。師教にとっては祖母の姉にあたる。
「山階左大臣殿」は洞院実雄(1219〜1273.55歳)のこと。娘の京極院が後宇多天皇を、玄輝門院(『とはずがたり』の「東の御方」)が伏見天皇を産んだ。『増鏡』には洞院家関係者にとって不愉快な記事が多い。その一例はこちら



 「問はず語り」という言葉について


 この段に「問はず語り」という言葉が出てくることは極めて興味深い。多くの国文学者は、『とはずがたり』に言及する際に、このタイトルについて「語らざるをえなかった」というような何となく悲劇の香り漂う気取った表現を使うのであるが、別に「問はず語り」という言葉それ自体には悲劇の香りはない。ただ単に「問われもしないのにしゃべり出す」というだけである。

 「亀山院の御時」とは亀山院が在位していた1259年から1274年までの間である。後深草院二条が14歳で後深草院の後宮に入ったのが1271年であるので、粥杖事件などに伺われる二条の性格を考えれば、二条こそ「亀山院の御時」の「しれたる女房」の筆頭にあげられるべき存在であろう。

 「詞も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意あるかと見れば、また、あさましき事まで、問はず語りに言ひ出だす。深くたばかり飾れる事は、男の智慧にもまさりたるかと思へば、その事、跡よりあらはるるを知らず。」との表現は『とはずがたり』や『増鏡』の書評としてそのまま使える内容であり、『増鏡』に洞院実雄ら洞院家関係者に対する、また堀川具守ら堀川家関係者に対する侮辱的な表現が多いこと、そして堀川具守が兼好にとって特別な存在であったことを考えると、この段は本当に一般的な女性論を語っているだけなのか、私は疑問に思っている。(これについては以前、「メモ」にも少し書いた。→こちら。)





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