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『徒然草』第118段.鯉の羮食ひたる日は





原文(『徒然草(三)全訳注』.p50)


 鯉(こひ)の羮(あつもの)食ひたる日は、鬢(びん)そそけずとなん。膠(にかは)にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。

 鯉ばかりこそ、御前(ごぜん)にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉(きじ)、さうなきものなり。雉・松茸(まつたけ)などは、御湯殿(おゆどの)の上に懸かりたるも苦しからず。その外は心うき事なり。

 中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚(くろみだな)に雁(かり)の見えつるを、北山入道殿の御覧じて帰らせ給ひて、やがて御文(ふみ)にて、「かやうのもの、さながらその姿にて御棚にゐて候ひし事、見ならはず、さまあしき事なり。はかばかしき人の候はぬゆゑにこそ」など、申されたりけり。



三木紀人氏による現代語訳

 鯉のあつものを食べた日は鬢(びん)が乱れないという。鯉はにかわを作るものなので、粘りけのあるものなのであろう。

 鯉だけは、天皇の御前で調理されるものだから、特別な魚である。鳥では雉(きじ)が並ぶもののないものである。その雉や松茸(まつたけ)などは、たとえ御湯殿の上の間に懸けてあっても不都合はない。それ以外の物ならいとわしいことである。

 中宮の御所の御湯殿の上の黒御棚(くろみだな)に雁(かり)があったのを北山入道殿が御覧になって、お帰りになってからすぐ、お便りに「あのような物を、そのままの姿で御棚に置いてありましたのは、見慣れず、みっともないことです。しっかりした人がおそばにいないからでしょうか」などと申しあげなさったという。


※「北山入道殿」は西園寺実兼(1249〜1322.74歳)、「中宮」はその晩年の子で、1319年8月に後醍醐天皇中宮に冊立された禧子(1303〜1333.31歳)のこと。
 『増鏡』巻13「秋のみ山」には「今の上(後醍醐)は、はやうより、西園寺入道大臣(実兼)の末の御女(禧子)、兼季の大納言の一つ御腹にものしたまふを、忍て盗み給て、わくかたなき御思ひ、年をそへてやむごとなうおはしつれば、いつしか女御の宣旨などきこゆ。程もなく、やがて八月に后だちあれば、入道殿も、齢の末にいとかしこくめでたしと思す」とあり、入内に至るまでには、まだ春宮だった後醍醐帝が相当強引な手段をとらざるを得なかったことが伺える。
 禧子の人生は討幕への執念に燃える後醍醐帝に翻弄された感があり、『増鏡』巻15「むら時雨」の冒頭に描かれた、禧子の妊娠を名目とし、実際には幕府滅亡を祈った異常に長期間の祈祷の話など、さらし者になった禧子の立場を考えればずいぶん気の毒な話のように思えるが、禧子自身がどのように受けとめていたのかは軽々に判断できない。後醍醐帝が周囲の人々を魅惑する一種独特の異様な人間的魅力をもった人物であったことは確かであり、禧子も、自分は決して犠牲者などではなく、後醍醐帝の宿願実現に協力できることを誇りに思っていた、と考えることも充分に可能であり、むしろその方が素直である。
 ただ、この妊娠祈祷騒動など、西園寺家の立場から見れば権威失墜は覆うべくもない話であり、『徒然草』第118段は、どこか西園寺家の没落を予感させる暗い雰囲気が漂う話のような感じがする。
 なお、禧子は後醍醐帝が隠岐に流された後、1332年5月、光厳天皇の勅により院号宣下があり、「礼成門院」と号したが、翌1333年、還御した後醍醐帝はこれを否定し、中宮に復すことになった。さらに同年10月12日、禧子が31歳の若さで薨ずると、同日「後京極院」の院号宣下がなされた。歴代女院の中でも、二つの院号を持った人は禧子が最初で最後である。


※鯉を天皇の御前で切る話の例としては、『とはずがたり』の粥杖事件において、四条家出身の高僧「隆へん」僧正が鯉を切る場面があげられる。そこには西園寺実兼も登場する。

 



工事中

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