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| 原文(『徒然草(三)全訳注』.p121以下) 医師(くすし)篤成(あつしげ)、故法皇の御前に候(さぶら)ひて、供御(くご)の参りけるに、「今参り侍(はべ)る供御の色々を、文字も功能(くのう)も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草(ほんざう)に御覧(ごらん)じ合はせられ侍れかし。ひとつも申し誤り侍らじ」と申しける時しも、六条故内府(ろくでうのこだいふ)参り給ひて、「有房(ありふさ)ついでに物習ひ侍らん」とて、「まづ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏(へん)にか侍らん」と問はれたりけるに、「土偏(どへん)に候」と申したりければ、「才(ざえ)のほど既にあらはれにたり。いまはさばかりにて候ヘ。ゆかしきところなし」と申されけるに、どよみになりて、まかり出(い)でにけり。 |
| 三木紀人氏による現代語訳 |
医師の篤成(あつしげ)が、故法皇の御前に伺候しているとき、法皇の御食膳が参ったので、「今お手元に参ったお食事の品々について、その名称と効能を御下問になれば、私は何も見ずにお答えしましょう。そのうえで、本草学(ほんぞうがく)の書物を御参照くださいませ。一つも誤らずにお答えできましょう」と申し上げた。 たまたまそのとき、今は亡き六条内府が御前に参上され、「有房もこの機会に学問しましょう」とおっしゃって、まず、「しおという文字は何偏なのでしょうか」とお尋ねになると、篤成は、「土偏です」と申し上げた。内府は、「あなたの学識の程度は、それでよくわかりました。もうそれで結構です。これ以上お尋ねしたいことはありません」と申されたので、一座は大笑いになって、篤成は退出してしまった。 |
| ※六条有房(1251〜1319.69歳)は久我通光の孫で、後深草院二条の7歳上の従兄弟。後宇多院側近で、この段の「故法皇」も後宇多院(1267〜1324.58歳)のこと。二条派の歌人としても著名。『増鏡』に描かれた六条有房と☆子女王(宗尊親王の娘)の情事に関する異常に詳細な記事はこちら。 |
☆「私の立場からの補足」は後日掲載します。