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| 原文(『徒然草(三)全訳注』.p153) 為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふだう)召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率(ゐ)て行きければ、資朝卿(すけとものきやう)、一条わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思い出(い)で、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。 |
| 三木紀人氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 為兼大納言入道が召し捕られて、武士たちが囲んで、六波羅に連行したところ、資朝卿は、一条大路のあたりでこれを見て、「ああ、うらやましい。この世に生きたあかしは、このようでありたいものだ」と言われた。
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| 京極為兼について 京極為兼(1254〜1332.79歳)は伏見院側近で、京極派の中心人物。兼好の歌道の師たる二条為世(1250〜1338.89歳)の宿敵で、歌道をめぐる両者の対立の厳しさは現代人の想像を絶するものがある。 為兼は西園寺家に仕える身分に過ぎなかったが、伏見院の殊遇を得て権勢を振るい、六波羅の嫌疑を得て1296年(永仁4)5月に失脚、籠居中の1298(永仁6)年1月、六波羅に逮捕され、同年3月佐渡に流された。この佐渡配流からは5年後の1303年(乾元2)閏4月にもどったが、1308年(徳治3)花園天皇が践祚し第二次伏見院政が始まると再び活発に活動するようになり、やがて西園寺実兼と対立して1315年(正和4)12月、再び六波羅に逮捕され、今度は土佐に配流、二度と京に戻ることはなかった。この段に描かれたのは1315年12月の2度目の逮捕のときの状況である。 歴史学者の書いた論文を読むと、第一回目の失脚・佐渡配流についても、西園寺実兼との対立が原因とされているが、この点については井上宗雄氏が次のような反論をされている(『中世歌壇史の研究−南北朝期』改訂新版p43)。
井上説が正しいとすると、それでは第一次失脚に際して為兼が具体的に誰と対立したのかが問題となるが、史料の欠落の故に、その「傍輩」の名は不明と言わざるを得ない。ただ、直接に幕府に「讒言」した人の名はともかく、少なくともその背後には、為兼の強引な振舞いとそれを許している伏見天皇に、鎌倉の怖さを知らない軽率さを見て重大な危惧を抱いていた人がいたのではないかと私は想像する。 そしてその人は、1290年3月の浅原事件以降、鎌倉との関係に神経をつかい、伏見天皇側への積極的な攻撃をしかけるよりは、寧ろその失敗を待っていたと思われる亀山院の側ではなく、一見すると伏見天皇に近い存在で、具体的に「傍輩」の名前を記すと、その人の名前も直ちに連想されてしまうので、花園天皇が日記にすら「傍輩」の名を記すことを憚った人物ではないかと私は考えている。即ち後深草院である。 ※京極為兼の履歴はこちら(『和歌大辞典』岩佐美代子氏執筆)。京極為兼が伏見院に接近した経緯についてはこちら(岩佐美代子氏『永福門院−その生と歌−』)。また、浅原事件以降の政局の動向についての私の考え方はこちら(宮内三二郎氏「第四章 続とはずがたりの作者と遊義門院」)、およびこちら(『増鏡』巻十二「浦千鳥」後宇多院の後宮)。 |