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『徒然草』第162段.遍照寺の承仕法師







原文(『徒然草(三)全訳注』.p249以下)


 遍照寺(へんぜうじ)の承仕法師(じようじほふし)、池の鳥を日ごろ飼ひつけて、堂の中まで餌をまきて、戸ひとつ開けたれば、数も知らず入りこもりける後、おのれも入りて、たてこめて、捕(とら)へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童(わらは)聞きて、人に告げければ、村のをのこどもおこりて入りて見るに、大雁(おほがり)どもふためきあへる中に法師まじりて、打ち伏せ、ねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出(い)だしたりけり。殺すところの鳥を頸(くび)にかけさせて、禁獄(きんごく)せられにけり。基俊大納言、別当の時になん侍りける。



三木紀人氏の現代語訳


私の立場からの補足


 遍照寺(へんじょうじ)の承仕(じょうじ)法師が、池の鳥を日ごろ飼いならしておいて、堂の中まで餌をまいて、入口の戸を一つ開けておいた。そして、鳥が数え切れぬほど入り込んでから、自分も中に入って、戸を閉め切って鳥を捕(と)らえては殺していたその様子が物騒がしく聞こえた。 

 それを草刈り童が聞いて、人に告げたので、村の男たちが大挙して中に入った。見ると、大きな雁たちがばたばた騒ぎ合っている中に、法師がまじって、雁を下に押し付けて首をひねって殺していた。そこで、一同はこの法師を捕らえて、その土地から検非違使庁につき出したのであった。殺した鳥を頸にかけさせて、牢に入れた。

 基俊大納言が検非違使庁の長官をしていたときの話である。
遍照寺は「京都市右京区嵯峨の広沢の池の西にあった寺。寛朝により、永祚元年(987)十月造営され、寛朝はここに住して大いに法幢を立てたので、その法流を広沢流と称した。今、遍照寺山という名の山が広沢池の近くにあるのも、その名残りであろう。」(安良岡康作氏『徒然草』全注釈(下)p150)
 なお、遍照寺は一時廃絶し、現在、広沢池の南にある遍照寺は近世に再建されたもの。
検非違使についてはこちら。(『日本史大事典』森田悌・丹生谷哲一氏)
「基俊大納言」は堀川基俊(1261〜1319.59歳)のこと。1285年4月に検非違使別当となり、翌年まで在任した。堀川基具(1232〜1297.66歳)の子、具守(1249〜1316.68歳)の弟、西華門院(1269〜1355.87)には叔父にあたる。『増鏡』巻12「浦千鳥」に、万秋門院(1268〜1338.71歳)が若い頃、基俊と「うとからぬ御中」だったと書かれているが、その原文はこちら
 基俊は1289年10月、久明親王に随行して関東に下っているので、これを鎌倉で迎えた後深草院二条は基俊に出会ったはずであるが、『とはずがたり』には基俊の名前は出てこない。なお、基俊は第99段にも父基具とともに登場する。







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