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| 原文(『徒然草(三)全訳注』.p249以下) 遍照寺(へんぜうじ)の承仕法師(じようじほふし)、池の鳥を日ごろ飼ひつけて、堂の中まで餌をまきて、戸ひとつ開けたれば、数も知らず入りこもりける後、おのれも入りて、たてこめて、捕(とら)へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童(わらは)聞きて、人に告げければ、村のをのこどもおこりて入りて見るに、大雁(おほがり)どもふためきあへる中に法師まじりて、打ち伏せ、ねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出(い)だしたりけり。殺すところの鳥を頸(くび)にかけさせて、禁獄(きんごく)せられにけり。基俊大納言、別当の時になん侍りける。 |
| 三木紀人氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 遍照寺(へんじょうじ)の承仕(じょうじ)法師が、池の鳥を日ごろ飼いならしておいて、堂の中まで餌をまいて、入口の戸を一つ開けておいた。そして、鳥が数え切れぬほど入り込んでから、自分も中に入って、戸を閉め切って鳥を捕(と)らえては殺していたその様子が物騒がしく聞こえた。 それを草刈り童が聞いて、人に告げたので、村の男たちが大挙して中に入った。見ると、大きな雁たちがばたばた騒ぎ合っている中に、法師がまじって、雁を下に押し付けて首をひねって殺していた。そこで、一同はこの法師を捕らえて、その土地から検非違使庁につき出したのであった。殺した鳥を頸にかけさせて、牢に入れた。 基俊大納言が検非違使庁の長官をしていたときの話である。 |
なお、遍照寺は一時廃絶し、現在、広沢池の南にある遍照寺は近世に再建されたもの。 基俊は1289年10月、久明親王に随行して関東に下っているので、これを鎌倉で迎えた後深草院二条は基俊に出会ったはずであるが、『とはずがたり』には基俊の名前は出てこない。なお、基俊は第99段にも父基具とともに登場する。 |