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『徒然草』第195段.ある人、久我縄手を通りけるに








原文(『徒然草(四)全訳注』.p76)


 ある人、久我縄手(こがなはて)を通りけるに、小袖(こそで)に大口(おほくち)着たる人、木造りの地蔵を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣(かりぎぬ)の男二三人(ふたりみたり)出で来て、「ここにおはしましけり」とて、この人を具(ぐ)して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。
 尋常(よのつね)におはしましける時は、神妙にやんごとなき人にておはしけり。



三木紀人氏の現代語訳
私の立場からの補足

 ある人が久我縄手を通ったところ、小袖に大口を着た人が、木造の地蔵を田の中の水に浸して、丹念に洗っていた。不審に思って見ているうちに、狩衣の男が二、三人現われて、「ああ、ここにいらっしゃった」と言って、この人を連れて立ち去った。その人は、久我内大臣殿なのであった。
 この大臣は、正気のときは、りっぱで気品のある方でいらっしゃった。

久我縄手は久我(京都市伏見区)の地と山崎方面を直線状に結ぶ道の古称。


「久我内大臣」は久我通基(1240〜1308.69歳)のこと。後深草院二条の従兄弟。



補論

 三木紀人氏は、「解説」において次のように述べておられる。

 精神に異常をきたした一貴族の奇行を描いた段である。奇行とはいっても、他に攻撃をしかけたり迷惑をかけたりという類のものではなく、地蔵を田の水にひたして洗いきよめたというだけである。殊勝といってもよい行為で、この下着姿の無心の表情が地蔵のそれと映り合って、好ましく想像されないでもない。狂った人の姿はしばしば清浄な印象をたたえ、比類のない美しさを心ある人に感じさせるものである。この段の描く風景にもそのような感じがあろう。しかも、この貴族のふるまいはすぐに終らされるから、その余韻が深い。
 主人公の通基は、兼好が仕えた堀川具守の縁続きの人(具守の曽祖父の弟が通基の祖父に当たる)である。兼好としては遠慮すべき話題をあえて語ったものかもしれない。そのことをおもんばかってか、兼好は平常時のこの大臣のすばらしさに末尾でふれ、次段で一つの逸話を紹介することになる。

 三木氏は随分好意的に読まれており、ひとつの考え方としてそれなりに納得できるのであるが、久我通基は「兼好が仕えた堀川具守の縁続きの人」なのであるから、家司だった兼好としては、仮に「狂った人の姿はしばしば清浄な印象をたたえ、比類のない美しさを心ある人に感じさせる」ものと考えたとしても、せめて名前を秘す程度の配慮があってよいようにも思われる。『徒然草』では、身分の高い人の逸話について、名前を秘すことはかなり多いのであるから、精神異常などといった話題について、そうした配慮を何故しないのか、不思議である。

 この久我通基が精神異常となった原因について、五味文彦氏は次のように推測されている。

 久我通基は正応元年(1288)七月に内大臣となったが、十月には大将と大臣の両職の辞任を求められ、抵抗したものの両職を停止されてしまい、その後、亡くなる延慶元年(1308)まで前内大臣のままであった。おそらく両職を停止させられた憤激に耐えかねて、長く久我邸に逼塞している間に、精神に異常をきたしたのであろう。(『「徒然草」の歴史学』.p94)

 五味氏のこの記述の根拠はおそらく『公卿補任』で、そこには「(正応元年)九月一二日、為奨学院別当並氏長者。十月廿二日、遣勅使蔵人佐俊光、丞相幕下両職一同可辞申之由被仰之。同月廿七日止両職。」とある。

 1287年10月に後深草院政が始まっているので、これは後深草院政初期の話であるが、1288年7月に内大臣になったばかりの通基に対して、10月22日に近衛大将と併せて辞職するようにとの「仰せ」が日野俊光を勅使として伝えられ、5日後に停止されてしまった、ということであり、ずいぶん不自然な出来事である。

 それはともかく、私が問題にしたいのは、この『徒然草』第195段と、『とはずがたり』の最終部分との関係である。『とはずがたり』の跋文の直前に、1306年のこととして、後深草院二条が「久我の前(さき)の大臣」と歌の贈答をしたと書かれているのであるが、この「久我の前(さき)の大臣」については、諸注一致して久我通基としている。

 とすると、『徒然草』第195段と『とはずがたり』をともに信じるならば、後深草院二条は、精神異常であるはずの従兄弟と歌の贈答をしたことになってしまうのである。もちろん、いったん精神異常になったものの、1306年の時点では回復していたとか、1306年に二条と歌の贈答をした後、1308年に死ぬまでの間に精神異常になったとかの可能性が全くないとは言えないが、久我通基の年齢(1306年時点で67歳)を考慮すると、ちょっと考えにくい。

 別の可能性として、私は、『とはずがたり』を読んで、その虚偽に憤りを覚えた兼好が、二条さん、気の狂った従兄弟と歌の贈答をするなんて、随分器用なことをされますね、と冷笑しているのではないか、と考えている。こう考えれば、一般論としてなら名前を出すことを避けるべきにもかかわらず、あえて名前を出すことの必然性も理解できることとなる。


※『とはずがたり』最終部分の久我通基との歌の贈答については、こちら







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