更新12.9/24 up10.10/17
| 原文(『徒然草(四)全訳注』.p137) 最明寺入道(さいみやうじのにふだう)、鶴岡(つるがをか)の社参(しやさん)の次(ついで)に、足利左馬入道(あしかがのさまのにふだう)の許(もと)へ、まづ使を遣はして、立ち入(い)られたりけるに、あるじまうけられたりける様(やう)、一献(いつこん)にうちあはび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ。その座には、亭主夫婦、隆弁僧正(りゆうべんそうじやう)、あるじ方(がた)の人にて座せられけり。 さて、「年ごとに給はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候(さうらふ)」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖(こそで)に調(てう)ぜさせて、後につかはされけり。 その時見たる人の、近くまで侍(はべ)りしが、語り侍りしなり。 |
| 三木紀人氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 最明寺入道が、鶴岡八幡宮に参詣したついでに、足利左馬入道の屋敷に、あらかじめ使者を遣わしたうえで、立ち寄られたことがある。そのとき、左馬入道が接待なさったが、その献立は最初のお膳には干した鮑(あわび)、二番のお膳には海老、三番にはかいもちいを出して、それで終った。その座には、その屋敷の主人夫婦と、隆弁僧正とが主人側の人として座っておられた。 |
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| 一段落して、最明寺入道が、「毎年いただいている足利の染物が待ち遠しいことです」とおっしゃると、「用意してございます」と言って、さまざまの色に染めた反物(たんもの)三十疋(ぴき)を、その御前で女房どもに小袖に仕立てさせて、後でお届けなさったのであった。 | |
| そのときに一部始終を見ていたひとりで、最近まで存命だったある人が、私にその由を語ったのである。 |
| ☆鶴岡八幡宮別当としての隆弁についてはこちら(貫達人氏『鶴岡八幡宮寺−鎌倉の廃寺』)。 ☆四条家についてはこちら(角田文衛氏『平家後抄』)。四条家系図はこちら。 ☆『とはずがたり』巻2の「粥杖事件」に出てくる「隆へん」については、鶴岡八幡宮寺別当の「隆弁」だとする説と、隆親の子で隆顕の兄弟の「隆遍」とする説が対立しているが、年齢と話の内容から言って「隆弁」説が正しいと思われる。ただし、それは幕府に密着して大変な権勢を誇っていた隆弁の実像ではなく、後深草院二条の作り話の登場人物として面白おかしく脚色された隆弁の虚像だ、というのが私の考え方である。 |