更新13.2/28 up12.1/21
| 原文(『徒然草(四)全訳注』.p151) 四条黄門(しでうのくわうもん)命ぜられて言はく、「龍秋(たつあき)は、道にとりてはやんごとなき者なり、先日来(きた)て言はく、『短慮の至り、きはめて荒涼(くわうりやう)の事なれども、横笛の五の穴は、いささかいぶかしき所の侍るかとひそかにこれを存ず。そのゆゑは、干(かん)の穴は平調(ひやうでう)、五の穴は下無調(しもむでう)なり。その間(あひだ)に、勝絶調(しようぜつでう)を隔てたり。上(しやう)の穴、双調(さうでう)、次に鳧鐘調(ふしようでう)を置きて、夕(さく)の穴、黄鐘調(わうしきでう)なり。その次に鸞鏡調(らんけいでう)を置きて、中(ちゆう)の穴、盤渉調(ばんしきでう)、中と六とのあはひに神仙調(しんせんでう)あり。かやうに間々(まま)に皆一律(いちりつ)を盗(ぬす)めるに、五の穴のみ、上(しやう)の間(あひだ)に調子を持たずして、しかも間(ま)を配(くば)る事等しきゆゑに、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物にあはず、吹き得(う)る人かたし』と申しき。料簡(れうけん)の至り、まことに興あり。先達(せんだつ)、後生(こうせい)を畏るといふこと、この事なり」と侍りき。 他日に、景茂(かげもち)が申し侍りしは、「笙(しやう)は、調べおほせて持ちたれば、ただ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴ごとに、口伝(くでん)の上に性骨(しやうこつ)を加へて心を入(い)るること、五の穴のみに限らず。ひとへにのくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手(じやうず)はいづれをも吹きあはす。呂律(りよりつ)の物にかなはざるは、人のとがなり。器(うつはもの)の失(しつ)にあらず」と申しき。 |
| 三木紀人氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 四条中納言がおっしゃるには、 「竜秋は、音楽の道においては、たいした男である。先日、私のもとにやって来て、『あさはかの至りで、はなはだ僭越なことではありますが、横笛の五つの穴について、いささか不審なところがあるのではないかと、ひそかに思っております。 なぜなら、干(かん)の穴は平調(ひょうじょう)で、五の穴は下無調(しもむじょう)です。その中間に勝絶調(しょうぜつじょう)を置いています。上の穴は双調(そうじょう)、その次に鳧鐘調(ふしょうじょう)を置き、夕(さく)の穴は、黄鐘調(おうしきじょう)です。その次に鸞鏡調(らんけいじょう)を置いて、中の穴は盤渉調(ばんしきじょう)で、中と六との間に、神仙調があります。 このように、穴と穴との間にみな一律を潜ませているのに、五の穴のみ、次の上(じょう)との間に一律を持たず、しかも、穴と穴と間隔が他と同じなので、その音が不快に聞えます。だから、この穴を吹くときには、かならず、吹口から口を離すのです。うまく離さないときは、他の楽器と調和せず、満足に吹ける人はめったにいません』と申していた。これは至言であって、じつに興味深かった。先輩が後進の可能性を畏敬するというのは、まさにこのようなことだ」 ということであった。 |
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| 後日、景茂(かげもち)が申すには、「笙(しょう)は、調律をきちんとして持っていれば、あとはただ吹くだけのことだ。笛は吹きながら、息づかいの間に一方で調律しながら吹く楽器なので、どの穴についても、口伝(くでん)に加えて、吹く者の天分によって心をこめて吹かねばならないのは、五の穴ばかりではない。ただ、ロから離して吹けばよいというものでもない。下手(へた)に吹くなら、どの穴の場合も変な音が出るのだ。名手は、どの穴でも、調子を合わせて吹く。旋律が楽器に合わないのは、吹く人に責任がある。楽器が悪いのではない」と申していた。 |
| この段と前段の関連性について 音楽の専門知識がからむ少し難しい話なので、最初に諸注釈書の中で最も詳しい安良岡康作氏の解説(『徒然草全注釈.下巻』p412)を引用しておきたい。
私はこの「四条黄門」は隆資に違いないと考えているのであるが、その理由のひとつは、一般に全く何の関係もないと思われている前段(第218段)に、人に食いつく狐が「堀川殿」(兼好が家司として仕えた堀川家の邸宅)に現れたという奇妙な話が出てくるからである。 狐は兼好の師である二条為世(1250〜1338.89歳)が登場する第230段にも「化け損じける」「未練の狐」として登場するが、その段では極めて意味深長な表現が用いられており、私には兼好が後深草院二条を狐に譬えて揶揄しているように思われる。 それと併せて第218段を読むと、「人に食いつく狐」もやはり『増鏡』で堀川家に執拗に嫌がらせを繰り返す後深草院二条を揶揄しているもののようであり、そうだとすると、その次の第219段は、音楽の話にことよせて、四条隆資と四条隆資に多大の期待を寄せた『増鏡』の作者を嘲笑しているような感じがするのである。 即ち、「先達、後生を畏る」(先進者は、後輩の将来への成長を畏敬する)云々という記述は、四条隆資が軽率に未熟者の言を信じて判断を誤ったことを、『増鏡』の作者たる後深草院二条が『増鏡』の最後に四条隆資を登場させて将来の活躍を大いに期待したことと重ね合せて、両方とも全く短慮の至りだねと嘲笑しているように思われる。 |
