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| 原文(『徒然草(四)全訳注』.p168) 竹谷乗願坊(たけだにのじようぐわんばう)、東二条院(とうにでうのゐん)へ参られたりけるに、「亡者(まうじや)の追善(ついぜん)には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言(くわうみやうしんごん)・宝篋印陀羅尼(ほうけふいんだらに)」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏に勝(まさ)る事候(さうら)ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我が宗(しゆう)なれば、さこそ申さまほしかりつれども、まさしく、称名(しようみやう)を追福(ついふく)に修(しゆ)して巨益(こやく)あるべしと説ける経文(きやうもん)を見及ばねば、何に見えたるぞと重ねて問はせ給はば、いかが申さんと思ひて、本経(ほんぎやう)の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。 |
| 三木紀人氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 竹谷(たけだに)に住む乗願坊(じょうがんぼう)が東二条院のもとに参上なさったところ、「故人の追善のためには、なにをすれば御利益(ごりやく)が多いか」と御下問があったので、「光明真言(こうみょうしんごん)・宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)です」と申し上げた。 それについて、弟子どもが、「なぜそのように申し上げられたのですか。念仏にまさることはありますまいと、なぜ申し上げられなかったのですか」と申すと、「念仏は自分の宗旨だから、そのように申し上げたかったのだが、称名(しょうみょう)を故人の追善のために行って大きな御利益があるはずだと、たしかに説いてある経文を見たことがないので、もし、念仏をお勧めして、それはどの経典にあるのかと女院が重ねてお聞きになれば、どう申し上げればよいのか、と思って、たしかな根拠となる経文にもとづいて、この真言と陀羅尼を申し上げたのだ」とおっしゃった。 |
| 東二条院の実像について 『徒然草』に関する多くの注釈書においては、第222段のテーマは浄土門の碩学の謙虚な人柄、主役はあくまで乗願坊であり、東二条院は乗願坊の立派さを引き立てる脇役に過ぎないものと扱われている。 しかし、逆の見方も充分可能のように思われる。すなわち東二条院は少女の頃から極めて理知的で、64歳上の碩学すら、この人を前にしては安易な誤魔化しは許されないと自覚するほどに深く真摯に物事を考える女性であった、という具合に。 実際、25歳で入内するに至るまでの東二条院(公子)の立場は決して権門西園寺家の箱入り娘という気楽なものではなく、自分一人では解決しようのない政治の渦に巻き込まれて悩み多いものだったように思われる。 当時の政局を概観すると、1232年生まれの公子が11歳になった1242年、若干12歳の四条天皇が急死して後高倉院の皇統が断絶し、順徳院皇子を推した九条道家・西園寺公経の意向に反して、親王宣下すらなされず、世間から忘れ去られた存在だった土御門院皇子(後嵯峨天皇)が鎌倉側の強力な介入により践祚することに決まる。この急激な変化に西園寺家は機敏に対応したが、九条道家は不満を隠さず、やがて蜜月時代が長く続いていた西園寺家と九条家との間の雲行きもおかしくなり、北条得宗家に反抗的とみなされた九条家の権勢は急速に衰える。 『五代帝王物語』には、「さて、主上は建長五年正月三日御元服あり。女御は大宮院の御妹まいらせ給ふ。もとは大宮院に候はせ給て、御熊野詣の時も御参ありしを、円明寺殿を婿にとるべしとて、日次まで定りたりけるを、院の御計ひにと俄にまいらせ給へば、引かへ目出度事にてぞ有ける」とあり、公子はいったんは九条道家の愛子、一条実経(1223〜1284.62歳)と結婚する日取りまで決まっていたのである。 公子が従三位に叙せられたのは1246年、15歳のときのことだから、一条実経との結婚話もおそらくその当時のことと思われるが、9歳年上で、家柄といい年齢といい、これ以上ふさわしい相手は考えにくい一条実経との結婚話が、政治情勢の急変の影響で破談になって以降、1256年に入内するまでの10年間は、公子にとって相当につらい時期だったはずである。そういう状況に置かれた公子が、物事に真摯に取り組む思慮深い女性に成長して行ったと想像することはさほど不自然ではないと思われる。 『とはずがたり』では東二条院は後深草院二条の宿敵たる嫉妬深い意地悪婆さんであり、『増鏡』にも東二条院に対する悪意とからかいに満ちた記事が多いので、東二条院の実像は相当に歪められている可能性が高い。彼女の実像は、『とはずがたり』や『増鏡』といった特異なフィルターを通してではなく、他のきちんとした史料により慎重に再検討されるべきであるが、その際には『徒然草』第222段は極めて貴重な示唆を与えてくれるのではないかと私は考える。 |