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| 原文(『徒然草(四)全訳注』.p189) 五条内裏(ごでうのだいり)には、妖物(ばけもの)ありけり。藤大納言殿(とうのだいなごんどの)語られ侍りしは、殿上人(てんじやうびと)ども黒戸(くろど)にて碁を打ちけるに、御簾(みす)を掲げて見るものあり。「誰(た)そ」と見向きたれば、狐(きつね)、人のやうについゐて、さし覗(のぞ)きたるを、「あれ、狐よ」ととよまれて、惑ひ逃げにけり。未練の狐、ばけ損じけるにこそ。 |
| 三木紀人氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 五条内裏には化け物が住んでいた。藤大納言の語られたことには、殿上人(てんじょうびと)たちが黒戸(くろど)の御所で碁を打っていたところ、御簾を持ち上げる者がいた。「だれだ」とそちらを見ると、狐が人のようにひざまずいてのぞいていた。しかし、「あっ、狐だ」と大声で騒がれて、あわてて逃げてしまった。
未熟な狐が化けそこなったのであろう。 |
| 五条内裏の化け物について 五条内裏は五条大宮殿のことで、五条北、大宮東にあった里内裏である。亀山天皇に特に縁のある内裏であって、東京大学史料編纂所助教授近藤成一氏の「内裏と院御所」(『都市の中世』.吉川弘文館)p73によれば、「亀山天皇は冷泉富小路殿において受禅するが、翌文応元年(1260)五条大宮殿に移る。その後弘長二年(1262)二条高倉殿に移り、文永二年(1265)五条大宮殿にもどるが、文永七年(1270)五条大宮殿が焼亡し、亀山はいったん冷泉万里小路殿に避難した後、二条高倉殿に移る。」とのことである。 近藤氏の論文に付された「殿第の位置」図によれば、二条大路あたりを軸として東から常磐井殿・冷泉富小路殿・大炊御門殿・冷泉万里小路殿・二条高倉殿・三条坊門殿・閑院殿がひとつのグループをつくっているが、五条大宮殿はそこからぽつんと南に離れて存在しており、位置だけから見てもどこか寂しそうな感じが漂う内裏である。 五条の内裏については、『五代帝王物語』に、二箇所に分けて次のような記述が見られる。
さて、五条内裏は1270年8月22日、二条為世がまだ21歳の時に焼亡しているのであるが、この話は為世が若い頃の奇譚を語ったという、ただそれだけの話として従来扱われてきており、諸注釈書の記述もあっさりしたものが殆どである。 しかし、『増鏡』巻13「秋のみ山」に、後宇多院側近として権勢を振るう二条為世に対し極めて辛辣な批評がなされていることを考えると、どうもこの段が極めて奇妙な話に思えてくる。兼好の師は二条為世であって、仮に兼好が『増鏡』を読んでいたとすれば、為世に関する批評など、本当に気分が悪い箇所である。また、それ以外にも、堀川家に仕えた経験を持ち、後宇多院・後二条天皇を敬愛していた兼好にとって、『増鏡』は極めて不愉快な話が連続する唾棄すべき書物である。 仮に兼好が『増鏡』を読んでいたとすれば、また『とはずがたり』も併せて読んでいて、『とはずがたり』の「二条」が『増鏡』では「三条」という名前で登場する奇妙な場面の意味するところに気づいていたとすれば、二条為世が語ったたわいない昔話をそのまま載せたに過ぎないと思われてきた第230段の意味は全く別なものとなる。即ち、あるときは「二条」、またあるときは「三条」などと名前を使い分けてうまく化けおおせたつもりになっている「未熟な狐」への、あわせて「五条」ですか、御苦労さまなことですな、という徹底的な侮蔑・嘲笑である。 なお、この段に続く第231段が『とはずがたり』の粥杖事件を連想させる鯉を斬る話であり、そこに西園寺実兼が登場し、さらに「何条」(なでう)という言葉が出てくることも、上記解釈を補強するものではないかと私は考える。 |