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『徒然草』第230段 五条内裏には






原文(『徒然草(四)全訳注』.p189)


 五条内裏(ごでうのだいり)には、妖物(ばけもの)ありけり。藤大納言殿(とうのだいなごんどの)語られ侍りしは、殿上人(てんじやうびと)ども黒戸(くろど)にて碁を打ちけるに、御簾(みす)を掲げて見るものあり。「誰(た)そ」と見向きたれば、狐(きつね)、人のやうについゐて、さし覗(のぞ)きたるを、「あれ、狐よ」ととよまれて、惑ひ逃げにけり。未練の狐、ばけ損じけるにこそ。



三木紀人氏による現代語訳


私の立場からの補足


 五条内裏には化け物が住んでいた。藤大納言の語られたことには、殿上人(てんじょうびと)たちが黒戸(くろど)の御所で碁を打っていたところ、御簾を持ち上げる者がいた。「だれだ」とそちらを見ると、狐が人のようにひざまずいてのぞいていた。しかし、「あっ、狐だ」と大声で騒がれて、あわてて逃げてしまった。 未熟な狐が化けそこなったのであろう。
「藤大納言殿」は兼好の歌道の師である二条派の総帥二条為世(1250〜1338.89歳)のこと。第153段に登場する京極為兼(1254〜1332.79歳)の従兄弟。御子左家系図はこちら


五条内裏の化け物について


 五条内裏は五条大宮殿のことで、五条北、大宮東にあった里内裏である。亀山天皇に特に縁のある内裏であって、東京大学史料編纂所助教授近藤成一氏の「内裏と院御所」(『都市の中世』.吉川弘文館)p73によれば、「亀山天皇は冷泉富小路殿において受禅するが、翌文応元年(1260)五条大宮殿に移る。その後弘長二年(1262)二条高倉殿に移り、文永二年(1265)五条大宮殿にもどるが、文永七年(1270)五条大宮殿が焼亡し、亀山はいったん冷泉万里小路殿に避難した後、二条高倉殿に移る。」とのことである。

 近藤氏の論文に付された「殿第の位置」図によれば、二条大路あたりを軸として東から常磐井殿・冷泉富小路殿・大炊御門殿・冷泉万里小路殿・二条高倉殿・三条坊門殿・閑院殿がひとつのグループをつくっているが、五条大宮殿はそこからぽつんと南に離れて存在しており、位置だけから見てもどこか寂しそうな感じが漂う内裏である。

 五条の内裏については、『五代帝王物語』に、二箇所に分けて次のような記述が見られる。

 「去年二月十九日法成寺の金堂回禄、康元元年二月十日官庁焼亡、同廿八日五条殿炎上、打ちつづきあさましかりき。五条殿は大宮院の御所なるべしとて、常磐井の大相国の造られしかば、橘知茂が沙汰にて造りしに、閑院の外京中になきほどの御所を造りたてて、御移徙に両院(後嵯峨・大宮)御幸ありて、めでたかりしに、程なくやけたりしを、なじかは又つくり侍らざらんと橘知茂申しけるによりて、又同じき程につくりて、常に内裏にもなりしうへに、将軍御昇りあらば、これが御所になるべしなど沙汰ありて、障子には年中行事を絵にかかれて、経朝の御言葉がきなどして、ゆゆしき御所にてありしに、文永七年八月に折ふし主上もこの御所にわたらせ給しに又焼けぬ。大かたこの御所には変化どもの事ども常にありと聞えしかば、つゐに久しからず。二度ながらおびただしき焼亡にて、ただごとならぬ儀にてありしは、天魔の所為にや侍らん。」

 「同七年四月十九日より主上御発心地煩はせ給ふ。内裏五条殿に近ごろあまりに変化の事おほくて、ある夜は関白の侍り給ひけるに、南殿の上に百千の石瓦を高き所よりうつしをく音のやうにしけるが、翌朝にみせられければ、棟の瓦少々落ちたる外は別事なかりけり。また中将公秋朝臣御後をとをりけるに、天井の上に舌をとのしけるに、虚空に眼ばかりみえけり。またある夕暮に長丈余なる翁の束帯を正して弘御所の辺に見えける。かやうの曲事どもきこえしが、かかる御悩あればさまざまの御祈を始めらる。御験者には宗信法印参りて祈落まいらせたりしかば権僧正になさる。円融院御位の時、御瘧心地ありけるに、慈恵大僧正御験者に参りて禄を給はりたりける例とて、水精念珠、御檜扇にをかれて、禄に給ひたるほどに、程へてまた発らせ給ひて、三月まで煩はせ給ひしが、この度は道朝僧正まいりて効験あればこれも賞を蒙れり。大方御在位の時御瘧病は延喜・天暦・寛仁・延久など例あり。皆聖代明時の佳例とも申すべきにや。」

 瓦がいっぱい落ちる音がしたのに、実際には少々落ちていただけだったとか、天井の上で舌音がするので見上げると、虚空に眼だけが光っていたとか、夕暮れに長さ一丈余りの翁が冠帯を正して弘御所の辺に見えただとかの、説話集などにもよくある怪談話に過ぎないが、分量の多さから見て、『五代帝王物語』の作者は五条殿に相当の関心を持っていたようである。まあ、単なる怪談話好きだったのかも知れないが。

 さて、五条内裏は1270年8月22日、二条為世がまだ21歳の時に焼亡しているのであるが、この話は為世が若い頃の奇譚を語ったという、ただそれだけの話として従来扱われてきており、諸注釈書の記述もあっさりしたものが殆どである。

 しかし、『増鏡』巻13「秋のみ山」に、後宇多院側近として権勢を振るう二条為世に対し極めて辛辣な批評がなされていることを考えると、どうもこの段が極めて奇妙な話に思えてくる。兼好の師は二条為世であって、仮に兼好が『増鏡』を読んでいたとすれば、為世に関する批評など、本当に気分が悪い箇所である。また、それ以外にも、堀川家に仕えた経験を持ち、後宇多院・後二条天皇を敬愛していた兼好にとって、『増鏡』は極めて不愉快な話が連続する唾棄すべき書物である。

 仮に兼好が『増鏡』を読んでいたとすれば、また『とはずがたり』も併せて読んでいて、『とはずがたり』の「二条」が『増鏡』では「三条」という名前で登場する奇妙な場面の意味するところに気づいていたとすれば、二条為世が語ったたわいない昔話をそのまま載せたに過ぎないと思われてきた第230段の意味は全く別なものとなる。即ち、あるときは「二条」、またあるときは「三条」などと名前を使い分けてうまく化けおおせたつもりになっている「未熟な狐」への、あわせて「五条」ですか、御苦労さまなことですな、という徹底的な侮蔑・嘲笑である。

 なお、この段に続く第231段が『とはずがたり』の粥杖事件を連想させる鯉を斬る話であり、そこに西園寺実兼が登場し、さらに「何条」(なでう)という言葉が出てくることも、上記解釈を補強するものではないかと私は考える。







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