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| 原文(『徒然草(四)全訳注』.p191) 園(その)の別当入道(べつたうにふだう)は、さうなき包丁者(はうちやうじや)なり。ある人のもとにて、いみじき鯉(こひ)を出(い)だしたりければ、皆人(みなひと)、別当入道の包丁を見ばやと思へども、たやすくうち出(い)でんもいかがとためらひけるを、別当入道さる人にて、「この程、百日(ひやくにち)の鯉を切り侍(はべ)るを、今日欠(か)き侍るべきにあらず。まげて申し請(う)けん」とて切られける。 いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、ある人、北山太政入道殿(きたやまのだいじやうにふだうどの)に語り申されたりければ、「かやうの事、おのれはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給(た)べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条(なんでふ)、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと、人の語り給ひける、いとをかし。 |
| 三木紀人氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 園の別当入道は、並ぶ者のない料理の名手であった。ある人のもとで、見事な鯉を披露したことがある。一座の人はすべて、別当入道の料理ぶりを見たいと思ったが、軽々しくそれを口にするのもいかがかとためらっていると、別当入道は気の利く人で、「近ごろ、百日間、鯉を切ることを日課としておりますが、今日それを欠かすわけに行きません。ぜひ、その鯉を頂戴したいものです」とおっしゃってお切りになった。
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| じつにその場にふさわしいことで、人々が興あることに思ったが、ある人が、それを北山太政入道殿にお話すると、『そのような行為を、自分はじつに煩わしく思う。「適当な料理人がいなければ、私に下さい。切りましょう」と言ったら、なおよかったろう。なぜ、百日の鯉を切るなどと言う必要があるか』とおっしゃった。その意見をおもしろく感じたと、ある人がおっしゃったというが、私もじつに同感である。 |
仮に実兼だとすると、『とはずがたり』において、愛人二条の出産に立ち会うために周囲には春日大社に籠もったことにしておく、といった小細工を頻りに行う「雪の曙」は、兼好によって描かれた口実が嫌いで率直さを好む西園寺実兼とは相当に異質な人間ということになる。 |