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| 原文(『徒然草(二)全訳注』.p105) 岡本関白殿(をかもとのくわんぱくどの)、盛りなる紅梅の枝に、鳥一双(いつさう)を添へて、この枝に付けて参らすべきよし、御鷹飼(おんたかかひ)下毛野武勝(しもつけののたけかつ)に仰せられたりけるに、「花に鳥付くる術(すべ)、知り候はず。枝に二つ付くる事も、存知候はず」と申しければ、膳部(ぜんぶ)に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、また武勝に、「さらば、おのれが思はんやうに付けて参らせよ」と、仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つを付けて参らせけり。 武勝が申し侍(はべ)りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるとに付く。五葉(ごえふ)などにも付く。枝の長さ七尺、あるいは六尺、返し刀五分に切る。枝の半(なか)ばに鳥を付く。付くる枝、踏まする枝あり。しじら藤(ふぢ)のわらぬにて、二ところ付くべし。藤の先は、ひうち羽(ば)の長(たけ)に比べて切りて、牛の角のやうに撓(たわ)むべし。 初雪の朝(あした)、枝を肩にかけて、中門(ちゆうもん)より振舞(ふるま)ひて参る。大砌(おほみぎり)の石を伝ひて、雪に跡をつけず、あまおほひの毛を少しかなぐり散らして、二棟(ふたむね)の御所(ごしよ)の高欄(かうらん)に寄せ掛く。禄(ろく)を出(い)ださるれば、肩に掛けて、拝して退く。初雪といへども、沓(くつ)のはなのかくれぬほどの雪には参らず。あまおほひの毛を散らすことは、鷹は、よわ腰(ごし)を取る事なれば、御鷹の取りたるよしなるべし」と申しき。 花に鳥付けずとは、いかなる故(ゆゑ)にかありけん。長月(ながつき)ばかりに、梅の作り枝に、雉を付けて、「君がためにと折る花は時しも分(わ)かぬ」と言へる事、伊勢物語に見えたり。造り花は苦しからぬにや。 |
| 三木紀人氏による現代語訳 |
岡本関白殿が、満開の紅梅の枝に一つがいの雉(きじ)を添えて、この枝に雉を取り付けてさし出すようにと、御鷹飼(おんたかかい)の下毛野武勝(しもつけののたけかつ)にお命じになったところ、武勝は「花に鳥を付ける仕方は存じません。まして、一枝に二羽を付けることも承知しておりません」と申し上げた。そこで、関白は料理人に尋ね、心当たりの人々にお聞きになって、ふたたび武勝に「それなら、お前の思うように付けて提出せよ」と仰せになると、彼は花のない梅の枝に、一羽を付けて差し上げたのであった。 武勝の申したことは次のような内容であった。柴(しば)の枝や梅の枝には、まだつぼみのころか花が散った後に付ける。五葉(ごよう)の松などにも付ける。枝の長さを七尺、または六尺に切り、切り口は返し刀で五分の長さにする。その枝の中ほどに鳥を付ける。雉(きじ)を付ける枝と、足を置かせる枝とがある。しじら藤のつるを裂いてないものを用いて二箇所に結び付けねばならない。その藤の先は、ひうち羽(ば)の長さに合わせて切って、牛の角(つの)のような形にたわめておくべきだ。 初雪の降った朝、枝を肩に掛けて、中門(ちゅうもん)から威儀をつくろって参上する。そして、大砒(みぎり)の石を伝わって歩き、雪に足跡をつけぬようにし、雉のあまおおいの毛を少しむしり取って、二棟の御所の高欄(こうらん)にその枝を立てかけておく。ご祝儀の衣を出されたら、それを肩にかけて拝礼をして退出する。初雪とはいっても、沓(くつ)の先が隠れぬ程度の雪なら参上しない。あまおおいの毛を散らすのは、鷹が獲物の鳥の弱腰をつかむものなので、あたかもお飼いになっているお鷹がその鳥を捕えたかのようにするためなのであろう。 武勝の言にある、花に鳥を付けないものだというのは、いかなるわけであろう。九月ごろ、梅の造花に雉を付けて、「君がためにと折る花は時しも分かぬ」(ほかならぬあなた様のためにと思って折った花は、時節も分かず、秋なのにこのとおり咲いております)と言ったということが「伊勢物語」に見えている。造花ならばさしつかえがないのだろうか。 |
| ※岡本関白殿は近衛家平(1282〜1324.43歳)のことで、家平については『増鏡』にその男色癖と死に際しての怪談めいた奇妙な話が執拗に描かれている。また、『増鏡』には近衛家平と異母弟近衛経平(1287〜1318.32歳)との兄弟間の相続争いが冷ややかに描かれており、『増鏡』作者の近衛家平に向けられた視線は極めて冷酷である。 他方、『増鏡』の扱いとは対照的に、『徒然草』では近衛家平は極めて好意的に描かれている。三木紀人氏が「解説」で述べられているように、この段を読むと、「ふとした思い付きによる関白の指示に対し、自分の知る作法をたてにして従わない武勝の毅然とした姿、彼に一目(いちもく)置いてその所見に従って行動させる家平の謙虚さ、それも単純な譲歩ではなく、ひとまず衆知を問うあたりの配慮の周到さ、等々が鮮やかに印象に残る」のであって、家司として堀川家に仕えていた経験を持つ兼好が、目下の者にとって仕え甲斐がある人物として近衛家平を高く評価しているのは明らかである。 私はこの段を、『とはずがたり』と『増鏡』によって名誉を汚されてしまった人物の復権を図る兼好の努力の現れのひとつと考えているが、東京大学教授五味文彦氏の捉え方はまったく逆である。即ち、同氏の『『徒然草』の歴史学』(朝日選書)p111には次のような記述がある。
確かに藤原頼長(1120〜1156.37歳)の日記『台記』には頼長とその随身の秦公春との間に男色関係があったことが記されているが、悪左府頼長が極めて特異な性格の人であり、また両者の関係も、頼長が密かに秦公春に殺人を命じ、秦公春がそれを実行するといった、一種異様な関係であることも有名であって、そんな変な摂関と変な随身の間の関係を、そうそう一般化してよいはずはない。また、『徒然草』には第90段のように男色の話も出てくるが、そこにはつねにからかい気味の視線が伺われるのに対し、第66段には全くそのような気配はない。 「院政期政治史断章」(『院政期社会の研究』所収)という有名な論文を書かれた五味文彦氏は、男色関係という分析と叙述が困難な分野の開拓者の一人であって、それはそれでもちろん価値のあることであるが、しかし、この『徒然草』第66段の分析のように、ちょっと行き過ぎの傾向があるように思われる。 ※摂関家系図はこちら。 |
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