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| 原文(『徒然草(二)全訳注』.p173) 竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに、何のとどこほりかおはせんなれども、「珍しげなし。一上(いちのかみ)にてやみなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心(かんじん)し給ひて、相国(しやうこく)の望みおはせざりけり。 「亢竜(かうりよう)の悔(くい)あり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。よろづの事、先のつまりたるは、破れに近き道なり。 |
| 三木紀人氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 竹林院の入道左大臣殿は、太政大臣に昇進なさるのに何の支障もない方であったが、「そんな位など当たり前すぎて、少しも珍しくない。私は左大臣でやめにしておこう」とおっしゃって出家なさってしまった。洞院(とういん)の左大臣は、このことに感心なさって、太政大臣への望みをお持ちにならなかったという。 |
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| 「亢竜(こうりょう)の悔(くい)あり」とかいうことがある。月は満ちれば欠け、物事は盛りを極めると衰える。万事、極限に達したものは、破滅に近いのが物の道理である。 |
| 補論 西園寺家歴代当主の太政大臣就任 西園寺家当主は公経(1171〜1244.74歳)・実氏(1194〜1269.76歳)・公相(1223〜67.45歳)・実兼(1249〜1322.74歳)と4代にわたって太政大臣となった。 公経が太政大臣になったのは承久の乱の翌1222年、52歳のときであるが、これは承久の乱に際して後鳥羽院の不穏な動きを急報するなど鎌倉方の迅速な反撃を助け、乱後においても、皇位についたことのない後高倉院を治天の君とし、後鳥羽院ら三上皇を配流するといった異例な戦後処理を断行することに多大の協力をしたためである。 実氏は娘公子(大宮院)所生の後深草天皇が1246年1月、わずか4歳で践祚した2か月後に53歳で太政大臣となっており、これは外戚にふさわしい地位という趣旨であろう。 公相は1261年、39歳の若さで太政大臣となっているので、西園寺家から太政大臣を出すことが完全に定着したかのような印象を受ける。 さて、実兼は1267年に父公相を、1269年に祖父実氏を相次いで失い、若干21歳にして西園寺家の家督を相続し、あわせて関東申次の重責を担うことになるが、1271年に23歳で権大納言となって以降、その昇進は完全にストップしてしまい、1288年10月に40歳で大納言になるまで、実に17年間も権大納言正二位にとどまっていたのである。 これは1275年、後深草院の意を受けて鎌倉側を動かし、煕仁親王(伏見天皇)を皇太子として自らは春宮大夫となった実兼に対する亀山院側の報復のように思われる。 1287年10月、後宇多天皇から伏見天皇への譲位がなされると状況は一変し、翌1288年10月大納言、同11月に右大将を兼ね従一位となり、1288年10月内大臣、そして1291年12月、実兼は43歳でとうとう太政大臣となった。 公衡の場合、1288年11月に25歳で権大納言となり、1292年5月に右大将を兼ねたが、同閏6月に右大将を止められ、同時に権大納言も辞し、以後しばらく散位の期間が続いた。そして1297年8月権大納言に還任、同時に右大将を兼ね、同10月に34歳で大納言、翌1298年6月内大臣、1299年4月右大臣となるも同12月に辞し、再び散位の期間が続く。そして1309年3月、46歳で左大臣となるが、同6月に上表。1311年8月に出家である。 散位の期間中であっても、公衡は関東申次実兼のもとで、また自ら関東申次として政治活動は活発に行っているのであるが、公衡の経歴を細かく追って行くと、公衡が本当に「太政大臣にあがり給はんに、何のとどこほりかおはせんなれども」という立場にあったのかは相当に疑問である。 公衡が太政大臣になれなかった主たる原因は後宇多院との確執にあったように思われるが、その点は森茂暁氏の『鎌倉時代の朝幕関係』などによりつつ、別途検討したい。 |