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『徒然草』第99段.堀川相国は




原文(『徒然草(二)全訳注』.p235)


 堀川相国(ほりかはのしやうこく)は美男(びなん)の楽しき人にて、そのこととなく過差(くわさ)を好み給ひけり。御子(おんこ)基俊卿を大理(だいり)になして、庁務(ちやうむ)おこなはれけるに、庁屋(ちやうや)の唐櫃(からひつ)見苦しとて、めでたく作り改めらるべきよし仰せられけるに、この唐櫃は、上古(しやうこ)より伝はりて、その始めを知らず、数百年(すひやくねん)を経たり。累代の公物(くもつ)、古弊(こへい)をもちて規模(きぼ)とす。たやすく改められがたきよし、故実(こしつ)の諸官等申しければ、その事止(や)みにけり。



三木紀人氏の現代語訳

私の立場からの補足

 堀川相国は美男のうえに豊かな人で、何事につけても贅沢の好きな方だった。御子息の基俊卿を検非違使の別当にして、実質的には相国が検非違使庁の事務を行なわれた。ある時、庁の中にあった唐櫃(からひつ)を見苦しいと思われて、新調されるよう指示なさったが、この唐櫃は遠い昔から伝わり、その起源はわからないが、何百年も経たものである。代々伝わった公用の器物は、古びていたんでいるのを名誉とする。だから、たやすく改めるわけにはいかないと、故実に通じた役人たちが申し上げたので、その件は沙汰やみになってしまった。



堀川基具(1232〜1297.66歳)は兼好が仕えていた具守(1249〜1316.68歳)の父。具守が登場する『徒然草』第107段はこちら
基俊(1261〜1319.59歳)は具守の12歳下の弟。『徒然草』第162段にも登場する。基俊が検非違使別当だったのは1285年4月から翌年にかけてで(辞した月日ははっきりしない)、このころ基具は、散位ではあるが准大臣という特別な地位にあった。(准大臣についてはこちら。)


堀川基具と中院雅忠の関係


 この第99段は、構成上明らかに第100段「久我相国は」と対をなしており、従来は故実に無知で横暴な堀川基具と、故実に詳しく瑣事であってもそれを尊重する久我通光(後深草院二条の祖父)を対照的に描き、兼好が暗に堀川基具を非難しているものと解釈されてきた。

 私は兼好が自分の仕えた堀川家の大黒柱たる基具の悪口を言うはずはなく、兼好の両者に対する評価はまったく逆であると考えるが、その点の検討は安良岡康作氏の『徒然草全注釈』を素材として別途行うものとし、ここでは堀川基具と後深草院二条の父、中院雅忠の関係を考えてみたい。

 『とはずがたり』巻1の雅忠の臨終に続く場面で、堀川基具の名前は極めて唐突に登場する。即ち、「露消えにしあしたは、御所御所の御使よりはじめ、雲の上人おしなべて、たづね来ぬ人もなく、使をおこせぬ人なかりしなかに、基具の大納言ひとりおとづれざりしも、世の常ならぬことなり。(父が露と消えてしまった朝は、各御所からの御使いをはじめ、大宮人はいずれも弔問しない人なく使者をよこさない人もなかったなかに、基具大納言がひとり訪れなかったのは尋常ならぬことであった。)」という具合に、堀川基具は後深草院二条に手厳しく筆誅を加えられているのである。

 私は、雅忠は娘から女好き・酒好きと言われているくらいなので(その場面はこちら。)、太政大臣にまで昇った堀川基具と比べたら、政治家としてかなり劣る人物だったのではないかと何となく思っていたのであるが、その経歴を見ると、どうもそうではないようである。

 下の表は、『公卿補任』から堀川基具と中院雅忠に関する記述を抜粋し、整理したものであるが、これを見るだけでも、雅忠が決して無能な人物ではなかったこと、また二人が互いに強いライバル意識を抱いていたであろうことが伺える。

 まず両者の年齢であるが、奇妙なことに雅忠の年齢は、『公卿補任』自体に矛盾があって、はっきりしない。即ち、正元元年(1259)までの記述だと、例えば正元元年の時点で35歳となっているので嘉禄元年(1225)生まれとなるはずであるが、これが正元2年(1260)以降は、正元2年の時点で33歳といった具合に、安貞2年(1228)生まれになってしまうのである。

 このように少し変なのであるが、雅忠が年上であることは間違いなく、雅忠が1228年生まれだとすると、中院雅忠は1232年生まれの堀川基具より4歳上である。(以下、1228年生まれとして述べる。)

 しかし、この年齢差にもかかわらず、出仕の当初、両者の地位は概ね基具のそれが雅忠を上回った。即ち、従三位に叙され、公卿の仲間入りをした年は雅忠が1年先行していたにもかかわらず、基具が19歳で参議になっても雅忠は暫く散位のままであり、1252年11月3日、雅忠が25歳でようやく参議になったまさにその日に、21歳の基具は権中納言に任ぜられている。雅忠が権中納言となって基具と並ぶのは1254年である。

 以後、暫く二人とも権中納言のままであるが、1261年3月27日、基具が中納言に昇進したのに対し、雅忠は一挙に権大納言に進み、基具は同年11月4日に権大納言となって、何とか面目を保った感じである。

 更にその後は両者ともに権大納言に10年とどまり、1271年3月27日になって、同時に大納言に昇進することになるが、その前年に雅忠が淳和・奨学院別当、つまり源氏長者になっているので、この時点で両者の関係は逆転したものと考えてよいと思われる。(なお、『公卿補任』の記載においても、両者は長期間、殆ど隣り合わせとなっているが、1258年以降は雅忠の方が先に記述されている。)

 以上のように、1254年に雅忠が権中納言になって以降、両者はつねに互いを強く意識せざるをえない立場に置かれていたが、1261年の微妙な動きなどを見ると、この背後には後嵯峨院の意図的な操作があるような感じを受ける。 

 後嵯峨院は、鎌倉幕府に対しては常に慎重すぎるほど慎重に対応したが、朝廷内部においては、時に強引な人事を行うなどして巧妙に諸臣を誘導し、自分への忠誠と献身を怠らないように仕向けており、雅忠と基具も、後嵯峨院の厳しい視線を感じつつ、互いに切磋琢磨していたのではないかと思われる。

 雅忠の場合、1248年に父の通光が亡くなり、しかも通光は後妻にすべての財産を与えて一族の大混乱を引き起こしてしまったので(その具体的様相はこちら。)、当初はしっかりした後ろ盾もないまま、厳しい時期を過ごさざるをえなかったのであろうが、後嵯峨院政下で淳和・奨学院別当にまでなったということは、相当の才覚があり、また努力もした人なのだろうと想像される。

 基具も、その処遇のために、准大臣という三百年近くも前の先例が必要となるような人であり、また、1272年の雅忠の死により淳和・奨学院別当になってからは、淳和院別当は1284年に土御門定実に譲るまで、奨学院別当は1288年に久我通基に譲るまで、極めて長期間、その任にあったほどであるから、そうした外形面だけを見ても相当な人物だったことが伺える。



堀川基具

中院雅忠

備考

1228安貞2 生まれる
1232貞永4 生まれる
1237嘉禎3 1/5叙爵 11/3侍従
1238暦仁元 12/20侍従 1/5従五位上
1239延応元 10/28右少将
11/6左少将
1240仁治元 10/24従五位上 1/22兼下野介
11/12正五位下
1241仁治2 4/23右少将
1242仁治3 1/5従四位下
3/7兼尾張介

12/25従四位下
1/5従四位下
10/18右中将
1/9四条天皇崩御
1/20後嵯峨天皇践祚
1244寛元2 1/5従四位上
4/5右中将
1/5従四位上
1245寛元3 1/13兼因幡権介
1246寛元4 1/5正四位下
2/23兼尾張介
1/5正四位下 1/29後深草天皇践祚
久我通光(60歳)
12/24太政大臣・従一位
1247宝治元 9/27中宮権亮 12/8蔵人頭
1248宝治2 10/29蔵人頭・左中将 10/29従三位(21歳)
(建長4まで散位)
久我通光(62歳)
1/17太政大臣を辞す
1/18没
1250建長2 1/13参議(19歳)
4/9
従三位
因幡権守 堀川具実(48歳)
5/17内大臣
11/28内大臣を辞す
1251建長3 1/22兼讃岐権守 1/5正三位 堀川具実(49歳)
3/4出家
1252建長4 11/13権中納言(21歳)
(月日?)正三位
11/13参議 (25歳)
12/4兼左衛門督・使別当
1253建長5 9/2従二位
1254建長6 1/5従二位 1/13権中納言(27歳)
8/4左衛門督・使別当を辞す
1255建長7 9/19兼左衛門督
1257正嘉元 1/29兼中宮権大夫(※)
2/7正二位
※中宮=西園寺公子
1258正嘉2 1/5正二位 ☆後深草院二条生まれる
1259正嘉3 11/26亀山天皇践祚
1261弘長元 3/27中納言
11/4権大納(30歳)
3/27権大納言(34歳)
8/20兼中宮大夫(※)
※中宮=西園寺嬉子
1268文永5 12月止中宮大夫(※)
※院号[今出川院]宣下
のため
1270文永7 淳和・奨学院別当(43歳)
1271文永8 3/27大納言(40歳) 3/27大納言(44歳)
1272文永9 8月淳和・奨学院別当(41歳) 8/3没(45歳) 2/17後嵯峨院崩御
1274文永11 4/28大嘗会検校 1/26後宇多天皇践祚
1277建治3 4/26服解(父)10/6復任 4月堀川具実没(75歳)
1283弘安6 12/20従一位(52歳)
1284弘安7 1/13大納言を辞す
1/15准大臣(53歳)
淳和院別当を辞す

土御門定実(44歳)
2/11淳和院別当
1287弘安10 10/21伏見天皇践祚
1288正応元 奨学院別当を辞す 久我通基(49歳)
9/12奨学院別当
1289正応2 8/29太政大臣(58歳)
1290正応3 3/13太政大臣を辞す 3/9浅原事件
1296永仁4 11/3出家
1297永仁5 5月没(66歳)





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