更新10.11/22 up10.11/19


萩原進 「上州かかあ天下考」
(『日本歴史地名大系・群馬県の地名』付録「歴史地名通信21」.平凡社.昭和62年)






萩原進氏の略歴(『群馬県人名大事典』上毛新聞社より)
(はぎわらすすむ)郷土史家。1913(大正2)年吾妻郡長野原町応桑に生まれ、’34(昭和9)年3月群馬師範卒。在学中群師史学会を組織し、卒業と同時に嬬恋村東尋常高小訓導となり、吾妻地方の郷土史研究を続け、一時病気休職となったが、’37年復職同村西小訓導となる。この間「天明3年浅間焼け」の研究に大きな成果をあげる。’39年群師専攻科に入り史学を専攻し、翌年前橋市桃井小に赴任した。このころ『上毛及上毛人』『上毛文化』誌上に次々と優れた論考を発表し、県郷土研究同攷会を結成するなど全県的活動をはじめた。’43年県史蹟主事。’45年3月吾妻郡長野原国民学校教頭。戦時中の活躍から’46年11月教職不適格該当で退職。県農業会勤務をへて、’48年9月県議会書記、翌年県議会図書室長に就任。’67年5月より前橋市立図書館長に就任、’75年3月退職。県文化財専門委員、県史編纂委員など多くの委員に委嘱された。編著150冊余の驚異的著作に対し、’81年第1回上毛出版文化特別賞を受けた。主な著書は『浅間山風土記』『草津温泉史』『群馬県青年史』『郷土芸能と行事』『群馬県遊民史』『上州−風土と人』など。なお県下全 市町村で幅広い講演、市町村誌の執筆・指導、「みやま文庫」「群馬歴史散歩の会」創設をはじめ文化運動推進者としても活躍している。(近藤義雄)



萩原進氏の見解

私の立場からの補足

上州世評の代表

 上州というとすぐ「かかあ天下にからっ風」とか「かみなり、からっ風、かかあ天下」といわれ、いまもって上州世評として喧伝されている。しかし、その発生の歴史は全くわかっていない。おそらく近世あたりから国ごとのイメージを諺のようにしていう風潮でいいはじめられたものに違いない。ほかにも「大阪の食いだおれ」「伊勢乞食」「讃岐男と阿波女」「土佐のいごっそう」「肥後のもっこす」とあげれば際限がない。内容は多くが揶揄、悪口で、褒めたものは少ない。近世に入り、庶民大衆の旅行熱にあおられて、口端から口端に伝達されたものてあろう。



広辞苑で「伊勢乞食」を引くと、「@伊勢参宮の人々に憐みを乞う乞食。A転じて、伊勢人を罵っていう語。「近江どろぼう伊勢乞食」といい、江州人の抜け目のなさ、伊勢人の節倹が江戸の商権を制圧して行くのに対する江戸人の反感が生んだ語。→伊勢屋」とある。そこで「伊勢屋」を見ると、「@江戸に移住した伊勢の商人。A江戸時代、倹約を旨とする商人の異名。伊勢出身の商人がよく節倹身を持して、宵越しの金を使わないことを誇りとした江戸人の間に伍して着々商権を拡張し、「江戸に多きものは伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるまでの繁栄を来したからいう。」となっており、伊勢商人がそんなに憎まれていたのかと、ちょっと驚く。

「讃岐男と阿波女」についてはこちら。(『香川県大百科事典』と『徳島県百科事典』を読み比べると、けっこう笑えます。)
 「かかあ天下」と書いて「でんか」と発音していることから、九州地方の「亭主関白」と無関係ではないと思われる。もともとは天下でなく殿下であったから「かかあでんか」といったのではないだろうか。最近男女雇用機会均等法案が可決されたが、男女の性による差別意識は昔からあったろうから、男の威張る地方を亭主関白といい、女の威張る地方をかかあ殿下という一つの対語ではなかったろうか。

 豊臣秀吉が天正一三年(1585)に異例の関白に叙され、その敬称を殿下ということから、関白と殿下は威張るとか権力がある、偉いという生活語になったといわれる。その内容には褒める心理と揶揄の心理の二面性が含まれている。

 群馬県庁の婦人児童課による「かかあ天下は褒め言葉と思うか、悪口だと思うか」という設問に、多くの婦人は「褒め言葉」と答えている。次に「あなたはかかあ天下だと思うか」という設問には大部分が「そうは思わない」と答えている。この二つには明らかに矛盾がある。上州の婦人もかかあ天下は悪口だと暗黙のうちに認めていると考えられる。しかしあえて褒め言葉にしようという本音がのぞいている。

 前にあげた他国の世評を見ても、半ばは褒め半ばは揶揄という二面性を持っていることから、実際は旅人の野次馬根性の悪評の方が比重が高いと見るべきではないだろうか。
豊臣秀吉(1536〜98.63歳)


資料に見るかかあ天下

 上州のかかあ天下について書かれた江戸時代の資料は寡聞にして見聞していない。強いてあげるとすれば、化政期に当時の庶民大衆の旅行ブームに乗って次々と道中別に旅行記を著述し発刊した戯作家十返舎一九の膝栗毛物の中に求められる。文政二(1818〜30)の初めに草津温泉を訪れたおりの『続膝栗毛』一○編の上州草津温泉道中に、雪隠騒動を記している。

 弥次郎兵衛が便所に入ると隣で年増の上州女が用を足していた。境の羽目板の節穴から覗いてみたら尻が丸見え。よせばよいのに落とし紙をこよりにして節穴から差し込むと女の尻を突いた。驚いてとび出した話を室に帰って北八に話した。あくる朝、件の年増が便所へいったのでこんどは北八が後をつけて隣に入ると案の定節穴があった。北八がこよりを差し込む。

ふしあなからのぞいてゐる北八、をかしくなつてふき出せば、女きがつきゆびさきにてふしあなからきた八の目をぐつとつくと、「アイタヽヽヽ。こら「てんこちもない、どこのやらうめか、じんだいじない(ツネニナイ)ものゝやうに人のまたぐらをのぞきやアがら、ト、此女も上しうものゆゑきがつよく大ごゑをあげて、わめきながらせつちんを出ると、ちん「だれだ。どうした。こら「きゝなさい。となりのせつちんのふしあなからきのふもなんだちうがな、ふしあなからつん出して、わしの尻をつゝきやアがつた。ヤイどんなやらうだ。つら見てやるべい。はやく出てうせうやアとわめきたつ

十返舎一九(じっぺんしゃいっく.1765〜1831.67歳)「江戸後期の戯作者。駿府生。本名重田貞一(しげたさだかず)、幼名幾五郎、通称与七。別号を酔斎。幾五郎の幾から一九と号す(三田村鳶魚)。若い頃江戸へ出て、小田切土佐守に仕え、土佐守が大坂町奉行となるや随行したが、間もなく致仕し、義太夫作者として「木下蔭狭間(このしたかげはざま)合戦」に近松余七として名を連ねたり、志野流の香道を学んだりした。1794(寛政6)再び江戸に出て書肆蔦屋重三郎の食客となって、戯作の道に入り、以来おびただしい数の作品を創作した。代表作はいうまでもなく「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」であるが、人情本「所縁の藤波」、笑話本「江戸前噺鰻」、黄表紙「心学時計草」、合巻「敵討大悲誓」など多数にのぼる。「膝栗毛」は1802〜22(享和2〜文政5)の21年間にわたって出版され、滑稽本作家として有名になった一九は、当時ともすると滑稽人物視されていたが、実際には実直な人柄だったといわれている。門人には大原市女・東寧舎一河・東墻亭一瓜・五辺舎半墻九・金 鈴舎一宝・九辺舎一八・半辺舎一朱・愚舎一得・十字亭三九らがいる。晩年は酒毒で手足の自由を欠き、生活も豊かではなく、’31(天保2)8月7日67歳で没した。辞世の狂歌<此の世をばどりゃおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら>。戒名は心月院一九日光居士。」(『コンサイス日本人名事典』)
十返舎一九について、より詳しくはこちら
とあり、近世の上州女の「きがつよく」「大ごゑをあげ」る二点をあげている。かかあ天下という世評がすでに江戸でもいわれ、気の強いこと、言葉の荒いことが特徴であったことを思わせる。

 明冶に入ると、新聞記者、作家、代議士と多彩な活躍をした末広重恭(鉄腸)が明冶一二年(1879)に群馬県を訪れた際の『木馬日録』に、蚕糸業の盛大を見て、「養繭製糸の時節には誰も雇に出る者無く、家に在りて坐繰り揚返しの器械を取扱ひ、又は製糸場の紅女と為り、芸の精粗に因て異同ありと雖ども、婦女の手に得る所は決して僅少に非ず。某氏戯れに余に語つて曰く、当県下は男子より婦人に向つて同権なからんことを要請すと。一笑す可し」とある。かかあ天下についての世評を裏づけ、しかも強い女の成立には蚕糸業があずかって大きいことを示唆している。

萩原進氏は草津温泉の歴史についても詳しく、『国史大辞典』の「草津温泉」の項には、参考文献として萩原進氏の『草津温泉史』があげられている。

末広鉄腸(1849〜96.48歳)「明治時代の政治家・小説家。愛媛県生。本名重恭(しげやす)。郷里の役人などをつとめた後上京して大蔵省に入ったが、言論人として立つことを志して退官。1875(明治8)「曙新聞」に入社、のち「朝野新聞」に転じて活躍。成島柳北とともに筆禍で入獄。’81自由党に入って活動、民権派の論客として知られたが意見の違いからのち馬場辰猪らと独立党を組織した。’86政治小説「雪中梅」を、翌年「花間鶯(かかんおう)」を発表して大衆的人気を博した。’88外遊し、翌年帰国。「東京公論」に入り、さらに「大同新聞」に転じ、「国会新聞」を主宰した。国会開設後は衆院議員として活躍。その間、シベリア・中国北部を視察旅行し、あるいは政治小説・歴史小説なども執筆するなど精力的な活動ぶりを示した。その政治小説は彼の政論を古い人情本的筋立を借りて示したものである。」(『コンサイス日本人名事典』)

徳富蘇峰(1863〜1957.95歳)は明治22年にはまだ数えで27歳であったが、既に論客として鳴らしていた。徳富蘇峰についての詳細はこちら
 養蚕製糸織物業がかかあ天下の要因だということを最も明快に説いたのは徳富蘇峰である。明治二二年前橋の青年会に招かれての「地方に存する特殊の気風」と題する講演で、上毛地方の特殊の気風の一つとして男女同権を第一にあげた。かかあ天下論である。

 群馬県出身者が蘇峰に「我地方ほど男女同権の能く行はるる所はあらず」と語った言葉から入り、「吾人は果して其の信なるや否やを識らず。然れども若し此の如き事あらば是実に然るべき事なり。凡そ男女同権の如きは単り道理より来るものに非ずして実力より来るものなり。上州の如きは婦人の最も適当なる職業あるを以て婦人も亦男子と同位置にある事を得るなり」と、養蚕製糸織物の地場産業に従事するのが婦人であり、そのために経済的な実力を持ったことになったと述べた。

 この説は今日でも支持する者が多く、一つの主流である。近世の村明細帳を見ると、女子は多く養蚕製糸の業に携わり、近代以降も農村におけるこの状態はあまり変化していない。

 かかあ天下とはっきりと書いたのは明治四四年に刊行され、全国的に読まれた横山健堂の『新人国記』である。「上州」の冒頭は「上州名物御存じ無いか、嬶(かかあ)天下に空っ風」から姑まる。彼は「嬶天下は博徒の長脇差と矛盾するものでない。寧ろ、嬶天下は長脇差の真相を発揮せるもの也」とし、「養蚕機織の業一に婦人の手に待たざる可らず。亭主は外にありて昔ながらの「長脇差」を発揮するに女房や娘は営々として生活の資本を供給しつつあり。一家の主権全然嬶天下に帰す」というのである。蚕糸織物業がかかあ天下を生んだという点では蘇峰と同じであるが、間に博奕を入れたのが面白い。


横山健堂(1871〜1943.73歳)「人物評論家・随筆家。名は達三、健堂の外に、黒頭巾の号でも知られた。山口県の人、東京帝国大学史科を出、読売新聞の記者となって、新文体の人物評論に、たちまち盛名を馳せた。後にはあまりに間口を拡げ過ぎた感じで、放漫に失したにもせよ、視野が広く、趣味が広くて、獲難い人であった。昭和十八年十二月二十四日歿す、歳七三。『旧藩と新人物』『新人国記』その他、多くの著書がある。」(森銑三『大正人物逸話辞典』)
 なお、『大正人物逸話辞典』に紹介されている横山健堂の人物評についてはこちら
形成の主体論

 上州かかあ天下の形成主体はなんであろうか。女性が経済的収入の担い手であることだけでは説得力がない。そこで再びかかあ天下は褒めたものか悪口かに戻る必要がある。他国人の世評の多くは悪口か揶揄に近いものが多いとすれば、上州のかかあ天下もその線で考えることが必要である。おそらく、経済的な実力もあったであろうが、むしろ人間性の評価がいま一つの要因であったと考えられないたろうか。

伊藤信吉(1906〜)「昭和期の詩人。群馬県生れ。同郷の萩原朔太郎に師事、<全日本無産者芸術連盟>(ナップ)に加盟。「河」「パルチザンの春」などを発表。1933(昭和8)詩集「故郷」を出版した。その後、主として詩論・詩史研究に専念。「現代詩人論」、「現代詩の鑑賞(上・下)」などの著書がある。多くの詩人全集の編集にもたずさわっている。」(『コンサイス日本人名事典』)

松永伍一(1930〜)詩人・評論家。
 前橋市出身の詩人伊藤信吉は、「上州の女性には女言葉がない」と述べている。言葉は人間性をさぐる最初の手がかりであることはいうまでもない。群馬大学教育学部で数年前に群馬県民性の世論調査を行ったときに、その最高位は「言葉が荒い」であった。艮俗学の方法を用いた言葉の調査でも、群馬県の女性の言葉遣いの粗野と荒々しさが指摘されている。松永伍一の『日本の子守唄』の群馬県の項では「ネンネン猫のケツへカニが這い込んだ」の子守唄をあげている。

 一九が上州女の言葉から県民性の一端に触れたように、人間としての特性とかかあ天下をもっと各方面から追究してゆく必要があろう。しかし、女性の民俗調査、意識調査だけでは妥当ではない。同時に男性も含めて、群馬県人の県民気質からかかあ天下を見直す必要がありはしないだろうか。ただ女性が一家の収入に貢献するという物質的な説明だけでなく、人間学という面から見直す必要がある。その場合にも、歴史心理学の領域、社会史的な領域などの学際的な協力が必要であり、特に庶民大衆史の明らかになる近世史を通して、上州のかかあ天下の形成史をさぐる必要があるように思えてならない。




私は最初にこの文章を読んだ時、『日本歴史地名大系』に載せる以上、萩原氏は多分真面目に書かれているのだろうとは思いつつも、もしかしたら萩原氏はこの文章全体を冗談として構成しているのではなかろうか、そうだとしたら恐るべき才能の持ち主に違いない、と疑ったのであるが、萩原氏の他の著作をいくつか読んでみて、そうした疑いを払拭することができた。萩原氏は対談や随筆なども結構得意で、面白い人ではあるが、手の込んだいたずらをするような人物ではない。なお、かかあ天下に関係すると思われる私の個人的経験はこちら(7月1日の項)。




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