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| 第一 村上の源氏 一 皇胤貴族の雄 大原の三寂(さんじゃく)の一人、寂超(じゃくちょう)こと藤原為経が嘉応二年(一一七〇)ころ述作したとされる『今鏡』の巻第七「村上の源氏」は、次の一節で始まる。
平安季世(きせい)、「よき上達部」を輩出して、藤原氏一流の繁栄にも匹敵するとされた源氏とは、村上天皇〔926〜67.42歳〕より出た賜姓(しせい)源氏である。 賜姓源氏は、周知のごとく、弘仁五年(八一四)嵯峨天皇〔786〜842.57歳〕の四皇子四皇女が源朝臣の姓を賜わって臣籍に降ったのに始まり、特に天皇が「母氏(ぼし)過ちあれば、其の子源氏と為すを得ず」と遺詔した貴姓である(『三代実録』)。爾後、賜姓源氏は仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上各天皇の皇子女に及んだが、村上天皇の皇子昭平(あきひら)の例を最後として、源平争乱期における後白河天皇皇子以仁(もちひと)〔1151〜80.30歳〕のような特殊な例(叛逆者として源以光〈もちみつ〉と改名された)を除けば、皇子女の賜姓降下は見られなくなった。一方、貞観十二年(八七〇)仁明天皇〔810〜50.41歳〕の皇子時康親王の王子十四人が源姓を賜わったのを始めとして、皇孫または皇曾孫の賜姓源氏の例も相ついだが、後三条天皇〔1034〜73.40歳〕の皇子輔仁(すけひと)親王の男、源有仁(ありひと)〔1103〜47.45歳〕の例より後は、鎌倉時代に五例を見るものの、江戸時代の始め、正親町天皇〔1517〜93.77歳〕の皇孫智仁(としひと)親王の男、源忠幸(ただゆき)(広幡家祖)を最後として、皇親に源姓を賜わる例は消滅した。 賜姓源氏の朝廷における地位を支えたのは、いうまでもなくその貴種性である。いま経歴の知りうる嵯峨源氏十三人についてみると、一、二の例を除いて、みな四位から出身しており、それが平安時代の一世ないし二世源氏の出身叙位の常例となっている。もっとも養老選叙令(ようろうせんじょりょう)には、皇親の蔭位(おんい)(父、祖父の地位に対応して、その子、孫の出身に際し一定の位階を授けること)について、親王の子には従四位下を授けると規定しているから、それを拡張適用したとも考えられるが、平安中、末期の摂関家の嫡男ですら、出身の際は五位を越えることができなかったのに比べると、源氏は出身の初めから甚だ手厚い優遇を受けたことになる。しかし出自だけで宮廷社会に永くその地歩を維持することは困難である。貴種性は世代を重ねるにつれて希薄となるのは当然の理である。実際、嵯峨から光孝までの諸源氏では、公卿に列したものも多くは二代どまりで、その後は宮廷社会から急速に姿を消していった。平安時代の諸天皇から出た源氏のうち、武門として特殊な発展を遂げた清和源氏と、神祇伯(じんぎのかみ)を世襲した花山源氏(白川伯家)を別とすれば、宮廷社会の中枢に比較的永く踏みとどまることのできたのは、宇多・醍醐・村上の各源氏だけである。 賜姓源氏が宮廷社会の中枢に永く地位を占めるためには、皇胤貴族としての特質を堅持しながらも、官人貴族として朝廷に自立する道を歩まなければならない。たとえば宇多源氏からは、雅信・重信両左大臣や経頼・経信のような才識豊かな公卿を出したし、醍醐源氏からは、故実作法の集成に大きな業績を残した高明(たかあきら)〔914〜82.69歳〕を始め、一条天皇朝の「四納言」の一人と謳われた俊賢(としかた)〔960〜1027.68歳〕や、白河院の近臣として重きをなした俊明(としあきら)〔1044〜1114.71歳〕など、有能な官人貴族を輩出し、村上源氏でも師房(もろふさ)・俊房(としふさ)父子を始め、才識を謳われた廷臣があとを絶たなかった。しかも経信〔1016〜97.82歳〕が「源氏はもと皇裔に出ず」(『帥記(そちき)』)と自負し、またある朝儀において、右大臣藤原師実(もろざね)〔1042〜1101.60歳〕が九条流の故実に従ったのに対し、源氏諸卿が西宮左大臣高明の作法を守ったことを師房〔1008〜77.70歳〕がその日記、『土右記(どゆうき)』に特記していることも見逃せない。すなわち源氏諸卿は、皇胤貴族の自覚のもとに、作法故実を伝承し、共有することをもって連帯感を維持したのであろう。 しかし源氏の皇胤意識を過大に評価し、さらに源氏を反藤原氏、あるいは反摂関家的な王党氏族とみなすのは当を得ない。宇多・醍醐・村上各源氏が朝廷の中枢に永く地歩を維持することができたのは、それぞれ藤原氏の主流ないし摂関家と親縁を結ぶのに成功したことに拠るところが大きいからである。一時は藤原氏に脅威を与えるほどの声望を誇った源高明を支えたのが、高明の岳父(がくふ)で村上朝の実力者、藤原師輔(もろすけ)〔908〜60.53歳〕であったことはよく知られているし、雅信ら宇多源氏の背後には、藤原道長〔966〜1027.62歳〕の室で、上東門院や頼通〔992〜1074.83歳〕・教通らの生母である、雅信の女倫子の姿が見える。高明は周知のごとく安和(あんな)の変で失脚したが、その女明子は道長との間に頼宗らを生み、高松殿とよばれて重きをなした。 なかんずく村上源氏は、初代師房〔1008〜77.70歳〕以来、摂関家と二重、三重の姻戚あるいは養子関係を結び、摂関家の側からも「源氏と雖も、土御門右丞相(師房)の子孫は御堂(道長)の末葉に入る(『台記(たいき)』)と同族視されるに至った。村上源氏の庶流より出た北畠親房〔1293〜1354.62歳〕も、かの『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』村上天皇条に、「皇胤ノ貴種ヨリ出ヌル人」のうち、特に村上源氏の繁栄が永続した由緒を村上天皇の聖徳の余慶に帰して、「君モ村上ノ御流一トヲリニテ十七代ニ成シメ給、臣モ此御スエノ源氏コソ相ツタハリタレバ、タヾ此君ノ徳スグレ給ケルユへニ余慶アルカトコソアフギ申ハベレ」と述べる一方、始祖師房が藤原頼通の子となり、同道長の女尊子を娶り、子孫みな道長の外孫となったので、道長・頼通を「遠祖(とおつおや)ノ如ク思ヘリ」と藤原摂家嫡流との親縁関係を強調し、「ソレヨリコノカタ和漢ノ稽古ヲムネトシ、報国ノ忠節ヲサキトスル誠アルニヨリテヤ、此一流ノミタエズシテ十余代ニオヨベリ」と自讃している。そしてその親縁関係を足場として堀河天皇〔1079〜1107.29歳〕の外祖の地位を獲得したのを手始めに、鎌倉時代に入ってからも、土御門〔1195〜1231.37歳〕・後嵯峨〔1220〜72.53歳〕・後二条〔1285〜1308.24歳〕各天皇の外戚家となる運に恵まれ、公家の家格形成に際しては、摂家に次ぐ清華(せいが)に列することとなり、他の諸源氏に優る地位を公家社会に占めるに至った。村上源氏は、まさに皇胤貴族のエースの座を終始保持したのである。 二 父子大臣 村上天皇から出た源氏には、致平(むねひら)親王の男、成信(なりのぶ)・致信(むねのぶ)や、為平(ためひら)親王の男、憲定(のりさだ)・頼定(よりさだ)などもいるが、一般に村上源氏とよばれるのは、具平(ともひら)親王〔964〜1009.46歳〕の男、師房に始まる源氏である。師房の誕生の年月は詳らかでないが、『小右記(しょうゆうき)』に見える元服時の年齢および『公卿補任(くぎょうぶにん)』に注する没年から逆算すると、寛弘五年(一〇〇八)の誕生となる。母は父親王の異母兄為平親王の女である。初名を資定といい、寛仁四年(一〇二〇)正月五日、村上天皇の二世王として従四位下に直叔された。ついで同年十二月二十六日、関白藤原頼通の養子として、頼通の上東門第(じょうとうもんてい)(土御門殿)において元服した。時に十三歳。父親王はすでに寛弘六年に薨じてこの世に亡かった。同日、名を師房と改め、源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜わり、翌二十七日参内して昇殿を聴(ゆる)されたが、万寿元年(一〇二四)九月十九日従四位下から一躍正四位下に進み、さらに同月二十一日また越階(おつかい)して従三位に昇った。時人は「三か日の内越階、只〔亦か〕三位に叙す、未だ曾てあらず、関白(頼通)の養子、異姓、禅室(道長)の聟を以て叙する所か、感ずべきか、如何」と感想を漏らしている(『小右記』)。すでに前摂政道長の女尊子を娶っていたわけで、この叙位の背後に道長・頼通父子の姿を見るのは、衆目の一致するところであった。 こうして朝廷に出仕した師房は、官位の昇進をかさねて従一位右大臣に至ったが、師房自身の才幹がその活動を支え、昇進を可能にしたことを見落してはならない。父の中務卿(なかつかさきょう)具平親王は多能多芸にして、ことに文才あり、同じく文才をもって聞えた醍醐皇子中務卿兼明(かねあきら)親王〔914〜87.74歳〕、すなわち中書王(ちゅうしょおう)(中務卿親王の唐名)と並び称して、後(のちの)中書王といわれた。師房も父の資質を承けてか、その才識は時人に高く評価されている。それは師房が万寿四年二十歳のときから、薨去前年の承保三年(一〇七六)六十九歳に至る間の日記九十七巻を残し(『長秋記(ちょうしゅうき)』)、「世の中の鑑(かがみ)」(『今鏡』)として尊ばれたことでも裏付られる。その日記は土御門右大臣の号により、「土右記(どゆうき)」とよばれたが、いまはその殆どが亡佚してしまい、ある程度まとまった遺文としては、わずかに延久元年(一〇六九)四、五、六の三か月の日次記(ひなみき)一巻の古写本が宮内庁書陵部に蔵する九条家旧蔵本中に伝存するだけである。ただそのわずかな記文によっても、師房が有識の公卿として廟堂に重きをなし、後三条天皇の信任も特に厚かったことがわかる。しかし師房は白河朝の承保四年二月、七十歳をもって薨じた。時に従一位右大臣で左近衛大将および東宮(実仁親王)傅(ふ)を兼ねていたが、この年正月中旬よ り病床に臥し、二月十三日上表して諸官を辞した。朝廷は同月十七日勅使を遣わして辞表を返却し、さらに太政大臣に任ずべき勅宣(兼宣旨)を賜わったが、任大臣の儀を待たずに同日出家の後薨去した(『公卿補任』)。 師房の男子には、道長の女尊子を母とする俊房(としふさ)〔1035〜1121.87歳〕・顕房(あきふさ)〔1037〜94.58歳〕兄弟および道長の男頼宗の女子を母とする師忠(もろただ)〔1054〜1114.61歳〕などがあるが、一方、女子の麗子は京極関白師実(もろざね)の室となって嫡男師通(もろみち)〔1062〜99.38歳〕をもうけ、摂関家との結び付きを一段と強めた。俊房は父に比肩する才学の持ち主といわれ(『江談抄(ごうだんしょう)』)、白河・堀河・鳥羽三朝に歴仕し、三十九年にわたって左大臣の座を占めたが、また父の後を承けて白河天皇〔1053〜1129.77歳〕の異母弟実仁(さねひと)・輔仁(すけひと)両親王の後見的役割をになったため、白河院政下では困難な立場に立たされた。すなわち小一条院(こいちじょういん)(三条天皇皇子)の男源基平(もとひら)の女基子を母とし、後三条天皇の期待を背負った皇太弟実仁親王が応徳二年(一〇八五)病没するや、白河天皇は父帝の遺志に反して、翌年皇位を皇子善仁(たるひと)親王(堀河天皇)に譲り、さらに皇位の嫡々相承に執着したので、皇嗣の有力候捕と目された三宮(さんのみや)輔仁親王はしだいに宮廷より疎外されて、洛西仁和寺花園(はなぞの)に隠栖した。その間にあって、俊房は寛治三年(一〇八九)女の任子を摂政師実の嫡孫忠実(ただざね)〔1078〜1162.85歳〕に嫁せしめ(『中右記』)、廟堂における地位の安定を図ったが、一方では異母弟師忠が女を輔仁親王の室として有仁(ありひと)をもうけさせ、息男師時(もろとき)が輔仁親王と同じく源基平の女を母とする縁によって親王に近侍し、さらに息男の醍醐寺僧仁寛(にんかん)が親王の護持僧となるなど、俊房の周辺には三宮と縁の深いものが少なくなかった。そして永久元年(一一一三)十月、鳥羽天皇暗殺未遂事件なるものが起り、仁寛が主謀者として捕えられ、流罪に処されたため(『殿歴(でんりゃく)』)、三宮は門を閉じて蟄居し、俊房・師時父子らは、翌年十一月出仕の朝命を蒙るまで閉居を余儀なくされた(『中右記』)。 この後、謹厳な俊房はふたたび朝廷に出仕して公事に精励したが、その男師頼・師時らの官位昇進は久しく抑留された。それにはこの事件の影響を否定することができず、俊房が保安二年(一一二一)二月八十七歳をもって辞官出家し、同年十一月十二日入滅するに及んで、家勢は急速に衰え、村上源氏の主流の座を弟の顕房の子孫に譲ることになったのである(龍粛氏「三宮と村上源氏」、『平安時代』所収)。 三 久我の源氏 顕房は、兄俊房とはやや異なった道を歩んだ。二歳年長の俊房が寛徳二年(一〇四五)、関白左大臣頼通の養子として十一歳で従五位上に直叙され、十六歳で早くも従三位に昇ったのに比べれば、康平四年(一〇六一)二十五歳でようやく四位の参議に昇った顕房の官歴はかなり劣ってみえる(『公卿補任』)。恐らく俊房が嫡嗣として遇されたためであろう。しかし顕房が公卿に列してからは、兄弟の間隔は急速に縮まり、延久四年(一〇七二)十二月、白河天皇の践祚直前には、一時的ながら、兄俊房の権中納言を超えて権大納言に進んだ。それは恐らくその前年、顕房の女で左大臣藤原師実の養女となっていた賢子が皇太子貞仁(さだひと)親王(白河天皇)の後宮に入ったため、その皇太子の践祚を目前にして顕房の官を進めたのであろう。 『愚管抄』によれば、京極殿(きょうごくどの)師実は土御門右府師房の女麗子を北政所(きたのまんどころ)とし、その姪に当る賢子を乳飲み子のうちからわが子として育て、「源氏ノ人々モヒトツニナリテヲハシマシケル」ところ、これを聞いた後三条天皇が賢子を東宮に納れるよう師実に命じたという。さらに同書には、師実が宇治に閑居する父頼通にこれを報告し、頼通が「サウナクハラハラト涙ヲオトシテ」喜んだ有様がことこまかに書かれている。こうして賢子は姓も藤原を称して延久三年皇太子の宮に入り、やがて皇太子の即位にともなって皇后(中宮)に立ったが、賢子の入宮、立后が養家にもまして、実父顕房とその一家に恩恵を及ぼしたことはいうまでもない。賢子は天皇の「ヲボエガラノタグヒナク」(『愚管抄』)、二皇子・三皇女を次々ともうけた。そして応徳三年(一〇八六)十一月、その第二皇子善仁(たるひと)親王(堀河天皇)が践祚するに及び、顕房は天皇の外祖父として廟堂に重きをなし、外戚の権勢は師実ら摂関家ではなく、顕房一家に集まり、子孫相ついで宮廷に時めき、ついには兄俊房とその子孫をさしおいて、村上源氏の嫡流の座を占めるに至った。顕房は永保三年(一〇八三)兄俊房が右大臣より左大臣に進んだ後を承けて右大臣に昇り、以後十二年にわたってその座を占めたが、寛治八年(一〇九四)九月赤痢に罹り、五十八歳をもって六条邸に薨じた。世に六条右大臣と称する。堀河天皇は愁歎のあまり、朝夕の御膳を供しても、閉じこもって出御(しゅつぎょ)しなかったと記録されている(『中右記』)。 顕房の嫡男雅実(まさざね)〔1058〜1126.69歳〕は、その時すでに三十六歳で、権大納言兼右近衛大将の任にあった。雅実はその前年の十一月、父の譲りによって右大将に任ぜられたが、時人はこの補任について、「祖父故土御門右府は五十余にして大将に任ず、厳親右府は四十余にして此の職に任ず、此の納言に至りては、すでに三十余なり、子孫に及ぶに随っていよいよ以て早速なり」と評している(『中右記』)。このようにして雅実は父祖をしのぐ早さで昇進し、ついに保安三年(一一二二)十二月、従一位右大臣より太政大臣に昇った。源氏の太政大臣補任の初例である。雅実の院をも関白をも懼(おそ)れ憚(はばか)らぬ言動は『今鏡』や『古事談(こじだん)』に伝えられているが、天治元年(一一二四)七月病により出家し、大治二年(一一二七)二月十五日、六十九歳をもって薨じた。その日はあたかも釈迦入滅の日に当ったので、時人はその強運を評して、「現世昇進すでに万人を超(こ)え、入滅の時釈尊と同日なり、誠に是れ現当(げんとう)二世相い叶う人か、すでに祖父右府・尊親右府に勝るなり」と羨望の声をあげている。同月十七日、雅実の遺体は「久我(こが)山庄」に移され、二十三日夕刻その西辺に葬られた(『中右記』)。世に久我太政大臣と号する。 ところで「久我山庄」の由緒を尋ねると、後に詳しく紹介する源通親〔1149〜1202.54歳〕制作の『擬香山模草堂記(ぎこうざんもそうどうき)』には、曩祖(のうそ)師房が長元六年(一〇三三)夏、この地を卜(ぼく)して別業(べつぎょう)を営んだのに始まるとする。その師房の『土右記』長元七年七月二十一日条に、この日「久我の家」に赴き、夕刻前京の家に還ったと見えるのは、草堂記の記述とよく符合する。久我は洛南の鴨川が桂川に合流する付近の西岸の地で、師房から顕房に伝えられたが、応徳四年(一〇八七)二月、その対岸の鳥羽の地に白河上皇が院御所を営むに及び、その周辺一帯は一躍脚光を浴びるに至った。上皇は同月五日落成した鳥羽殿に初めて渡御(とぎょ)したが、十日にはその周辺を遊覧して顕房の「古我の水閣」に幸し、そこから帰京している。以後、顕房はこの別業にしばしば貴人を迎えて歓待しているが、或いは鳥羽殿の造営に対応して、伝領した別業を修築し、壮麗な水閣を構えたのかも知れない。かくして久我の地は顕房から雅実に伝えられてその嫡流の名字の地となり、ついに村上源氏の嫡宗の称となったのである。 雅実の一男顕通(あきみち)も正二位権大納言に至って、久我大納言と称されたが、保安三年(一一二二)四月、父に先だって死去したので、二男の雅定(まささだ)〔1094〜1162.69歳〕が家を継いだ。これより先、天仁元年(一一〇八)十月、右近衛少将雅定は修理大夫(すりだいぶ)藤原顕季(あきすえ)〔1055〜1123.69歳〕の聟となり(『中右記』)、その中院邸(なかのいんてい)を終生本居とした(『兵範記(へいはんき)』『山槐記(さんかいき)』等)。顕季は白河上皇の有力な近臣として勢威をふるい、孫女の得子は鳥羽上皇〔1103〜56.54歳〕の寵を一身にあつめた。雅定は顕季とその一家の庇蔭(ひいん)を背景として、ついに正二位右大臣に昇ったが、その官途は決して親縁のみによるものではなく、かれ自身の才幹によるところが大きかった。『今鏡』の作者は、「この大臣は才おはして、公事(くじ)なども能(よ)く仕へ給ひけり」と評しているが、自他の言動に厳しい評価をくだすことを常とした藤原頼長(よりなが)〔1120〜56.37歳〕も、雅定については「重代公事の家」を継いで故実を知り、「廉正の名、内外に聞ゆ」と日記に記し、仁平四年(一一五四)五月、雅定の辞官出家のことを聞いては、中院に使者を遣わして「閤下(こうか)遁世の後は、我朝儀法を知るの人なかるべし」と歎惜(たんせき)の辞を伝えさせている(『台記』)。しかし雅定は出家後もしばしば朝廷の諮問にあずかっており(『山槐記』)、ことに久寿二年(一一五五)七月、近衛天皇〔1139〜55.17歳〕の崩御後、院執事別当(しつじべっとう)藤原公教(きんのり)とともに鳥羽上皇の御前に召され、「王者の議定(ぎじょう)(皇嗣の選定)」に加えられているのはその顕著な例であるが(『兵範記』)、応保二年(一一六二)五月二十七日、六十九歳をもって薨じた。世に中院右大臣と号する。 雅定の跡を継いだのは、顕通の男雅通(まさみち)〔1118〜75.58歳〕である。前述のように雅定は兄顕通の没後をうけて家嫡となったが、間もなく雅通を養子としたらしく、大治四年(一一二九)正月、雅通は雅定の養子として元服している(『中右記』)。雅定が雅通を養子としたのは、はじめから雅通を家嫡に擬したもので、「無病遁世」といわれた雅定の出家の意図も、家督を雅通に譲るためであったと思われる。雅通は永治元年(一一四一)十二月、近衛天皇の生母藤原得子(美福門院)〔1117〜60.44歳〕の立后に際して皇后宮権亮(こうごうぐうごんのすけ)に任ぜられて以来、長く得子に近侍し、また得子の従兄で、鳥羽上皇の有力な近臣である藤原家成(いえなり)〔1107〜54.48歳〕の妹を娶って家成に親近した。天養二年(一一四五)二月、家成が比叡山に登ったときも、親昵(しんじつ)の殿上人(てんじょうびと)として近衛中将雅通も前駆を勤めたが、これを聞いた藤原頼長は、未曾有(みぞう)のことであり、「永く英雄(えいゆう)の名を失う」と非難している(『台記』)。この頼長の言辞が、得子や家成に対する嫌悪の情に発するものとばかり言えないことは、名家出身の雅通が、諸大夫と見下された家成の前駆を勤めるという行動が後世に至るまで不穏当なものとして喧伝され、「山送りの中将」とよばれて嘲りを買った事実がそれを裏付ける(『明月記』)。しかし一面、雅通は「故実を伝うるの人」として推重され(『玉葉』)、仁安三年(一一六八)には正二位内大臣に昇り、さらに右近衛大将を兼ねたが、間もなく宿痾(しゅくあ)に悩まされて籠居し、承安五年(一一七五)二月二十七日、五十八歳をもって久我の別荘に薨じた(『公卿補任』)。世に久我内大臣と号する。その一男が、本書の主題、土御門内大臣通親である。 |
| ☆村上源氏系図はこちら。 ☆『とはずがたり』の作者が後深草院の東二条院に対する反論の形をとって久我家の来歴について述べている場面はこちら。また、同じく「近衛大殿」の発言との形をとって述べている場面はこちら。 ☆永久元年(1113)、「鳥羽天皇暗殺未遂事件」の主謀者として逮捕され、伊豆大仁に流罪となった仁寛が、(真偽はともかく)真言立川流の祖とされている。真言立川流についてはこちら(村松剛氏「『とはずがたり』の世界」)、またはこちら。(祐野隆三氏「立川流の影響」) ☆源雅定を聟にとった藤原顕季(あきすえ)は四条家の祖。家成は顕季の孫。四条家系図はこちら。 ☆後深草院二条の従兄久我通基(1240〜1308.69歳)が登場する『徒然草』第195段の背景となっているのは久我水閣付近である。 |