更新12.3/22


 橋本義彦 『源通親』
(吉川弘文館人物叢書.平成4年)






引用の趣旨
 後深草院二条の強烈な自尊心は、何と言っても村上源氏の出自、しかも通親の子孫であることに由来する面が大きいが、通親は従来、歴史家によって必ずしも正当な評価を与えられてこなかった人物である。
 本書は橋本義彦氏が書かれた、初めての本格的な通親の評伝であるが、後深草院二条にとって通親がどのような人物として認識されていたかを想像する上で大変参考になる。引用したい部分がたくさんあるが、とりあえずポイントが極めて簡潔に述べられている「はしがき」を引用した。
 なお、橋本義彦氏は、「公卿日記を駆使した堅牢な実証は高い水準を保ち、抜群の信頼性を誇る」(棚橋光男氏『体系日本の歴史4.王朝の社会』小学館)と評されている優れた歴史家である。


橋本義彦氏の略歴(※)
大正十三年北海道釧路市に生まれる.昭和ニ十四年東京大学文学部国史学科卒業.宮内庁書陵編修課長・官内庁正倉院事務所長を経て現在前田育徳会・尊経閣文庫常務理事.
主要著書『藤原頼長』(人物叢書)(昭和三十九年、吉川弘文館)『貴族の世紀』(日本の歴史文庫5)(昭和五〇年、講談社)『平安貴族社会の研究』(昭和五十一年、吉川弘文館)『平安貴族』(平凡社選書97)(昭和六十一年、平凡社)『源通親』(人物叢書)(平成四年、吉川弘文館)『尊経閣善本影印集成』(『西宮記』『北山抄』『江次第』の編集・解説、既刊十一冊)(平成五年より刊行中、八木書店)
※ 上掲書記載の略歴に新刊書を付加。



はしがき 


 源通親(みなもとのみちちか)は、またその邸宅の号により、土御門(つちみかど)内大臣の称をもって世に知られる。平安時代末期から鎌倉時代初期にわたる十二世紀後半は、平氏政権の盛衰、鎌倉幕府の成立が象徴するように、日本史上稀にみる激動の時代である。通親はこの困難な時局に当面して怯(ひる)むことなく立ち向った数少ない公家政治家の一人であり、且つ歌人としても大きな業績を残した一代の英傑である。




源通親(1149〜1202.54歳)
 本書は、その通親の生涯の足跡をたどり、できるだけ正確な通親の人物像を画く素材を読者に提供するのを目的とし、まず通親の出自(しゅつじ)たる村上源氏(むらかみげんじ)の沿革から筆を起した。それは平安時代中期以降、公家社会に圧倒的な勢力を誇った藤原氏に対し、ほとんど唯一、それに対峙して永くその最上層に地歩を占めたのが、皇胤(こういん)貴族の誇りをもつ村上源氏であり、その地位を確立したのが通親であるからである。

 しかし通親の人物・行動を解明するに当って第一の障害となるのは、通親自身の日記がほとんど無いに等しいことである。したがってわれわれに残されている判断材料は、藤原氏の廷臣の日記と、同時代史ともいうべき『愚管抄(ぐかんしよう)』ぐらいしかないが、その利用に当っては材料の性質に充分注意する必要がある。公家日記の記述は、ややもすれば一等史料として鵜呑(うの)みにされる懼(おそ)れがあるが、強弱の差こそあれ、そこには記主の主観や立場が反映することを免れない。まして鎌倉時代に入って通親と鋭く対立した藤原(九条)兼実(かねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』の記述にのみ依拠した判断は許されない。さらに兼実の同母弟の慈円が著わした『愚管抄』は、一面では摂関家史観ともいうべきもので貫かれており、特に鎌倉初頭の公家社会の動向や通親に対する評価は、ほとんど兼実の視点と軌を一にしている。


藤原(九条)兼実(1149〜1207.59歳)は摂政藤原忠通の子。早く僧籍に入った者を除くと、異母兄の基実(近衛)・基房(松殿)に続く第3子で、九条家の祖。早くから頼朝に接近し、後白河法皇没後、頼朝の征夷大将軍宣下を実現した。頼朝との関係を絡めた兼実と通親との対立状況についてはこちら。(上横手雅敬氏「源平の盛衰」)
 また、通親と組んで兼実を追い落とした「悪女」丹後局(高階栄子)についてはこちら。(三浦周行「丹後局と卿局」)

慈円(1155〜1225.71歳)は兼実の6歳下の弟で、前後4度にわたって天台座主となった。『愚管抄』の著者。また歌人として名高く、『新古今集』に92首入集している。












後鳥羽院(1180〜1239.60歳)についてはこちら。(水戸部正男氏『歴代天皇紀』)
 この『玉葉』と『愚管抄』を主要な史料として叙述された『大日本史』列伝の源通親伝は、その後の通親像に強い影響を与えたと思われるが、これには百年ほど前の明治二十七年、池田晃淵氏が『史学雑誌』第五編第二号・第三号に「源通親の伝を読む」と題する論考を載せ、激しく異を唱えている。すなわち池田氏は「大日本史の本伝を読来れば通親、(中略)殆ど奸悪の如く見ゆ」といい、「敵視する人の日記に拠て敵視さるゝ人の伝を録せしなれば、公平を欠くは素より其筈の事なり」と、『玉葉』の記事に拠った『大日本史』の欠点を指摘している。もっとも池田氏が通親をもって後鳥羽院の回天(かいてん)の業を翼賛(よくさん)した「忠勲義烈」の士とする結論をはじめ、その見解には賛同できない記述も多いが、『大日本史』の叙述は鎌倉時代に入ってからの一時期に偏しており、通親の足跡全体を見通せば、また異なった通親像が浮ぶはずである。

 また通親は冷徹な現実政治家である一面、後鳥羽院歌壇の形成をはじめ、和歌所の設置、ひいては『新古今和歌集』の成立に重要な役割を果した。そのためか近年は通親に関する歴史研究者の論考はあまり見かけないのに対し、国文研究者の通親およびその作品を対象とした論考が目につく。しかし私はその方面については門外漢であるので、通親の文芸活動に関する記述は専門研究者の論考に拠ったところが多いことを御諒解願いたい。

国文学者が書いた論文、例えば久保田淳氏の「源通親の文学(一)(二)」(『藤原定家とその時代』岩波書店所収)などを読むと、通親はやはり「奸悪」な人物として描かれている。これは九条家の庇護を受け、通親に敵意を持っていた定家の見方の影響もかなりあるような感じがする。

久我家の祖通光が後妻を偏重したことにより生じた久我家の相続問題についてはこちら。(「久我家領の成立と展開」)
 最後に附録として、「久我源氏中院流(こがげんじなかのいん)家領と通親」と題する一篇を加えたのは、通親を含む久我源氏の経済生活を解明する手掛りの資料となることを期待したためである。

(平成四年九月)





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