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平田俊春 「四條隆資父子と南朝」(前半)
(『南朝史論考』.錦正社.平成6年.p195以下)







☆平田俊春氏の略歴はこちら


※この論文の末尾には(昭和二〇・四・一〇)と記されているが、初出は『防衛大学校紀要』24輯(昭和47年3月)。



第六章 四條隆資父子と南朝


 一、序

 四條隆資は、後醍醐天皇〔1288〜1339.52歳〕の北條氏討伐の中心として中興の企てに尽力し、南北朝分裂後は北畠親房〔1293〜1354.62歳〕と並んで、後醍醐・後村上〔1328〜68.41歳〕両天皇を輔佐して忠誠を盡した人物であるが、北畠親房の事蹟が古来から著名なのに反し、隆資の事蹟については『大日本史』に簡単な伝があるだけで、そののち全く研究されていない。また隆資には六人の子があり、そのうち早世した一人を除き、こぞつて父と行動をともにし、ついに族滅しているのは驚くべきことで、『尊卑分脈』に、

    頭、大納言、正二、検別当
 隆資──────────────────────┐
    母 善勝長                            │
     観応三五十、於南朝叙一品、南君軍御八幡、而今日    │
     南軍敗北之刻、依祗候彼軍、 於戦場討死了         │
┌────────────────────────┘
├隆量 左少将、従四上、元弘三被誅
│   
├隆童 左少将、従四上兵部卿親王祗候、打死
│    
├隆任 木工頭
│    
├隆俊 候南朝
│    
├女子 右大臣実俊公妾、公永母

└隆保


とあり、また『断絶諸家略伝』に、

    正二位、権大納言、参南朝、従一位、使別当
 隆資──────────────────────┐
    善勝寺長、正平七年五月十一日於八幡討死、        │
    年六十一、同十一年贈左大臣                 │
┌────────────────────────┘
├隆量 左少将、従四位上
│    元弘元被殺
├隆重 左少将、従四位下
│    候兵部卿親王、打死
├隆任 木工頭

├隆俊 内大臣、従一位、権大納言
│    文中二年八月十日於河内國天野陣討死
├隆保 参議、従三位
│    正平八年薨
└隆保  右少将


とあるのは、その一端を窺わせるものである。しかし、これらの人々の事蹟もまた明らかにされていない。史料の湮滅のため、今日これを明瞭にすることはきわめて困難であるが、ここに断簡零墨を求めて、隆資父子の事蹟を究明してみようと思う。


 二 元弘の変と隆資・隆量・隆貞

 隆資の履歴については、延元元年(1336)すなわち後醍醐天皇が吉野に遷られたときまでのことが、『公卿補任』に記されている。まず、元徳二年(1330)の條に「三十八歳」とあるので、誕生は永仁元年(1293)となる。その父について両説があり、『公卿補任』には「父故入道権大納言隆顕卿」とあり、『尊卑分脈』及び『断絶諸家略伝』には隆顕の子隆実を父としている。しかし、これは両説とも真を得たものであろう1。けだし『分脈』の隆実の條に「左中将、正四位下、早世」とあり、恐らく実父隆実が早世のため家を嗣ぐに至らなかつたので、隆資が祖父隆顕〔1243〜?〕の養子となって後をついだものであろう。隆顕は参議中将、検非違使別当、中宮大夫、権大納言となっている。これは家格を重ずる当時において、また隆資の前途をも卜せしめるに足るものである。

 『体源抄』に、隆資が兼秋より音楽の伝をうけたことを記して、「正和四年(1315)七月廿一日春宮御楽所作、于時侍従」とあり、また『公卿補任』に、文保二年(1318)正月五日「春宮当年御給」により正五位下となり、同年四月十四日もと侍従であつたことにより右少将に任じ、同十一月三日従四位下となつたとある。文保二年二月廿六日には後醍醐天皇が即位されている。したがつて隆資は、後醍醐天皇の春宮のときより侍従として仕え、践祚とともに右少将に任ぜられたのであつて、早くより天皇に親近していたことが知られる。後醍醐天皇は正応元年(1288)の御誕生であるから、隆資よりは五才の年長で、年齢の上からみても、極めて親しい間柄であつたと思われる。そののちも深い信任をうけ、元応二年(1320)二月二十四日従四位上、同十二月二十一日左中将、同月二十四日右中将に移つた。 『常楽記』に、元亨元年(1321)七月二十五日「四條少将隆任」がなくなつたとあるが、『尊卑分脈』并に『断絶諸家略伝』に、隆資の子として「木工頭隆任」とあるのにあたるものであろう。元亨三年(1323)八月十五日夜の和歌会に2、隆資が侍従として為藤二条.1275〜1324.50歳〕・惟継・行房等と出席し、二條為冬〔?〜1335〕とともに左右の講師をつとめているが、かれが常に天皇に親近していたことを窺わせる。同年十二月廿九日、因幡守を兼ねた。

 以上のような後醍醐天皇との関係からみると、隆資が日野資朝〔1290〜1332.43歳〕・俊基〔?〜1332〕等とともに、北条氏討伐の中心人物として活動するのは、当然のことといわなければならない。『太平記』に正中の変について、

是程ノ重事ヲ思召立事ナレバ、諸臣ノ意見ヲモ窺ヒ度思召ケレドモ、事多聞ニ及ハヾ、武家ニ漏レ聞ル事ヤ有ント、憚り思召レケル間、深慮知化ノ老臣、近侍ノ人々ニモ仰合セラルル事モナシ、只日野中納言資朝、蔵人右少弁俊基、四條中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔計ニ窃ニ仰合サレテ、サリヌベキ兵ヲ召シケルニ、錦織判官代、足助次郎重成、南都北嶺ノ衆徒少々勅定ニ応ジタリ、

とあるのは、真実を得た記事とすることができる。資朝等が正中元年(1324)無礼講を始めて、同志の獲得につとめたことは『花園院宸記』同年十一月朔日の條に、

伝聞、従三位為守、智暁法師等、依召可下向関東云々、為守卿者資朝知音之故云々、凡近日或人云、資朝俊基等、結衆会合乱遊、或不着衣冠、殆裸形、飲茶之会有之、是学達士之風歟、稽康之蓬頭散帯、達士先賢尚不免其毀教之譴、何況未達高士之風、偏縦嗜欲之志、濫称方外之名、豈協孔孟之意乎、此衆有数輩、世称之無礼講 或称破礼講 之衆云々、緇素及数多、其人数載一紙、去比落六波羅、此内或有高貴之人云々、件注文未一見、仍不知之、件衆内為守卿専一也、仍有此召之由有巷説云々、

とあるのによって有名であるが、隆資が資朝等とともに、その無礼講の中心人物であつたことが『太平記』に、左の如く見えている。

爰ニ美濃国住人土岐伯耆十郎頼貞、多治見四郎国長ト云者アリ、共ニ清和源氏ノ後胤トシテ、武勇ノ聞へ有ケレバ、資朝卿様々ノ縁ヲ尋テ昵ビ近ヅカレ、朋友ノ交り已ニ浅カラザリケレドモ、如何有ベカラント思ハレケレバ、猶モ能々其心ヲ窺見ン為ニ、無礼講ト云事ヲゾ始ラレケル、其人数ニハ尹大納言師賢、四條中納言隆資、洞院左衛門督実世、蔵人右少弁俊基、伊達三位房遊雅、聖護院庁法眼玄基、足助次郎重成、多治見四郎次郎国長等ナリ、其交会遊宴ノ体、見聞耳目ヲ驚セリ、

 この際の企ては、正中元年〔1324〕九月に幕府に漏れたが、日野資朝が責を一身に引受けて大事に至らなかった。隆資は同年十一月十一日、中宮亮を兼ね、正中二年(1325)正月廿九日に正四位に上り、同三年(嘉暦元)二月二十九日蔵人頭に補せられた。さらに、あくる嘉暦二年(1327)三月二十四日には参議に任じ、三年(1328)正月五日従三位に上り、同十六日兼大蔵卿、兼加賀権守、九月廿三日兼左兵衛督となる。

 翌々元徳二年(1330)正月五日正三位に上り、五月廿二日に検非違使別当に補せられ、右衛門督に遷任したが、これは此年の米価騰貴により世情極めて不安となつたので、かれをその収拾に当らしめられたものであつて、天皇の信任の厚さを示すものといえよう。『東寺執行日記』の同年六月の條に、隆資に米価統制について、左の如き宣旨が下されたことが見える。

沽酒法事、任宣下状、可遵行之由、可令下知給之旨、天気所候也、仍執啓如件、
    六月九日   左中弁光顕奉
 別当殿 私云四條宰相隆資
元徳二年六月九日宣旨
近日京洛之俗、偏専利潤、杜康之業頗以繁多、穀価騰躍之間、被定其法、爰洒墟交易之処、宜追被准拠以米穀一果充酒醪一斛、早守厳制、永勿違乱、
     蔵人頭左中弁藤原光顕

かれは、この大任を無事に果したものとみえ、同年十月二十一日には権中納言となって、天下の政事を議することになつた。

 元徳二年〔1330〕といえば、正中の変後七年目で、討幕の機が再び熟して来た秋であり、さきに侍従として君側に侍して大事に参画した隆資は、今や朝廷における重い地位について積極的に計画を進め、王政復古の大業の実現にあたつた。この年三月八日の南都行幸、同二十七日の比叡山行幸3は、南都北嶺の僧兵を手なずけるために行われたものであるが、この両度の行幸にはともに隆資が供奉して、種々はかるところがあつた。

 あけて元弘元年(1331)八月、討幕の計はほぼ成り、諸方に宣旨が発せられ、まさに挙兵しようとして、またしても幕府の探知するところとなり、八月二十四日、天皇は宮中を出て、南都に落ちるの已むなきに至つた。このとき、隆資が供奉したことが『増鏡』に、

御供に按察大納言公俊、萬里小路中納言藤房、源中納言具行、四條中納言隆資などまゐれり、いづれもあやしき姿にまぎらはして、暗き道をたどりおはするほどに、げに闇のうつつの心地して、われにもあらぬさまなり、丑三つばかりに木幡山過ぎさせ給ふ、いとむくつけし、

と見える4。なお、その子少将隆量も父とともに供奉したことが、『花園院宸記』并に『笠置寺縁起』に見えている。天皇は笠置の城に入られたが、九月二十九日城が陥り、藤原藤房万里小路.1295〜?〕北畠具行〔1290〜1332.43歳〕・千種忠顕六条有房の孫.?〜1336〕・四條隆量等を具して、赤坂城に赴こうとして幕府軍に捕えられた。『花園院宸記』同年十月一日の條に、

及辰刻、仲成朝臣云、所領之内号安王丸山中有人、仍深津某馳来取之、即先帝也と、……後聞、具行、藤房等卿、隆量 隆資卿子、忠顕 有忠入道息 等被虜云々、

と見え、また『光明寺残篇』に、

先帝夕日ノ山へ御落去之処、山城国住人深栖三郎入道参向有王山、告申陸奥守殿、先帯、妙法院宮、源中納言具行、萬里小路中納言藤房卿、六条少将忠顕、四条少将以下生捕了、

と見える。『花園院宸記』に十月五日、大納言師賢花山院.1301〜32.32歳〕・宣房万里小路.1258〜?〕・中納言公明三条.1281〜1336.56歳〕・藤房・具行・隆資・実世洞院公賢の子.1309〜58.50歳〕・参議実治三条公明の弟.1291〜1353.62歳〕・季房万里小路.?〜1333〕等が解官されたことが見える。また『増鏡』には、

十二月十二日綸旨下されて、前の御世の人々、大中納言宰相すべて十人、宣房、公明、藤房、具行、隆資、実世、実治、季房、隆重、忠顕、司やめらるゝよしきこゆるも、昨日まで時の花と見えし人々、つかのまの夢かとあはれなり、

と見えるが、この隆重は和田英松博士の『増鏡詳解』に指摘のように、隆量の誤りであることが『宸記』と対比して明らかである。

 『公卿補任』には、これらの笠置へ供奉した人々の免官を記すとともに、隆資については、

  子細同前、但在所未知之、

とあって、かれが捕紜を免れたと記している。恐らくかれはこのとき、大塔宮護良親王〔1308〜35.28歳〕とともに赤坂城に到つて、天皇をお迎えする準備をしていたと思われるが、図らずもこれによつて虎口を脱したのであつた。十月十日、天皇は六波羅に入られ、師賢・藤房・具行・忠顕等の人々もそれぞれ武士の館に幽されたが、「四条少将隆量朝臣」は佐々木近江前司に預けられたことが『光明寺残篇』に見える。

 元弘二年(1332)三月、天皇は隠岐に遷幸され、五、六月ごろ師賢・公敏・藤房・季房・忠顕等、「先帝の御供なりし上達部ども、罪重きかぎり」も遠き国々に流され、とくに具行・成輔平.1291〜32.42歳〕等は正中の変で流されていた資朝・俊基とともに斬られた。四条少将隆量のそののちの消息は明らかでないが、『断絶諸家略伝』に「元弘元年被殺」とあり、『尊卑分脈』に「元弘三年被殺」とあるから、元年か三年に幕府に殺されたのであろう5。こうした中で隆資ひとりが処分を免れたことは『公卿補任』正慶元年(1332)の条に、

  遂電、存否未聞、仍不及流罪歟、

と記するところであるが、もし元弘元年〔1231〕に幕府軍に捕えられていたならば、資朝・具行等と同じ運命を受けたことであろう。このときも、幕府は何としても隆資を捕縛しようとして、苦心していたことは『花園院宸記』元弘二年〔1332〕六月六日の条に、

武家奏聞、隆資以下衾院宣事、院宣無例、可為宣旨歟之由被仰之、

とあって、全く例のない衾院宣を奏請したことによっても知られる。

 隆資の討幕の活動は、この幕府の厳重な捜索網をくぐって始められる。それは大塔宮護良親王の侍従隆貞の名において行われた。元弘二年〔1332〕春、天皇が隠岐に流されてのち元弘三年〔1333〕夏に至る一年有余の間、大塔宮が官軍の中心となり、四方に令旨を発して官軍を糾合指揮し、ついによく回瀾を既倒にかえしたのであるが、幕府が隆資捕縛のために衾院宣を奏請したことを記した『花園院宸記』同日の条に、

自熊野山執進大塔宮令旨、相憑当山之由云々、

とある。これが大塔宮の活動を開始された第一歩であるが、この宮に供奉して、令旨を発したのは隆資の子隆貞である。六月初旬、熊野山に令旨を発せられたのを初見として、同二十七日、十二月五日に松尾寺、八月二十七日、十二月二十八日に高野山、十二月二十六日に久米田寺に対して下された令旨は、いずれも隆貞の奉書である。

 あけて元弘三年(1333)となると、その活動いよいよめざましく、正月十日には粉河寺に、

□馳参候之由申□〔条カ〕、殊被感思□也、急可令参候、依 □□(大塔)二品親王令旨之状、如件、
   元弘三年正月十日 左少将隆貞奉
 粉河寺行人等中

との令旨を発し、あくる十一日にも急ぎ馳参すべき旨の隆貞奉書の令旨が出された。こうして糾合した諸寺の僧兵と楠木正成〔?〜1336〕の軍とを合し、隆貞が大将軍となつて、正月十九日天王寺に攻め出て、大いに奮戦したことが『楠木合戦注文』に左の如く見えている。

一同(○元弘三年)正月十九日巳時 寄来天王寺、致合戦、交名人名等
大将軍四條少将隆貞中納言、隆亮子、楠木一族、同舎弟七郎、石河判官代跡百余人、判官代五郎、同松山并子息等、平野但馬前司子息四人四郎天王寺ニテ打死ス、平石、山城五郎、切判官代平家、春日地同、八田、村上、渡邊孫六、河野、湯浅党一人、其勢五百余騎、其外雑兵不知数、
自十九日巳時一日合戦、戊亥時子時追落、楠木渡辺責下、御米少々押取、同廿二日申時葛城引帰、

 そののちにおける隆貞の活動はいよいよ目ざましく、北條氏滅亡に至るまでに隆貞の奉じて出した令旨として明確なものだけを挙げても、二月五日粉河寺、同七日原田種直跡、二月十四日松尾寺、三月十五日結城宗廣、四月一日勿那重明、同二日松尾寺、同日熊谷直経、同十八日粉河寺、同十九日松尾寺、同二十八日和田助家、五月二日英積太郎兵衛尉、同日松尾寺、同十四日木本源左衛門尉、同十六日金子三良、同二十一日金剛寺等に出されたものがあり、大塔宮の目ざましい活動は多く隆貞の名の下に行われている6。そしてこの隆貞の蔭には父隆資の輔佐の存することが考えられるのである7

 こうした大塔宮を中心とする人々の目ざましい活動によって、北條氏はついに亡び、元弘三年〔1333〕六月十三日、護良親王は行装美々しく京に凱旋された。『太平記』に、赤松円心〔1277〜1350.74歳〕が千余騎で前陣仕り、二番に親王の執事殿法印良忠が七百余騎、三番に「四條少将隆資五百余騎」が入ったと見えている。この「四條少将隆資」は隆貞の誤りであることはいうまでもないが、隆貞とともに父隆資が入つたので、このように記されるに至つたのであろう。『増鏡』に中興なるとともに、藤房等の流人が帰洛したさまを記し、さらに、

四條中納言隆資といふも、かしらおろしたりし、又髪おほしぬ、もとよりちりをいづるにはあらず、かたきのために身をかくさんとて、かりそめにそりしばかりなれば、今はたさらにまゆをひらく時になりて、おとこになれらむ、なにのはヾかりかあらむとぞ、おなじ心なるどちいひあはせける、天台座主にていませし法親王だにかくおはしませば、まいてとぞ、たれにかありけん、その比聞し、
   すみぞめの色をもかへつつき草の
      うつればかはる花のころもに

と記して全巻を結んでいる。これによつて隆資が髪をそつて、敵の目をくらましていたことが知られる。恐らく護良親王と同じく、寺院に入り敵の目を暗まして、兵力の糾合に当つていたのであろう。そして、中興なるとともに、還俗して再び出仕するに至つたのである。『公卿補任』に、

  元弘三年五月十七日詔為本職、

とあるのは、すなわちこれを語るものである。


 三、建武中興と隆資・隆貞

 こうして、隆資は少壮以来、心肝を傾けて苦心して来た討幕の大業がなり、権中納言として中興の事業に参与することになつた。あくる建武元年(1334)正月五日、従二位に叙せられたのは、その多年の功業によるものであつた。しかし同年二月二十三日辞職、十月九日任修理大夫、翌二年(1335)十一月二十六日還任、同日大夫を去つている。二月中納言を辞した理由は明らかでない。修理大夫は皇居造営を当る役所の長官で、建武中興とともに、天皇政治の威容を整えるために、大内裏の造営を企てられたことは、『太平記』にも見えるところであるが、十月隆資にその大任を命ぜられたのである。そして、中納言を辞したのちも、新政の数々の枢機にも参与していることは8、建武元年〔1334〕五月十八日、恩賞方を定められた際に、四番の筆頭を命ぜられ、南海道西海道を司つた9こと、また同年八月発された『雑訴決断所結番交名』に八番、西海道の係りとして侍従中納言公明〔1281〜1336.56歳〕の下に「四條前中納言」の名が見えていることで知られる。かれが、実際にその任務にあたつている牒として、『阿蘇文書』に建武元年十二月二十一日上嶋惟頼の所領について豊前国衙に下したもの、『宗像文書』に同年十月二十一日宗像社年貢について筑前国衙に下したもの、并に同年三月二十日、及び十二月二十七日宗像大宮司社領について同社大宮司氏範に下したもの、『松浦文書』に建武二年〔1335〕二月三十日松浦蓮賀の所領について筑後守護に下したもの、『詑摩文書』に同年六月一日詑磨宗直の所領について肥後国衙に下したもの、およびこれについて同年九月三十日大友氏泰〔?〜1362〕に下したもの、『集古文書』に建武二年八月四日筑後国三池荘のことについて安藝貞家に下したものがある。また、建武二年三月十七日に定められた伝奏結番の二番に久我長通〔1280〜1353.74歳〕堀川具親〔1294〜?〕・九條公明・坊門清忠〔?〜1338〕と共に、修理大夫隆資の名が見えている。これらによつても、新政とともに隆資が重要な任務にたづさわつていることが知られよう。

 さて、隆資の子隆貞は北條氏討伐に際し、大塔宮を扶けて目ざましい功があつたが、中興なつてのちも、親王に仕え、元弘三年〔1333〕六月十六日本願寺に、九月二日および十月三日久米田寺・和田助家、並に和泉目代に発した奉書が存している。しかし、そののちの消息は全く見えない。大塔宮は中興後、足利尊氏〔1305〜58.54歳〕の野心を看破し、しばしばその討伐をはかつてならず、ついにその謀略にかかり、建武元年〔1334〕十二月関東に流された。それとともに、親王祗候の人々も多く捕えられて誅されたことが『太平記』に、「此二三年、宮ニ附副奉リテ忠ヲ致シ賞ヲ待御内ノ候人三十余人潜ニ是ヲ誅セラル」と見えているが、『尊卑分脈』日野資朝の弟浄俊の條に、「律師、祗候大塔宮、建武元十二月被誅了」とあることは、これを証するものである。隆貞は親王に仕えた人々の中で、最も親近されていたのであるから、同様にこの際殺されたのであろう。『尊卑分脈』に、隆資の子隆童について「左少将、従四上、兵部卿親王祗候、打死」とあり、『断絶諸家略伝』には隆資の子隆重について「左少将、従四下、候兵部卿親王打死」とある。兵部卿親王とは大塔宮が中興後、兵部卿に任ぜられたので、このように称するのであるが、隆資の子に隆童または隆重10の名は記録に出ていず、ことに兵部卿親王に祗候とあることから、これは隆貞の誤りであることは明瞭であり、「打死」とあればあるいは親王が捕われた際に浄俊とともに、これを防ごうとして打死したものかと思われる。北条氏討伐における活動を顧みると、隆貞は大塔宮とともに、建武中興において最も痛ましい運命をたどつた人であつた。


 四、 足利尊氏の謀叛と隆資

 建武二年〔1335〕十一月二十六日、隆資は権中納言に還任、同日修理大夫を去つた。けだし足利尊氏の謀叛により、大内裏造営のことをしばらくさしおいて、再びかれをして足利氏討伐に参画せしめようとの叡慮に基づくものであろう。足利軍は関東より攻上つて、あくる延元元年(1336)正月、天皇を比叡山に遷幸せしめたが、奥羽より東上して来た北畠顕家〔1318〜38.21歳〕の軍に敗れて、二月九州に没落した。この年、隆資は再び衛門督を兼ねて宮城の警衛にあたり、三月二日正二位に叙せられた。三月の初め、新田義貞〔1301〜38.38歳〕は足利軍を追うて山陽道を下り、三月晦日より播摩の白旗城に赤松円心〔1277〜1350.74歳〕を囲んだが容易に陥ちず、とかくする中に足利軍が西上し、五月十八日ころ兵を率いて兵庫に退くに至つた。その白旗城攻囲の際に法隆寺領鵤荘に陣を取つて、これを損亡せしめたので、五月八日、その後始末について義貞から、隆資に送つた左の如き文書が存する。

法隆寺雑掌申、播摩国鵤荘堺事、申状進覧之、子細見于状候歟、於当荘数日取陣候之間、為官軍令損亡候了、訴訟事任道理可有申御沙汰候歟、恐惶謹言、
   五月八日 左中将義貞(花押)
  進上 四條中納言殿

 さても、五月二十五日湊川の戦に官軍敗れて、天皇は再び比叡山へ行幸されたが、隆資も供奉し、六月には五百余騎の軍兵を率いて八幡に陣を取り、十三日に大いに奮戦したことが『太平記』に見える。そして、阿蘇惟時〔?〜1353〕の一族惟定の興国二年(1341)十月廿八日の申状に、かれがこのとき比叡山に上り、惟時の代官と名乗つて、隆資軍に属し、七、八月の河原合戦四度、八月廿五日の阿弥院峯合戦、同二十八日の河原合戦に軍忠をたて、さらに隆資に従つて八幡に移り、九月下旬天王寺に陣を取り、ついで南河内の東條に到つたとあつて、この間における隆資の活動の跡を極めて具体的に示しているので、その一節を次に掲げよう。ここに「上」とあるは惟時を示している。

(上略)そののち、しやうくん〔将軍〕ちんせい〔鎮西〕より、のほらせ給候時、ひやうこ〔兵庫〕のかせん〔合戦〕、御方うちまけ候し、われ/\もかせん仕候て、京都ニ参候処ニ、上の御さのところをそん〔存〕し仕候ハぬ間、さいしや〔宰相〕のりつし〔律師〕の御房にたつね参候ところに、ちんせいに御くたりのよし承候間、やかてもまかりくたるへく候処ニ、みちの程たやすからす候□〔う〕ゑ、しようくん方、ことにちんせいのみち、ふねかいたうまかりくたり候□□〔へき〕たよりなく候し間、山ニ君の御とも申候て、四条殿御めにかゝり候て、阿蘇殿御代官となのり申て、かはらかせん〔河原合戦〕、しゆかと〔四箇度〕におよひ候、かつ四条殿御めにかゝり候ぬ、これしかしなから上の御ためをそん〔存〕し候て仕候か、したかて山と〔大和〕よりやわた〔八幡〕に御いて候とて、やつた〔八田〕の入道をもて仰下候し間、思日の□〔ほ〕かにそん〔存〕し候て、わたくしの悦これにすき候ハしと、はせまいり候ところニ、いまよりハ四条殿御手ニてかせん仕候へきよし仰下候間、八月廿五日あみたかミね〔阿弥陀峯〕のかせん、同廿八日かはらかせん仕り候ぬ、そののち又、八田ニ四条殿御入候しむかヘ、あをみミい〔近江三井〕寺御かたさしふさきて候しかとも、四条殿にそいまいらせよと仰かふり候うゑ、又上の御ゆくゑをもうけ給ハり候ハんため二、人/\は□〔さ〕かもとにとゝまられて候しかとも、北さかなし〔坂梨〕これさた〔惟定〕ハかり□〔こ〕そ、四条殿御とも申候て、八抗ズにまいり候て、それより←ズ王寺)(東条)なうし仁御入候し、それまて御とも申候て、上のとうてう〔東条〕に御さ候し処ニまいりて候ヘハ、なを四条殿ニそい参候へきよし、仰かふり候て、とうてうまて、そい参候ぬ、そののち上とつかわ〔十津川〕に御入候しに御とも仕候、(下略)

 『太平記』によれば、十月十日、天皇は京都に還幸されるとともに、四方に皇子あるいは将士を派遣し、隆資はその際、紀伊国に下つたとあるけれども、上の文書によれば、河原合戦、阿弥陀峯の合戦において大いに奮闘し、しかも官軍敗れて、致命的打撃をうけると、九月初めに坂本を発ち、八幡より天王寺に出で、さらに東條に到つてその回復をはかつて活動しているのである。

 足利尊氏は、この年八月三十日、隆資の所領を没収して臨川寺に寄進した。『天龍寺文書』に、

加賀国大野荘地頭職 四条中納言隆資跡 事、為甲斐国牧荘替、所寄附臨川寺状如件、
  建武三年〔延元元〕八月卅日 源朝臣〔尊氏〕(花押)
    夢窓国師

とある。ついで、この年十二月、後醍醐天皇が京を脱して吉野に赴かれた際、北朝においては南朝方の公卿の官職を悉く解いたが、隆資もその一人であつて、『公卿補任』に「十二月日解官」とあるのは、これを意味する。

 隆資はこれより三月余り早く叡山を出でて河内・和泉に活動していたことは上に述べた如くであり、天皇を吉野にお迎へするのにもいろいろと努力していたと思われるが、いよいよ吉野に行幸を仰いで、これより廷臣中の柱石として、輔佐することとなつた。けだし重臣としては、他に北畠親房〔1293〜1354.62歳〕がいるけれども、親房はこの年十月伊勢に下り、ついで三年秋、常陸に下つたので、吉野における隆資の存在は、もつとも重大なものとなつたのである。

 あくる延元二年(1337)四月、宣旨の下知について隆資に、左の如く仰下されたことが『観心寺文書』に見える。

献上
宣旨
僧正法印大和尚位弘真申請以御持僧労阿闍梨三口被寄置観心寺事
右宣旨早可令下知給之状如件、
   四月卅日     侍従親忠奉
 進上 四条中納言殿

 またこの年、北條時行〔?〜1353〕が南朝に帰順を願うた時の伝奏が隆資であつたことが天正本『太平記』に見え、あるいは『吉野拾遺』に「先帝の御時」、「よし野」にて「ある夜、御前に中納言隆資卿、洞院の実世卿、宗房卿其外あまた侍らひ給ひける」折のこととして、

夜もあけなんとするまで、御酒まいりけるに、山がらすのこゑのきこえければ、隆資卿
 くわん幸と鳴や吉野の山鳥かしらもしろし面白のよや
とのたまひければ、いといたう御心よげに渡らせ給ひけり、

とあることなども、吉野遷幸後における隆資の地位を語るものであろう。





1 『大日本史』巻一百六十四

2 『増鏡』はこれを元亨元年〔1321〕とし、天正本『太平記』は元亨三年〔1323〕としている。元亨元年とすれば、隆任の喪中にあたるので『太平記』の元亨三年説をとった。

3 『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』『太平記』

4 『公卿補任』には「八月廿四日主上臨幸笠置城之時、供奉之」とある。『太平記』には幕府の目をくらますため、花山院師賢が、天皇と称して叡山に上ったのに隆資も具し、のち露顕するに及び、師賢とともに笠置に赴いたとあるが、今は『増鏡』『公卿補任』に従う。

5 後年、隆資が隆量のために高野山に上り、仏事をいとなんだことが『新葉集』の左の歌によって知られる。
隆量朝臣身まかりて年へて後高野山にのほりて仏事なとしける次に読侍ける 四条贈左大臣
なきを訪ふ涙の露の玉くしけふたゝひぬるゝわかたもとかな

6
隆貞がその目ざましい活動にも係わらず、一向世にあらわれていないのは『太平記』に記されなかったのによることは、久米邦武博士が『太平記ハ史学ニ益ナシ』(『史学雑誌』第二十一号)に論ぜられた如くであろう。

7 『史徴墨宝考証』に、「隆資ハ笠置ノ供奉ノー人ニテ、事敗レテ後、大塔宮ヲ奉シテ潜匿シ、遂ニ逮捕ニ就ク、翌年ニ至り、其子隆貞大塔官ノ令旨ヲ伝ヘテ事ヲ挙タリ、時ニ隆資四十歳、親房ヨリ長スルー歳ナリ、建武一統ノ後、親房奥羽ヲ鎮撫シ、子顕家十七歳ニテ国司トナル、隆貞ハ隆資ノ二子ナレハ、其齢顕家ニ匹スヘシ、大塔宮ノ令旨、隆貞奉ストアレトモ、其実ハ隆資ノ参画ニ出タルナリ」とあり、また久米博士前掲論文にも、同様に論じてある。隆資が「逮捕」されたとあるのは、隆量の誤りである。また親房より一歳年長とあるのも誤りで、同年である。

8 『建武記』。隆資は中興の際、和泉国司となったとの説があるが、所拠は明らかでない。

9 このとき、隆資の下に五条頼元〔1290〜1367.78歳〕がいることは、のち征西府と吉野の隆資との連絡を考える上に注意すべきであろう。

10 『増鏡』に、元弘元年〔1331〕十二月十二日解官された十名中に「隆重」の名が見えるが、これは「隆量」の誤りであることは、前に明らかにした。量、重、童、貞等の字は類似しているので、転写の際に誤りやすいのであるが、『断絶諸家略伝』は『増鏡』の記事を参照して、『分脈』の隆童を訂正したものであろう。



※後半はこちら


☆四条隆資が登場する『増鏡』の最終場面はこちら
☆四条隆資を『増鏡』の作者とする中村直勝氏の考え方はこちら(「増鏡の史実性について」)。また、長らく無視されていた中村直勝説を再評価された竹本源吾氏の見解はこちら
☆四条隆資ではないかとされている「四条黄門」が登場する『徒然草』第219段はこちら
☆四条家系図はこちら






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