更新14.3/11


細川涼一「洛東山科における寺院の成立と展開−醍醐寺の歴史と真言密教寺院の展開」
(後藤靖・田端泰子編『洛東探訪−山科の歴史と文化』.淡交社.平成4年)




細川涼一氏の略歴(※)
(ほそかわりょういち)1955年、東京生まれ。1984年、中央大学大学院文学研究科博士後期課程修了。現在、京都橘女子大学教授。日本中世史・思想史専攻。主な著書に「中世の律宗寺院と民衆』(吉川弘文館、1987年)、「女の中世−小野小町・巴・その他』(日本エディタースクール出版部、1989年)、『中世の身分制と非人』(日本エディタースクール出版部、1994年)、『逸脱の日本中世』(洋泉社、1996年新装版)。共著に『神栖町史上巻』(茨城県神栖町、1988年)、「三和町史通史編原始・古代・中世』(茨城県三和町、1996年)、「枚方の女性史』(大阪府枚方市.1997年)などがある。

※『中世寺院の風景』新曜社.著者紹介より



細川涼一氏の見解

私の考え方

醍醐寺の尼寺・勝倶胝院

 鎌倉時代には、奈良法華寺が尼寺として復興されたのをはじめ、各地に尼寺が造営されたが、下醍醐にも尼の住む子院として勝倶胝院(しょうぐていいん)という子院があった。

 この勝倶胝院は平安末期に第一七代座主実運(明海)によって建立されたものであるが、第二四代座主(第二六代座主にも復任)成賢は、寛喜三年(一二三一)に、この勝倶胝院の堂舎および付属の山林・田畠を尼真阿弥陀仏(真阿)に譲った。この勝倶胝院は成賢の後世菩提のために不断念仏を行う道場であったが、成賢はこの自分自身の遠忌の勤修を尼真阿に託したのである。こうして、醍醐寺において、尼寺勝倶胝院が誕生した。



醍醐寺は京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山。山号深雪山。笠取山上の上醍醐と山麓の下醍醐を総称して醍醐寺と呼ぶ。
 以後、勝倶胝院は、真阿から嵯峨殿(もとの八条院の女房、八条院高倉。醍醐に一時住んだので、醍醐殿とも呼ばれた。高松院〔二条天皇后〕と安居院澄憲の密通によって生れた女子で、のち奈良法華寺に入って空如と号した。)に譲られたが、後に返されて浄意という尼に譲られ、さらに建長四年(一二五二)八月二十日に、浄意から信願(久我家の縁者の尼か。後深草院二条(久我雅忠の娘)の『とはずがたり』に真願房としてその名がみえる)に譲られた。その際の浄意の譲状によれば、勝倶胝院は無縁の尼たちが立ち宿って、不断念仏を勤修する道場であった(「醍醐寺文書」)。


高松院(1141〜76.36歳)は鳥羽天皇皇女。母は美福門院得子。澄憲(1126〜03.78歳)は藤原通憲(信西)の子、安居院(あぐい)流唱道の祖。

真願房が登場する場面はこちら
 その後同院は、文永四年(一二六七)に信願から久我通忠の娘、小坂禅尼(後深草院二条の従姉)に譲与され、応長元年(一三一一)に小坂禅尼から万里小路姫君に譲与されて、勝倶胝院は九条家の進止権下に入った。このように、鎌倉時代を通じて、勝倶胝院は尼によって相伝されたのである。

 浄意の信願への譲状には、勝倶胝院は無縁の尼たちが宿って念仏を勤修する道場であると述べられているが、このような寄る辺のない女性たちが尼となって集う場所としての勝倶胝院は、『とはずがたり』にもうかがうことができる。

 すなわち、『とはずがたり』巻一によれば、後深草院二条は、文永九年(一二七二)の父久我(中院)雅忠の死後、縁故のある真願房(信願)を頼って、年の暮れに勝倶胝院に籠っている。院主の真願房は、二条のもの悲しい無聊を慰めようと、年寄った尼たちを集めて過ぎ去った昔の思い出話などもしているが、そこは庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居であった。晨朝(暁)から初夜まで、尼たちは交代して、交代時には「誰がし房はどうなさいました。何阿弥陀仏は」などと交代者を呼ぴ歩きながら、念仏を勤行したが、その尼たちの勤行に出る際の衣も、粗末な麻の衣に真袈裟(粗末な袈裟)を形ばかり引き掛けたというものであった。

 二条は建治三年(一二七七)にも後深草院の御所を出奔して勝倶胝院に隠れているが、その際の『とはずがたり』巻二によると、院主の真願房は、勝倶胝院は「十念成就の終りに、三尊の来迎をこそ待ち侍る柴の庵」である、と述べている。すなわち、この尼寺は、寄る辺のない尼たちが終焉の折りに、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行をする、賤しい柴の庵だ、というのである。

 真願房のこの言葉は、出奔した二条を訪ねてきた愛人の西園寺実兼に対して、謙譲の言葉として述べられているものであり、そこには多少の誇張もみられるものと思われる。しかし、いずれにしても、勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(『とはずがたり』に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである。

久我通忠(1216〜50.35歳)は二条の父雅忠の十二歳上の兄。久我家の嫡流を継ぐが、父通光の遺言により財産相続を否定される(「久我家領の成立と展開」)。父の死のわずか2年後に通忠も死去し、久我家は沈滞を余儀なくされることとなった。

細川涼一氏も網野善彦氏(『蒙古襲来』)と同様、『とはずがたり』の記述を歴史的事実としてそのまま鵜呑みにしている。しかし永井路子氏の『歴史をさわがせた女たち』を素材として別途検討したように、この部分はどう考えても異常な話である。『とはずがたり』によれば1272年4月に二条は後深草院の皇子を懐妊し、6月頃から体調不良を訴え、8月に父が死亡して将来に不安を感じ、10月に妊娠6か月の身でありながら「雪の曙」と連日同衾し、12月に「庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居」である醍醐の勝倶胝院に身の回りの世話をする人もないまま一人で籠もり、しかもそこにまず後深草院が、次いで「雪の曙」が吹雪の中を訪問し、「雪の曙」とは終日酒盛りをしたというのである。そして翌年2月には出産である。細川氏の引用部分に限っても、15才(満年齢なら14歳)で妊娠8か月の初産の女性が、旧暦12月、吹雪もある厳寒の時期に醍醐のような寂しいところにひとりで籠もり、しかも訪ねてきた愛人と終日酒盛りをやっていたというのである。細川氏は本当にこれらに疑いを抱かないのであろうか。これほど不自然な点があるのに、『とはずがたり』を事実を記録したものとして、ここまで安易に引用していいのだろうか。

二条が御所を出奔したのは、女楽という源氏物語を模した音楽の催しにおいて不当に軽い扱いを受けたと感じたからである。この「女楽事件」は二条の性格を考えるうえで大変参考になる。原文はこちら



女楽事件に見られる二条の性格について


 二条が後深草院の御所を出奔したのは『とはずがたり』では20歳の時のこととされている。二条は女楽(おんながく)という源氏物語を模した音楽の催しにおいて、もともと明石の上という身分の低い役柄に不満であった上に、祖父四条隆親が自分の晩年の子で、二条にとっては一応叔母にあたる「今参り」をえこひいきして、演奏者の位置について介入してきたことに激怒し、当てつけがましい歌を残して御所を飛び出し、行方不明になってしまったのである。

 原文ではもっともらしいことをいっぱい言っているのであるが、素直に考えれば異常なまでの気の強さ、あくのつよさ、不羈奔放ぶりである。いくら頭にきたからといって、少しふてくされる程度ならともかく、勤務先を飛び出して行方不明になってしまうのだから尋常ではない。後深草院や亀山院の口を借りて自己正当化のための弁明も執拗になされているが、どう考えても二条は変な女である。

 細川涼一氏は「勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(『とはずがたり』に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである」などと言われて、二条の言うことを完全に真に受けておられるが、二条のような性格の人間の証言をそのまま信じていいのであろうか。

 「賤しい柴の庵」で、「終焉の折に、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行」をしている「寄る辺のない尼たち」が、二条のような自分勝手な人間を暖かく迎えるということが人間の自然な心理として本当にありうるのだろうか。

 それは、例えば、あくまで仮定の話ではあるが、男とやりたい放題遊び回って野村沙知代に説教された神田うのが、野村沙知代と大喧嘩したあげく、頭にきて仕事をほっぽりだし、世間の目を誤魔化すために修道院に隠れ、しかもその修道院にまで男をひっぱりこんでいるにもかかわらず、そこで静かな信仰生活を送っていた中高年の敬虔な修道尼たちが神田うのを好意的な目で見守り、なにくれとなく親切に世話をしてあげるようなものではないだろうか。つまり人間の自然な心理としては絶対にありえないことではなかろうか。

 また、「愛人の西園寺実兼」が関東申次という重要な職務を放擲して、こんな身勝手な女をあちこち探し歩くようなことが本当にありえたのかも疑問である。

 西園寺実兼に関しては、鎌倉・南北朝期の公武間の交渉について緻密な研究を重ねておられる福岡大学教授森茂暁氏が、『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版)42pにおいて次のように書かれている。 

 さて、当面の問題はこの西園寺実氏の関東申次としての活動と朝幕関係との係わりである。実氏の執務状況・態度を考えるとき、『公衡公記』(実氏の玄孫公衡の日記)弘安六年(一二八三)七月二十一日条にみえる「故入道(実氏)殿御時、故太政大臣(公相、実氏息)殿曾無令申次給事、入道殿毎度老骨令参給」という記事は参考になる。これは当時の関東申次西園寺実兼(公相息)が病気のため東使が院参する日に出仕が困難という状況の中で、余人に代替させようという案も出てきた時、結局これを受け入れなかった実兼が述べた言葉である。すなわち、祖父実氏は関東申次の職務を子息など余人に代替させたことはなく、毎度本人が老骨に鞭うって、これを勤めたし、今更その儀に違ってはならない、というのである。関東よりの申し入れの上奏は関東申次自身がこれを行うのが「御定」だとまで言い切っている点も、この職務が専門職化、家職化した様子を示していて興味深い。このとき実兼は病を押して院参、その任務を果たしている。 

 実兼は父の公相(1223〜67.45歳)が祖父実氏(1194〜1269.76歳)より先に亡くなったため、1269年、若干21歳(満年齢なら20歳)で関東申次の地位を祖父から承継した。そして、1274年の文永の役当時は26歳、この『公衡公記』の記事の書かれた1283年当時は35歳である。

 『とはずがたり』巻一には、二条が後深草院の子を宿すはずのない期間に「雪の曙」の子を妊娠し、その事情を隠すために出産時には人を遠ざけ、後深草院には早産と偽りの報告をしたとの話が出てくるが、そこでは「雪の曙」は世間には春日神社に籠もったと称して二条の秘密の出産に付き添っていたことになっている(原文はこちら。)

 国文学会の通説によれば、これは1274年9月のことであって、「雪の曙」こと西園寺実兼は、まだ関東申次としての経験が極めて浅く、しかも初めての元寇(文永の役)という危機的状況の中で、愛人の出産のために実質的に職務を放棄していたとされているのである。

 しかし、1283年、即ち弘安の役の2年後の比較的忙しくない時期においてすら、病気を押し切って関東申次の職務を全うした西園寺実兼が、元寇の直前という重大時局に際して、愛人の出産のために職務を放棄したなどということは絶対にありえなかったと私は思う。同様に西園寺実兼が勝手に御所を飛び出した愛人を捜すために、わざわざ醍醐のようなところに自ら出向くようなことをしたとは私にはとうてい思えない。

 『とはずがたり』のような奇妙な本や、『とはずがたり』を大量に引用している『増鏡』などから離れて、当時の文学作品ではない史料から伺われる西園寺実兼の姿を素直に見ると、西園寺実兼はびっくりするくらい真面目人間なのである。西園寺家は、実兼の祖父実氏も、実兼も、実兼の息子公衡も、みんな誇りと責任感を持って関東申次の仕事を行っていたのであり、精神の退廃の気配など微塵もないのである。



☆西園寺実兼については橋本義彦氏「西園寺実兼」(『書の日本史』)と本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』が参考になる
☆西園寺家については龍粛氏「西園寺家の興隆とその財力」と網野善彦氏「西園寺家とその所領」が参考となる。
☆西園寺実兼は『徒然草』第118段第231段、西園寺公衡は第83段に登場する。
☆西園寺家系図はこちら





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