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今井雅晴 「一遍とその時代」
(『一遍辞典』.東京堂出版.平成元年.p3以下)





今井雅晴一氏の略歴(※)
1942年 東京都に生まれる
1977年 東京教育大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士
現在 筑波大学歴史・人類学系教授
※『親鸞と東国門徒』(吉川弘文館.平成11年)著者略歴より




 激動の時代

 一遍は、念仏をひたすら唱えつつ、全国を十六年間にわたって歩き回り、ついに旅に没した放浪の僧である。彼は、今から七百数十年前の延応元年(一二三九)に生まれ、正応二年(一二八九)に亡くなっている。鎌倉時代の中期から後期にかけての人物である。

 一遍は強力な顔・姿を持つ異形の僧侶であるとともに、多くの者を引き付けてやまないカリスマ的な魅カをも持っていた。強烈に生き抜いた彼の信仰生活に対応するように、その生きた時代もまた激動する波にもまれていたのである。

 鎌倉時代 ─ それは武士と農民と商人・手工業者、あるいは芸能民が新しく勢力を競い合っていた時代である。平安時代以来の貴族も斜陽をかこちつつも、必死に生きていた。この時代は、治承四年(一一八○)、源頼朝〔1147〜99.53歳〕が伊豆国の蛭ガ小島で平家打倒の兵を挙げたことに始まる。馬に乗って野山を駆け巡る関東武士は、平家を京都から九州へ追いやった。しかし瀬戸内海を地盤とする、船に乗った武士である水軍を味方につけている平家は容易に屈しなかった。五年間にわたる戦いの末に、頼朝の弟義経〔1159〜89.31歳〕の率いる源氏軍は、壇ノ浦で平家軍を全滅させた。この時、海戦では劣勢と思われた源氏を助けて勝利に導いたのは、義経の天才的な指揮もさることながら、伊予国の水軍を率いて味方についた河野通信(こうのみちのぶ)〔1156〜1223.68歳〕であった。河野通信は、すなわち一遍の祖父である。この結果、通信は頼朝の信任を得、創始されたばかりの鎌倉幕府の中で有力な地位を得た。

 鎌倉幕府は、発展しつつある武士の政府である。そして武士は、ふだん、農民の先頭に立って農業を行なっている。つまり、鎌倉幕府は武士と農民の政府であると言いかえてもよい。初め幕府の支配する地域は関東地方や中部地方の一部に限られていたが、やがて朝廷から全国に守護・地頭を設置する権限を得、頼朝が征夷大将軍になり、また奥羽地方の豪族藤原氏を滅ぼすなど、しだいに勢力を広げていった。 この間、幕府内では頼朝のあとを継いだ頼家〔1182〜1204.23歳〕と実朝〔1192〜1219.28歳〕がいずれも実権を失っていった。他の武士たちが政治的に目覚め、頼朝のような独裁を望まなくなっていたのである。その武士たちの代表的存在が北条氏である。頼朝の妻・政子〔1156〜1225.70歳〕の父である北条時政〔1138〜1215.78歳〕は、挙兵の時から頼朝を助け、主に朝廷との交渉面で成果をあげた。頼朝の没後は執権として幕府を主導し始めた。その時政を隠居させて北条氏の当主となった子の義時〔1163〜1224.62歳〕は、将軍実朝を擁して幕府の実権を握った。

 承久三年(一二二一)、勢いに乗る幕府は、後鳥羽上皇〔1180〜1239.60歳〕を中心とする朝廷軍と戦い、これを破った。承久の乱である。この結果、幕府の支配地域は飛躍的に広がった。ところが、北条時政の娘という谷(やつ)を妻の一人としていた河野通信は、この戦いで朝廷方に味方したのである。当然のように領地のほとんどは没収され、四十年にわたって四国に蓄えた勢力を失った。通信は奥州江刺に配流、数人の子息たちもあるいは戦死、あるいは流罪となった。ただ谷を母とする河野通久のみ、幕府方に味方して事なきを得た。もう一人、出家の身で両軍に加わらなかった通広も、責任を問われることはなかった。これが一遍の父であり、出家名を如仏(にょぶつ)という。鎌倉幕府の成立と発展に伴う河野氏の浮き沈みの果てに、一遍がこの世に生を受けた。 承久の乱から十八年後のことである。

 ところで、鎌倉時代の経済を支える農民のイメージは、今日の私たちが考えるものと少し違うのである。一定の土地に縛りつけられ、領主に刃向うことはできない−これは江戸時代の農民である。鎌倉時代においては、農地は谷間から平野に出るあたりに集中し、農民は毎年のように耕地の割り替え(交換)を行なっていた。領主があまりに高額の租税を取る時は、集団で耕地を捨ててこれに対抗した。江戸時代ではとてもできることではない。農業の指導者である領主の武士は、農民といわば人間的な関係を保っていかねばならなかった。春先には豊作を占う行事を鎮守の杜で、夏の日照りには祈雨の法を村の寺の僧侶に依頼するなど、宗教も武士と農民で共有していたのである。しかし、武士と農民は、農村に定着した社会を作っていたには違いない。

 これに対し、各地を歩き回ることで生活を成り立たせている人びとがいた。いわば遊行(ゆぎょう)の民である。それは商人・手工業者・運輸業者・山村民・海民(漁業)・琵琶法師などの芸能民・信仰を説く聖(ひじり)たちなどである。商人や手工業者は、まだ一定の場所に作業場を構え、店を作っては生活できなかった。各地を巡り歩いて品物を作り、売ったのである。

 彼ら遊行民を泊めるために、交通の要所には宿(しゅく)が生まれた。江戸時代の宿場町であり、いわば旅館街である。ここでは、平均して月に三度ほど市(いち)が開かれた。多くの人が集まる宿や市は、布教のかっこうの場所でもある。一遍の伝記を描いた絵巻物である『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』にも、尾張国の萱津宿(かやづのしゅく)や備前国の福岡市(ふくおかのいち)で一遍が活躍している様子が示されている。ちょうど一遍の修行時代から布教者の時代である十三世紀中葉から後半にかけて、年貢の銭納が急速に布及した。年貢を稲・麦などの現物ではなく、銭で納める制度である。しかし農民たちが銭を多量に持っているわけではない。そこで市へ行って田や畑の収穫物と銭とを交換する。こうして市や商人たちの重要性はいっそう高まった。

 現在でもそうであるように、商人や芸能民は大きく宣伝し、夢を売ってお客を引き付ける。派手にする必要がある。そこで彼らの理想は「過差(ぜいたく)」である。たくさん使ってたくさんもうけるのである。これに対し、武士や農民の美徳は「倹約」である。農業では毎年の収入に限りがある。ぜいたくはできない。出費を押さえてこそ生活が安定する。

 武士や農民の「倹約」と、商工業者の「過差」の争いは、鎌倉時代の社会の中でしだいにあらわになり始めた。つい「過差」に気を取られ、没落する武士も多くなった。幕府は武士によって成り立っている以上、「倹約」の立場をとる。北条義時の子・泰時〔1183〜1242.60歳〕から、泰時の孫・時頼〔1227〜63.37歳〕の代に移るにしたがい、「過差」は強力な社会的勢力となった。一遍の幼年時代から修行時代に当たる時頼の代の一番の政治上の課題は、いかに商工業者から武士を守るか、ということであった。そして商工業者は幕府の中まで入り込んでくるのである。動揺する幕府と農村社会を、さらに揺るがしたのが二度にわたる蒙古の襲来である。

 実際の蒙古襲来(元寇)は、文永十一年(一二七四、文永の役)と弘安四年(一二八一、弘安の役)の二度である。しかし最初に日本に服属を求める使者が九州に来たのは、文永五年(一二六八)のことである。北条氏は、若冠十八歳の時宗1251〜84.34歳〕の代である。一遍は、故郷伊予国で還俗生活をおくっている。

 承久の乱で九州の大宰府を支配下に収めて以来、外交権は幕府が握っている。その代わり、外敵を撃退する責任もある。幕府は九州や長門・周防などの西国に領地を持つ武士に北九州の警備を命じた。こうして続々と東国の武士も西国に移った。蒙古は、数十年にわたって高麗(朝鮮半島)を蹂躙し続け、宋(中国大陸)を今まさに滅ぼそうとしている巨大な国である。人びとの不安はしだいに高まっていく。一遍が紀伊国熊野本宮で熊野神の啓示を受けて布教方法を確立したのは、実に第一回蒙古襲来の直前であった。

 蒙古に対する恐れは、第一回の襲来後にいっそう高まった。日蓮1222〜82.61歳〕の手紙には、蒙古兵は敵兵の腹を割いて肝を飲むとか、捕虜の男は皆殺しにし、女は手のひらに穴をあけて数珠つなぎにして軍船の船べりに縛りつけるとかある。『八幡愚童訓』には、蒙古兵の放つ矢には猛毒が塗ってあり、当たればもちろん、かすっただけでも高熱が出ると伝えている。このような不安のうずまく中、警備を担当し防衛戦に出る武士の負担も大きかった。当時の武士は、戦後に必ず恩賞が出るものとして手柄をあげるべく命を賭けて戦う。しかし二度にわたる戦争では、いずれも蒙古を追い払っただけで、一寸一分の土地を得たものでなければ、財宝を得たものでもない。出陣の命令を出したにもかかわらず、恩賞を与えられない幕府に対して、武士たちの不満は高まった。

 このような激動する社会は、仏教界にも深刻な影響を与えずにはおかなかった。日蓮は文応元年(一二六○)に『立正安国論』を著して蒙古の襲来を予言し、これを北条時頼に呈上して、『法華経』を信じなければ日本は滅びると迫った。やがて現実となった蒙古の襲来を前にし、「南無妙法蓮華経」と唱えて国難に当ることを説いた。叡尊(えいそん)〔1201〜90.90歳〕は、戒律を守るべきことを主張して社会の安定に努力し、幕府や朝廷の信頼を得ていたが、四天王寺や伊勢神宮・石清水八幡宮をはじめとする各寺社で蒙古の退散を祈った。良忠(りょうちゅう)〔1199〜1287.89歳〕は法然〔1133〜1212.80歳〕の孫弟子に当たるが、鎌倉と京都で念仏を説き、動揺する人びとの心を鎮めようとした。彼らは皆、不遇の時代を経て人心をつかんだ者たちである。激動し、混乱する時代をいかに生き抜くか。これがこの時期の武士・農民、商工業者あるいは貴族を問わず、共通した課題であった。これに対して、仏教界ではいかにして救いの教えを説くことができるか。それも形だけの教えではなく、自分自身で納得しつつ、人にも説かなければならない。前述の日蓮と並び、一遍はこの時代を代表する僧としての双璧である。さらに平安時代以来、日本全体に最も広まっていたのは、『法華経』の教えと念仏の教えである。一遍は、その念仏の教えを究極まで突き詰めた僧侶であるとともに、各地を巡って民衆の救済に我を忘れたヒジリでもある。容貌から言えば、強烈な個性を思わせる異形の人物でもあった。


 一遍の信仰と活動

 五十一年の生涯を、一遍は何を求めて生きたのであろうか。没落した河野一族に生まれたとはいえ、彼が望めば普通の武士としての生活が送れるだけの領地は父から受け継いでいた。一遍はそれを振り捨て、妻子も捨ててヒジリの生活に入っていくのである。当然、現実生活での悩みがあったはずである。その生活に絶望したのか。あるいは、苦しみの果て、よりよく生きるため家を出たのか。また、十六年間も全国を歩き回るのは並大抵の事ではあるまい。そうまでさせた原動力とはいったい何なのであろう。

 一方、一遍は十六年間の活動の中で、多くの弟子を得た。この弟子のことを時衆という。他に、一般人で帰依した者は、数限りなかった。では、一体何が人びとをして一遍に引き付けさせたのか。一遍の魅力は何だったのか。顔であろうか。姿や雰囲気であろうか。あるいは念仏の声であろうか。

 一遍が生まれたのは、伊予国道後である。ここは今日の松山市の郊外で、古代から温泉が湧き出している保養地である。夏目漱石〔1867〜1916.50歳〕の小説『坊っちゃん』の舞台となった温泉街の外れに、室町時代製作の一遍像を安置する宝厳寺(ほうごんじ)がある。このあたりで一遍は生まれた。宝厳寺はすでに存在していた。父の如仏(通広)は、かつて京都に上って証空(しょうくう)〔1177〜1247.71歳〕のもとで修行したことがあった。証空は善慧房(ぜんねぼう)と号し、法然の弟子である。すなわち、浄土宗西山派の祖である。一遍の下には、弟が 三人ばかり生まれた(『河野系図』『予章記』など)。兄が一人いたという説もある(『一遍上人年譜略』)。

 一遍の不幸は、十歳の時に母を失ったことである。その母の名は伝えられていない。やがて父の希望により出家し、随縁(ずいえん)と名づけられた。『一遍聖絵』第一巻には、「やさしい母を失って、始めて無常の理をさとった」とある。無常の理−世の中にいつまでも続くものはない。生ある者は必ず死ぬ−、これが一遍を仏教に向かわせたきっかけである。

 建長三年(一二五一)、十三歳の時、一遍は大宰府の聖達(しょうたつ)のもとに送られ、さらにそこから肥前国の清水寺の華台(けだい)のもとに送られた。聖達も華台も証空の弟子で、一遍の父如仏とは旧知の間柄である。しかも如仏は、華台に入門していたこともある。一遍を智真ともいうのは、この華台から与えられた名である。

 建長四年(一二五二)、一遍は聖達のもとに帰り、浄土宗西山派の勉強と修行に励んだ。「天性聡明」(『一遍聖絵』第一巻)と言われ、十年余りが過ぎた。弘長三年(一二六三)、父如仏の死が伝えられ、一遍は故郷伊与国に帰った。二十五歳の時である。ここで彼は還俗(げんぞく)(僧が俗人に戻る)し、八年近く武士としての生活を送る。父の跡を継いだのである。

 青春の十年余の修行生活は、一遍を真面目な、人生について深く考える人間にしてしまったようである。強い意志力を持ちつつも、感受性に富み、傷つきやすい一面も持ち合わせていた。仏教そのものも、捨てたわけではない。妻を迎え、子も生まれた武士としての生活は、七、八年ののちに苦しい結末を見ることになった。

 一遍の伝記を描いた、もう一つの信頼すべき絵巻物である『遊行上人縁起絵(一遍上人絵詞伝)』によれば、一遍は親類の恨みを買ったという。そのために殺されようとし、疵を受けたが、敵の太刀を奪い取って命は助かった。その争いの原因は、『一遍上人年譜略』によれば、領地の奪い合いであったという。承久の乱で領地が激減した河野一族の中で、人間の欲の恐ろしさを身をもって体験し、武士を捨て故郷を出 る決心をしたという。

 『北条九代記』によると、話はぐっと異なる。一遍の親類の者に二人の寵愛する妾を持つ者がいた。二人はふだん仲がよかった。ある日、二人が頭を突き合わせて昼寝をしていた。それを一遍がほほえましく見ていると、二人の髪の毛がたちまち無数の小さな蛇となって食い合いを始めた。一遍は女性の嫉妬の恐ろしさに気付いたという。

 領地争いにしても、女性の問題にしても、武士として俗世間に生きている以上、避けて通ることはできない。領地に対する執着は、親類などの他人事ではなく、自分自身の中に存在する。女性に激しい嫉妬を起こさせる原因は、自分にもありそうである。やはり複数の女性に執着する自分である。執着の固まり−これが自分の姿であった。他方、浄土宗の念仏の教えに生きようとしている自分もある。この世でのものごとに執着の気持を残していれば、阿弥陀仏の浄土をありがたいと思う心にかげりが出、一心に念仏を唱えるようにはなれまい。このまま執着心の固まりのままで生きていくことはできない。百歩を譲って、これから女性のことは我慢するにしても、美しい着物に目が向かうことはあろう。これは来世に畜生道に落ちる基である。おいしいものも食べたくなることがあるに違いない。しかしこれは餓鬼道に生まれる原因である。それらを我慢して耐えても、家を構えること自体で地獄へ引きずり込まれることは確実である。なぜなら、ほんの少しでも、家に対する執着心が残り、心から浄土を求めての念仏が唱えられなくなるからである。

 こうして一遍は、在俗生活に仏教を生かそうなどというなまぬるいことではダメだと気がついた。すベてを捨てねばならない。優等生として過ごした大宰府時代に得た、阿弥陀の浄土を求めての念仏生活は、今になってみれば完全に納得のいくものではない。なぜなら、あのころは在俗生活のほんとうの苦しみを知らなかったからである。しかし、念仏のみに生きる生活が、自分にとって真の生活であることは確信できる。それでは、執着心にさいなまれる武士の生活を捨て、真の念仏を求めて生きよう。

 財産や異性の問題など傍若無人に踏み越えていく人間はいくらでもいる。また、あれこれ心を悩ましつつ、それでもしがみついているのが普通の人間の姿であろう。しかし一遍はすべてを捨てようと決心したのである。人一倍感じやすい心と、真実を求める心を持ち、強い意志力を持っていたがゆえの決断であった。

 しかしながら、超人的なようでいて他方ではいかにも人間らしいのは、一遍の心は、「捨て」てそれで落ち着くものではなかった。常に捨てることを意識しつつ、自分の心に言い聞かせ、身体に言い聞かせなければならなかった。ぼろをまとい、食事の欲を切り捨て、歩き回って野宿した十六年の生活は、身を苦しめることによって捨てることを実感していたのである。そしてそれは限りなく浄土へ近付く道でもあった。強い意志力を持ちながら、同時に、心を乱す基と知りつつ現世の美しさやぜいたくに気を引かれ、さらにはそれに悩む弱い一遍であってみれば、すべてを捨てる以外に真実の道はなかったのである。

 再び出家してまもなく、一遍は信濃国善光寺に詣でた。文永八年(一二七一)のことである。本尊である善光寺如来は、十万億土のかなたの浄土に住むのではなく、この信濃の地で直接衆生を救う生身の如来であると信仰されていた。この寺での参籠により、一遍は親しく如来に会うことができ、続いて三年間ほどの伊予国窪寺での修行によって悟りの境地に達した。すなわち、彼にとって生きるべき指針であった念仏について、心からの確信を得たのである。『無量寿経』や『観無量寿経』『阿弥陀経』などによれば、衆生は念仏によって阿弥陀仏に救われるとある。では念仏とは何か。実に阿弥陀仏の功徳のすべてが込められていて、救いの原動力があるのではないか。ともかくも「南無阿弥陀仏」と唱え続けることにより、その不可思議なカで極楽へ往生できる。阿弥陀仏でさえ、その修行時代である法蔵菩薩の昔、衆生の唱える「南無阿弥陀仏」の声で仏になることができたではないか。「南無阿弥陀仏」と唱えることにより、現世・来世の区別なく、臨終の時と普段の時とであるとを問わず、極楽浄土が目の前に広がるのである。一遍は、この時の心境を「十一不二(じゅういちふに)の頌(じゅ)」に示している。

 こののち、一遍は伊予国菅生(すごう)の岩屋(いわや)でさらに修行して悟りの境地を固めた。文永十一年(一二七四)二月、一遍はついに衆生に念仏の教えを説くべき旅に出るのである。難波の四天王寺、紀伊国の高野山と参詣しつつ歩を進める彼のあとには、何と妻・娘および下人が従っているのである。妻は超一、娘は超二、荷物運びの下人は念仏房という。武士身分の者に下人がいるのは当然ではあるが、すべてを捨てたはずの一遍に妻子が同行しているのは信じ難い。しかしそこが一遍の人間らしい所であり、また弱い部分でもある。泣いて頼む妻子を振り切れなかったのではないか。

 本来、一遍の再出家の目的は、自分がいかに生きるかにあった。他人の救済を意識していたわけではない。しかし、いったん悟りの喜びを知ると、その喜びを他の人びとにも分け与えたくなる。一遍の布教方法は、「南無阿弥陀仏」と印刷した紙の小さな念仏札(名号札〈みょうごうふだ〉)を会う人びとに配り、念仏のありがたさに目覚めさせることにある。

 同じく文永十一年の夏、熊野本宮の証誠殿(しょうじょうでん)に参籠し、またまた夢告を得て、布教方法についても確信を得た。この時、山伏姿の熊野神が、名号札の受け取りを拒否されて悩む一遍に、「受け取る側がどうあろうと、ひたすら御札を配れ」との神託を下したのである。一遍は念仏を伝えることによって人びとを救おうとしていたのであるが、それは誤りであると熊野神は指摘した。衆生を救えるのは一遍ではなく、阿弥陀仏である。一遍が悩む必要はないし、悩むのは不遜でもある。こうして一遍はいっそう深い信仰の境地をも得た。この時の心境を「六十万人の頌」と「六字無生〈ろくじむしょう〉の頌(じゅ)」に示している。

 ここにおいて、一遍は妻子・下人を故郷に帰した。ほんとうにすべてを捨て切ったのである。以後四年間、たった一人で四国から九州を巡った。遊行−これが一遍の活動の大きな特色である。衣食住などへの執着心を捨てるため、行方定めず念仏を唱えながら、ただひたすら歩く。これは平安中期以降、ようやく活発になってきた聖−ヒジリたちの行動する形でもあった。天台宗や真言宗などの大教団に属し、生活も保証される僧侶たちは遊行などはしない。寺に住み、また招かれて貴族たちに尽くすばかりである。ヒジリたちはそれにあきたらず、教団を離れ、民衆の社会に入っていった。ヒジリの中には、複雑で深遠な教義を知っている者もいれば、そうでない者もいる。ただ一つ言えるのは、民衆の社会では高邁な教義や習得に手間のかかる儀礼は空しい、ということである。毎日の生活に追いまくられる民衆が求めるのは、易しく、しかもありがた味のある救いの教えである。

 こうして、しだいに人気が出たヒジリは、「阿弥陀聖(あみだのひじり)」と「法華の持経者(じきょうしゃ)」である。前者は念仏をひたすら唱えて歩き回り、後者は『法華経』を一心に読み、唱えるのである。中には一宿聖(いっしゅくひじり)などという者もいた。一ヵ所には一晩しか泊まらないのである。住所を定めずに歩き回ることから言えば、一遍の行動によく似ている。

 遊行とは、「遊」という文字があることによって、一見気楽そうな行動に見える。そういえば、「漂泊」も似たような印象がある。会社や家庭のしがらみに悩み、いらだつ現代の私たちから見れば、つい引き込まれそうな魅力を持っている。しかし−一歩遊行に出れば、当時の社会では、明日からの食事の保証はない。屋根の下で眠ることも期待できない。夏の日照り、冬の雪の下でも歩かねばならない。これはまさに身を苦しめる苦行である。逆説的に言えば、苦しんでいる実感こそ、一遍にとって必要なのであった。一足歩くことが、一足ごとにまた湧き出てくる執着心・欲望・煩悩といったものを消していくのである。苦しまねばそれは消えないのである。

 孤独の四年間の遊行ののち、弘安元年(一二七八)、蒙古警備のために北九州にいた大友兵庫頭頼泰〔1222〜1300.79歳〕の屋敷で、他阿弥陀仏真教〔1237〜1319.83歳〕が入門した。一遍の最初の弟子で、同時に一遍没後の時衆を率いた有能な組織者でもある。真教は以後、一遍没までの十二年間の遊行を共にした。没後さらに十五年間、計二十五年にわたって遊行を続けた。しかも、一遍より二歳年上であった。

 こののち、厳島から山陽・京・中部・北関東・奥州、下って関東・鎌倉へと歩を進めた。四年の歳月が経っていた。遊行を共にする弟子−時衆はしだいに増え、男女合わせて数十人にも達した。『一遍聖絵』や『遊行上人縁起絵』を見れば、何と女性(尼)の時衆が半数にも達している。

 時衆は、一遍と苦行を共にする者達である。一人や二人でなく、数十人にも達するとは、いったいどういうことであろう。彼等・彼女等の前身はさまざまである。僧侶もあれば俗人もあり、武士もあれば商人もある。それがすべての生活を振り捨てて、遊行の旅に身を投じる。しかも女性たちもである。家を捨て、家族を捨てるのである。これはもう一遍に強烈な魅力があったというほかはない。

 一遍の容貌は、『一遍聖絵』『遊行上人縁起絵』あるいは今日に残る一遍像・同画像によれば、かなり明確である。群を抜いて大きい背の高さ・やや猫背ながらがっちりしたむだ肉のない体格、鋭く大きい目・意志の強さを表すしっかりした顔、脳天の後半部が盛り上った頭−異形である。これは何かあるぞと、一遍の前に出た者は思ったに違いない。そして恐らく、一遍の念仏の声は、聞きようによっては悩いの心を断つように強く自信にあふれ、聞きようによっては甘く性的な魅力に満ちていたのであろう。

 念仏がうっとりするほどすばらしい極楽浄土を求めるものである以上、唱える声は心をとろかす魅力がなけれぱなるまい。女性たちは一遍の容貌と声に引き付けられた。男たちもまた同様であった。一面では厳しく、一面では甘く、しかも一遍は他人に媚びているわけではない。自分自身の苦しみを踏みしめ、踏み越えて、ひたすら歩く。これがまた人びとを引き付け、思わずついていってしまうことになるのであろう。一遍はまさに異形のカリスマであった。

 この間の弘安二年(一二七九)に、信濃国のある武士の家の庭で、一遍たちは踊り念仏を始めた。念仏を合唱しているうちに、しだいに体が熱くなり、興奮とも喜びともつかないものに突き動かされ、手を振り足を上げて跳ね回り始めたのである。夢我夢中で一瞬の今を燃焼させる時衆の姿は、性的な解放感にも満ち溢れ、見る者の心をつかまずにはおかなかった。以後、一遍たちは行く先々で踊り念仏を催した。一種のショウとして、売り物となっていったのである。人びとを集団で興奮状態に誘い込むこの踊り念仏の広まりは、やはり当時の社会不安と無関係ではあるまい。武士・農民と商工民の葛藤、日蓮の手紙によく見られるような天災の続出、そして蒙古襲来である。蒙古の恐ろしさは、文永の役で十分に知った。蒙古はその後も何度も使いを寄こし、日本征服をあきらめていないことを態度で示している。その不安から逃れたい気持が、踊り念仏の流行の背景にあると言ったら、言いすぎであろうか。

 その蒙古の第二回の襲来を、台風の力も借りてなんとか防いだ翌年の弘安五年(一二八二)、一遍と時衆は鎌倉の町に入ろうとして北条時宗1251〜84.34歳〕に拒絶された。恩賞を求める武士たちでごった返す鎌倉を、数十名で押し通ろうとする襤褸(ぼろ)の集団に対する治安上の警戒心からである。悪党と呼ばれる、反幕府的な武士の活動も、ようやく盛んになってきた時期でもあった。しかしこの時の一遍の態度が、毅然として実に立派であるということで、鎌倉の町で大きな人気が湧き起こった。幕府のお膝元での人気沸騰は、一遍の布教が公認されたことにもなり、どこへ行っても大歓迎を受けるようになった。熊野本宮証誠殿で布教方法についての確信を得てから八年目に、一遍の念仏の教えは急速に広まり始めたのである。鎌倉から東海道・京都・山陽道へと足を伸ばしつつ、しかし一遍自身の態度は変わらなかった。気を許せばたちまち地獄に落ちる。彼は自分の弱さを知っていた。念仏を唱えつつ、あくまでも身を苦しめるために遊行を続けなければならない。一歩進むごとに浄土はそれだけ近くなる。浄土は十万億土の彼方にあるのではなく。自分の現在立つこの場所にある。けれど歩かなければ近づくことはできない。

 京都では、一遍が先達と仰ぐ平安時代の阿弥陀聖である空也903〜72.70歳〕の遺跡を訪ね、播磨国では同じく尊敬する教信?〜866〕ゆかりの教信寺、性空910〜107.98歳〕ゆかりの書写山円教寺に参詣している。

 弘安十年(一二八七)、一遍は十二光箱を作った。これは遊行生活に最低限必要な持物十二種類をそれぞれ納める箱である。昼間歩き回る時は背中に、夜に寝る時は時衆の僧と尼の間に置いて、両者を隔てた。いくら一遍を慕ったとしても、一遍自身とは違う時衆の態度が乱れることがあったようである。十二光箱は彼らに対する戒めでもあった。

 山陽からまた四国ヘ、そして阿波国へと遊行してきた正応二年(一二八九)、一遍の体力はついに尽きてきた。播磨国兵庫の観音島に移った同年八月二日、「自分から発心して救われようとしなければ、三世諸仏の広大な慈悲をもってしても衆生を救いきる事はできないのだ。まず踏み出せ」と遺言している(『遺誠』)。同十日、持っていた経典を書写山の僧に渡し、残りのすべての書籍を焼き払ってしまった。「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(『一遍聖絵』第十一巻)と、意味深い言葉を述べながら……。一遍の信仰は彼自身で終わりなのである。時衆は、一遍に執着してはならぬ。

 こうして同八月二十三日、一遍は静かに息を引き取った。五十一歳であった。今日、この一遍入滅の地には真光寺が建っている。

 一遍のあと、他阿弥陀仏真教が残された時衆をまとめて遊行活動を続けるようになった。これがのちに時宗と呼ばれる教団となっていく。

 一遍の思想を知るには前述の一遍伝の他に『播州法語集』や『一遍上人語録』がある。自筆の書物などは伝えられていない。





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