更新11.11/23 up10.9/11


稲田利徳 「乱世知識人の観照」
(『日本文学新史〈中世〉』.至文堂.平成2年.p275以下)







稲田利徳氏の略歴
岡山大学教授 (後日補充します。)



稲田利徳氏の見解 私の立場からの補足


乱世知識人の観照
 ─『徒然草』と室町期の紀行

はじめに

 中世は乱世の時代といわれる。乱世を規定するものには、外的には闘争、戦乱の頻発、内的には、人間の精神面の荒廃があげられよう。中世の人々の心が荒廃していたかどうかは、単純に論定できないが、戦乱が頻(しき)りに勃発したことは確かである。

 荘園制度に支えられた、有閑貴族階級が支配した平安時代と、徳川家の強固な幕藩体制によって、約二百五十年もの長期間にわたり、穏和な世が持続した江戸時代とにはさまれた鎌倉・室町時代、いわゆる中世には、源平合戦に始まり、承久の変、元弘の乱、観応の擾乱、応仁の大乱を経て戦国時代に到るまで、枚挙にいとまがないほどの、小規模、大規模の戦乱が勃発している。

承久の変(1221)
元弘の乱(1331)
観応の擾乱(1350〜1352)
応仁の乱(1467〜1477)

 激しい闘争のなかで、万物が儚(はかな)く崩壊してゆくさまを眼前に見た中世の民衆たちは、現世に絶望感をもち、新仏教に帰依して来世に望みをつないだり、刹那的、享楽的な生活に憂き身を埋没させることも多かった。このような乱世に直面した当時の知識人たちは、その世相をどんな感慨をもって凝視し、その思念を、どのように文学に形象化しているであろうか。『徒然草』の著者兼好と、南北朝・室町時代に紀行文を残した作者などに焦点を絞り、その一端を素描してみたい。


言うまでもないことであるが、「中世の民衆たち」の多くは、「現世に絶望感をもち、新仏教に帰依して来世に望みをつないだり、刹那的、享楽的な生活に憂き身を埋没させる」といった両極端の方向に流れたのではなく、別に絶望感など抱くことなくリアルに「現世」を認識し、「刹那的・享楽的」でもない生活を送っていたのである。「乱世」と言っても、それが続けば、「乱世」自体がひとつの秩序、生活の枠組みなのであり、大抵の人はそれに馴れて、淡々と生活を送っていたのである。
一 兼好の生涯の輪郭と『徒然草』の成立

 『徒然草』の作者兼好の生年は不明である。かつては、観応元年(1350)、六十八歳没を記録した『諸寺過去帳』に依拠した、弘安六年(1283)誕生説が行なわれていたが、その後、観応元年以降の生存を示す資料が相次いで提示され、この説は信憑性を失った。けれども、兼好の諸活動を勘案すると、生誕を弘安六年前後とみても、格別支障をきたすことがないので、この年を一応の目安にしてよかろう。

 兼好の家系はト部(うらべ)氏である。祖父の兼名(かねな)がト部家の本流から分かれて以来、庶流(分家)に属しているが、兼好は、その兼名の子息治部少輔兼顕(じぶのしようかねあき)の子である。兄弟には民部大輔兼雄や天台宗の碩学であった慈遍(じへん)などがいて、まさしく、知的な家庭環境の中で成長した、知識人であった。

慈遍(生没年不詳)「 鎌倉・南北朝時代の僧。神道家。吉田兼顕の 子で兼好の兄とも弟ともいわれ、また伊勢神官の子ともいわれる。出自と同様に経歴も不明な点が多い。比叡山で天台を学ぶ一方、天台神道・伊勢神道を取り入れて神道の教義を整え深めたといわれる。後醍醐天皇は仏法・ 神道を慈遍に問い、のちに大僧正になったといわれる。著作に『豊葦原神風和記」三巻、 『旧事紀玄義』十巻がある。」(『鎌倉・室町人名事典』荒川正憲氏)
堀川具守(1249〜1316.58歳)は『増鏡』にしばしば登場するが、その一例はこちら(巻12.浦千鳥.後二条天皇崩御の場面)。また具守は『徒然草』第107段に登場する。
 兼好の出自や家庭環境では、母や兄弟の兼雄をめぐる諸問題が論争されている。(林瑞栄『兼好発掘』。鎌田元雄「兼好の周辺」。網野善彦「倉栖氏と兼好」など)。けれども現在、最も蓋然性の高い説とされているのは、兼好が、久我家の分かれである堀川家の具守(とももり)の家司(けいし)であり、その関係で六位蔵人として後二条帝に出仕、やがて左兵衛佐に任ぜられたであろうとする見解である(風巻景次郎「家司兼好の社会圏(一)〜(二))。兼好が堀川家の家司であったとすれば、その波紋は小さくない。

 家司は、公家社会にあって、ブレーン・トラスト的な存在であり、学問をはじめ、有職故実、芸事など万般に通暁した能力を要求される。『徒然草』にみえる、あの多方面にわたる豊富な記事や知識への異常な関心は、この家司としての兼好と緊密に結び合ったところに生じたものとみなされ、『徒然草』を読みとく重要な鍵となろう。

風巻景次郎氏の「家司兼好の社会圏」はこちら
 その左兵衛佐の家司兼好が出家遁世を遂げた時期や原因に関しては、従来、後宇多院の死に殉じたなどをはじめ、種々な臆測もなされてきたが、『大徳寺文書』の、正和二年(1313)の「龍翔寺領山城国山科小野庄券文」の署名に、すでに、「兼好御房」とみえることで、年時的にも成りたたなくなった。


後宇多院(1267〜1324.58歳)についてはこちら。(水戸部正男氏『歴代天皇紀』)
 『兼好自撰家集』収録の、

  世をそむかんと思ひ立ちし頃、秋の夕暮に、
そむきてはいかなる方に眺めまし秋のゆふべも憂き世にぞ憂き

  世の中思ひあくがるる頃、山里に稲刈るを見て
世の中の秋田刈るまでなりぬれば露もわが身もおきどころなし

などの和歌は、出家直前の不安に動揺する心情を吐露したものだが、この詠嘆の調べには、突発的な事件で衝撃を受け、一気に出家した気配はなく、むしろ、幾年にもわたる、個人的、社会的な苦悩や障害に遭遇し、しだいに厭世観を鬱積させていった、その果ての遁世のように思える。

 遁世後は、修学院や横川などに籠居して、念仏修業に励んだ時期もあったようだが、やがて関東に下向した時期をはさみ、二条為世(ためよ)門の和歌四天王として歌壇で活躍し、『続千載集』以下の勅撰集歌人となっている。現存する彼の和歌は、『兼好自撰家集』のほか、勅撰集、私撰集などに散在するのを集成して、三三○余首ある。

二条為世(1250〜1338.89歳)は阿仏尼と壮絶な相続争いをした二条為氏(1222〜1286.65歳)の嫡男。定家(1262〜1241.80歳)の曾孫にあたる。『増鏡』においては、為世に対する極めて辛辣な批評が随所で書かれており、「二条為世門の和歌四天王」の一人である兼好が読めば、非常に不愉快だったはずである。

足利直義(1306〜1352.47歳)
三宝院賢俊(1299〜1357.59歳)についてはこちら
高師直(?〜1351)
洞院公賢(1291〜1360.70歳)を『増鏡』の著者とする説もある。その一例はこちら(今谷明氏「『増鏡』の著者論」)。
 六十歳代の足跡をたどると、康永三年(1344)十月、足利直義(あしかがただよし)勧進の、高野山金剛三昧院の奉納短冊歌を提出、貞和二年(1346)には、三宝院賢俊僧正に随行して伊勢に下向(『賢俊僧正日記』)、また、貞和二年と貞和四年には、高師直(こうのもろなお)の使者として、洞院公賢(とういんのきんかた)を訪問している(『園太暦(えんたいりゃく)』)。いずれも室町幕府の権門とかかわりをもつ人物と接触しており、兼好の晩年に触れる時、看過できない事実を提供している。

 観応元年以降も生存していたことを証明する資料として、『玄恵(げんえ)法印追善詩歌』『為世十三回忌和歌』『続古今集』の書写奥書などがあるが、現在、兼好の生存を確認しうる最後の資料は『後普光園院(ごふこうおんいん)殿御百首』で、この百首に対し、観応三年(1352)八月、頓阿・慶運らとともに合点を付している。仮りに弘安六年生誕とすると、この年はちょうど七十歳にあたる。そして、観応三年以後の数年間のうちに、七十歳前後の年齢で、京都以外の地で死去したと推測されている(安良岡康作『新訂徒然草』)。

玄慧(恵)(?〜1350)「南北朝・室町時代の学僧・儒者。京都の生まれ。一説に虎関師錬の弟といわれる。はじめ比叡山で天台を学んだが、下山して京都北小路に住して独清軒、または健叟と号した。博学をもって知られ日野資朝らと親交をもち、宋学の祖ともいわれるが、はっきりしない。程子・朱子学をもって後醍醐天皇の侍読となったが、その講座はしばしば鎌倉幕府打倒の密議の場となったともいわれる。建武政権の崩壊後は足利尊氏・直義の信任を得て、是円・真慧らとともに『建武式目』を撰定した。『庭訓往来』『喫茶往来』は玄慧の撰といわれるが確かではない。著作としては『詩人玉屑点本』『胡会詠史詩抄』が伝来している。観応元・正平五年(一三五〇)三月二日寂す。(『鎌倉・室町人名事典』荒川正憲氏)
頓阿(1289〜1372.84歳)についてはこちら
慶運は生没年未詳。「ただし永仁年間1293〜1298に生まれ、応安二1369年七〇余歳までの活躍が確かめられる。」(桜楓社『和歌文学事典』)
 一方、『徒然草』の成立で問題になっているのは、その成立時期と配列である。近年まで有力視されていたのは、橘純一氏の元徳二年(1330)十一月以後、翌元弘元年九月以前の執筆によるとの見解であった(橘純一『日本古典全書・徒然草』)。この成立説によると、執筆期間は約一年ほど、元弘の乱勃発の直前に擱筆していることになる。

 その後、この成立年時に対して、思想や文体の変化、および内部徴証から疑義が提出され、執筆期間をもっと長く考える説が相次いで論定されている。例えば、文保三年(1319)までに第一部(第三二段まで)を執筆し、その草稿を手元に保存、元徳二年(1330)から翌年の元弘元年の間に第二部(第三三段以下)を執筆、その後まもなく、多少の補入・補訂を加えて全体が成立したとする説(安良岡康作『徒然草全注釈下巻』)、第二四段以前を在俗時の執筆、第二四段と第二五段との間に、十年前後の中絶期間を置き、最終の仕上げを元徳二年十一月以降、その翌年の元弘元年の秋までに執筆、編集されたとする説(木藤才蔵『新潮日本古典集成・徒然草』)。

 これらは、先の橘説と大きく対立するものではなく、執筆開始を繰り上げて、執筆期間を長く考えた修正説で元弘の乱以前の擱筆という基本線は変っていないように思う。

 これに対し、序段から第二四段までは出家以前に成立、その後、最終的には貞和五年(1349)頃に編集しおえたとする、大胆な説も提出されている(宮内三二郎『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』)。これによると、執筆期間は約三十余年の長期間にわたることになり、元弘の乱を体験した後も執筆を持続していたことになる。また、近年、元弘の乱後の執筆を前提にした『徒然草』論も刊行されている(永積安明『徒然草を読む』)。






宮内三二郎氏は『増鏡』の作者を兼好とするなど、独特の考え方をもつ人で、国文学会にとっては異端的な存在であるが、その遺著『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』は、この三つの書物の関係を徹底的に考え抜いたものとして貴重な業績である。
 もともと橘説は、『徒然草』の執筆期間ではなく、最終的な編纂時期と考えるべき性格のものであった。『徒然草』のような、随筆という作品形態、あるいは、あのような多方面の話題や知識を含みこんだものが、わずか一年たらずの期間で、一気呵成に執筆されたとみること自体に、不自然さがあるばかりでなく、内部徴証に加え、思想や文体の著しい変化を勘案すれば、素稿執筆時間から編纂作業の完了までには、かなり長い期間があったろうことは、ほぼ認められてよい段階に到達しているとみてよかろう。その間、『兼好自撰家集』の草稿本にみられるような、表現の推敲もなされたと思われる。

 ただ、本稿にとっては肝心な、擱筆時期が元弘の乱の前か後かは、種々な疑問点もあり、決着がついていない。けれども元弘の乱の体験の有無はともかく、作者兼好が、鎌倉・南北朝期という乱世を生きてきたことは確かであり、このことは念頭において味読すべきであろう。


二 時間意識からみた『徒然草』 ─編纂と美意識─

 『徒然草』が作品形態として、『枕草子』を先縦文学として意識していたことは確かである。けれども、『枕草子』が、自身の体験的な話題を相当かかえこんでいるのに対し、『徒然草』にはその類が少なく、逆に『枕草子』に類例の少ない説話的、有職故実的、道念を中心とした思想的な章段を含み、遙かに多彩である。『徒然草』は、この点でも、古典文学史のなかで独特の文学創造に成功した作品といえよう。

 この、文学史上に特異な光芒をはなつ『徒然草』の特質把握には、さまざまな視点からの究明が行なわれるべきだが、ここでは、時間意識から照明をあててみたい。『徒然草』の思想や美的理念を、根底で支えているのは、作者の鋭敏な時間意識であると思う。それは単に、無常といった狭義のものではなく、もっと宇宙全体を統(す)べている摂理としての時間認識といってよいものである。

 その時間意識は、作品の編纂態度に明確に窺える。兼好は執筆態度と対象を、「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつけ」(序段)たとするが、「うつりゆく」とは、「映りゆく」と同時に、時間的にも「移り行く」ことである。「虚空(こくう)よく物を容(い)る。我等がこころに念々のほしきままに来りうかぶも、心といふもののなきにやあらん」(第二三五段)とは、心という空間に、時々刻々と浮んでは移り行く事柄、それが執筆対象であるとの明示でもある。作者は、万物が去来して行く心の不思議さを顕現するために、編纂に際して、章段配列に意を用いている。

 流布本(烏丸本)と著しく章段配列の相違する常縁本などの出現などもあって、流布本のような配列が作者自身の手になるものがどうか疑問視するむきもあるが、逐段執筆か否かはおくとして、あの微妙な連想の糸による配列のすべてが、作者以外の人の手によって行なわれたとは考え難く、大筋において作者が関与していたとみてよかろう。

 その際、内容分類による類纂形式を採用せず、雑纂形式をとったのは、「『物を必ず一具(いちぐ)に調へんとするは、つたなきもののする事なり。不具なるこそよけれ』。(中略)『すべて、何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり』」(第八二段)といった、未完成や余情を尊重する作者の意図的な試みであったことは確かだが、それと同時に、時々刻々と移り行く想念の具象化をも企図していたのではなかろうか。


私も「あの微妙な連想の糸による配列のすべてが、作者以外の人の手によって行なわれたとは考え難」いと思う。この点は杉本秀太郎氏の『徒然草』(岩波書店)に基づき、別途検討したい。
 この編纂態度を、作者自身の声として聞き得るのは、『兼好自撰家集』においてである。その自筆本の扉にある編纂メモ「家集事」には、

部立事、全不可有之雖有分部人不然尤甘心者也
巻頭事、無部立之上者可任意恋雑等又秋冬勿論也

と、雑纂形式を採用することを意志表示している。当初、冒頭歌にしていた、逢坂の桜花の歌を排斥し、敢えて、

 春も暮れ夏も過ぎぬるいつはりの憂きは身にしむ秋の初風

という、春から夏、そして秋への時間の推移を述べた恋歌を配置しようとしたのも、単純な四季の経過とは違った、複雑な時間を念頭にしての編纂態度であったことを示唆しているように思える。

 さて、ここで、『徒然草』の配列の具体相を一例をもって分析してみよう。
 「風も吹きあへずうつろふ人の心の花に」(第二六段)と、人との別離の悲哀を綴った次には、「御国ゆづりの節会」に視点を移し、「今の世のこと繁きにまぎれて、院にまゐる人もなきぞさびしげなる。かかる折にぞ、人の心もあらはれぬべき」(第二七段)と、離反してゆく人間の薄情な心を凝視し、次には、「諒闇(りょうあん)の年ばかり、哀なる事はあらじ」(第二八段)と、喪に服した時の寂しい雰囲気を叙し、そこから、故人の手習いや反古を見て追憶する悲しさを綴り(第二九段)、さらに、「人の亡(な)きあとばかり悲しきはなし」(第三○段)と、故人が人々の脳裡から忘却され、やがて「古き墳(つか)はすかれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき」と詠嘆、次に「雪のおもしろう降りたりし朝」(第三一段)にあった、亡き人との回想を記してゆく。

 恋人との別離→新院のもとから離れてゆく人→天皇の父母の死→故人への思慕→消滅する人間存在→亡き人の思い出、といったように、時間の移ろいのなかでの万物の変貌の相を悲哀の感情を核として、しみじみと連想の糸で結びながら叙述している。

 これはほんの一例にすぎない。所々に断絶する章段間もあるが、多くは、主題・題材・表現など、なんらかの連想をもって各段が配列されている。いみじくも、加藤周一氏は、「『徒然草』とは、散文化された連歌である」(加藤周一『日本文学史序説上』)と評したが、まさしく、作者の想念の流れを、時間観念に支えながら配列したものであり、この作品の独創性や魅力の重要なモメントとなっている。

(以下略)



加藤周一氏の見解はこちら






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