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井上禅定 『駆込寺 東慶寺史』(後半)
(春秋社.1980年.p36以下)
※前半はこちら。
7 霜月騒動 弘安八年(一二八五)十一月十七日、貞時〔1271〜1311.41歳〕は安達泰盛〔1231〜85.55歳〕、宗景父子を攻めてこれを殺し、また一族金沢顕時〔1248〜1301.54歳〕を上総に流した。これを霜月騒動という。 貞時の母は前述のように、安達家の出であり、幼少で父が死に、兄泰盛の養女となったから、泰盛は貞時には伯父であり、表向きには外祖父にあたる。北条氏の治下にあって三浦泰村一家滅亡以後は、時頼の外祖父安達景盛一家が最も勢力があった。堀内殿が時宗夫人となり、泰盛は時宗の義兄であり、舅であり、貞時には外祖父であり、幕府の中心人物として権勢並ぶものがなかった。これを見て得宗の家令長崎頼綱〔?〜1293〕が陰謀をもって、貞時の幼少にまぎれて、安達氏を滅ぼし、内管領(ないかんれい)として勢力をふるうこととなる。 金沢顕時は、母が泰盛の女であるという縁で配流となる。当寺蔵の『覚山尼系図』によると、この騒動で兄時盛〔1241〜85.45歳〕の子時長は自害、兄顕盛〔1245〜80.36歳〕の子宗顕〔1265〜85.21歳〕は二十一歳で誅され、その子の時顕〔?〜1333〕はまだ幼少ゆえ助かり、後に秋田城介を継ぎ、元弘三年五月、鎌倉陥落の時自害しているから、からくも残る人もあったが、安達一族大半滅亡というこの「霜月騒動」は、覚山尼にとっては一大傷心事であった。 この後、永仁元年(一二九三)四月、貞時は長崎頼綱およびその次子助宗〔1267〜93.27歳〕を攻め殺し、長子宗綱を佐渡に流した。霜月騒動の時、貞時は十五歳であったから長崎の陰謀にまきこまれて、伯父であり、母の兄であり、また貞時の妻は、母覚山尼の兄大室三郎景村の子泰宗の女であるから、妻の里方でもある安達家を亡ぼしてしまったが、長ずるにおよび、泰盛討伐の張本長崎頼綱父子に専横の振舞多く、主家を危くするというので、殺すことになる。この時、貞時は二十三歳の分別盛りである。嫡子宗綱は忠義者で弁解したので、宇都宮入道景綱〔1235〜98.64歳〕に預けられ、後に佐渡に流されたというが、この景綱の夫人は覚山尼の妹である。 霜月騒動の後、金沢顕時は称名寺の開山に「無常の理(ことわ)り心腑に銘じた。この十余年、薄氷を踏む思」いとしたためている。つらい思いは推察できる。
8 華厳写経 無学〔1226〜86.61歳〕より覚山尼へ付衣の偈に「前三々後三々」という一句があるが、これは碧岩録三十五則に、五台山で文殊が無著に答える句である。五台山には大華厳寺や清涼寺があり、華厳と関係が深い。落髪付衣という覚山尼生涯中での最も厳粛な儀式の時、華厳に因縁があり、この翌年一年がかりで亡夫の供養に華厳経を書写する。もっとも彼女の出家は三十三歳であったから、この三々はそれにも因(ちな)んだのかとも考えられる。 華厳経には六十巻の旧経、八十巻の新経、四十巻の普賢行願品もあり、古く東大寺の華厳会願文等によっても弘仁十一年〔1288〕に八十華厳を奉写したともある。覚山尼の書写したのもこれで、七処九会四万五千偈という大経である。 この写経は、師の無学のすすめによったのであろう。無学の円覚語録のはじめに、「我大檀那一弾指間湧出華厳法界」という語がある。時宗〔1251〜84.34歳〕が円覚寺をたてたことを華厳の法界を湧出したといっていることや、円覚寺の本尊が華厳の教主毘廬舎那(ビルシャナ)仏であることも注意される。『仏光録』巻三には「法光寺殿第三年忌、覚山大師自ら華厳大経を書して陞座(しんぞ)を請う」ではじまる珠玉の千余字がつらなる。華厳の法界を縦横に説き、時宗の功業を述べ、覚山の写経を讃めたたえてある。原文は美しい漢文である。その中の時宗を伝える所は有名な文章であり、覚山尼の史料としても最も貴重なものゆえ書下しにして、その一部を紹介する。
と。この前に、法性の当体を説いた雄大荘厳な文章がある。時宗を天下の人傑とも、菩薩ともたたえ、覚山尼を助けの菩薩とほめてある。『仏光録』は日本語録の王ともいわれ、後に無学の法統より五山文学の大家が続出するゆえんでもあるが、この語録中にわが覚山尼の事蹟が、かくも厳そかに懇切に伝えられることはまことにありがたい。 弘安七年〔1284〕初夏に夫に死別し、翌八年〔1285〕秋には里方安達の一族が討死する、しかもわが子貞時による。その悲悼の中で四万五千偈の大経を書写した覚山を無学は「讃すれども尽すなし」と絶讃された。『徒然草』で松下禅尼を「誠にただ人にはあらざりけるとぞ」と伝えるが、覚山尼は松下禅尼以上に、この一事を以てしても、非凡の女性であったことがうかがえる。 9 円覚寺華厳塔 覚山尼謹写のこの華厳経は、どうなったであろうか。 円覚寺に、上杉重能〔?〜1349〕の花押のある鎌倉末期の境内図がある。山門・仏殿・法堂を貫ぬく中心線上の最奥に三重塔がある。今、黄梅院のある所で、『相模風土記稿』の黄梅院の項に、
とある華厳塔がこれにあたる。黄梅院には、義堂周信〔1326〜89.64歳〕が至徳四年(一三八七)に書いた「華厳塔勧縁疏并奉加帳」なる巻物(重要文化財)がある。その文意をくむと、「これは弘安某年に創建された三層塔で華厳塔と号し、開山仏光祖師が仏舎利三粒と袈裟一頂を搭心におさめたと旧記にいう。応安七年〔1374〕の大火に焼けたので再建せんとして募縁する」とある。 この華厳塔こそは、覚山尼が謹写の華厳経を納めた時宗の供養塔ではないのか。義堂の文では弘安某年というが、時宗三回忌は弘安九年〔1286〕に当たる。この文では、そのことがのべられていないが、貞時〔1271〜1311.41歳〕の後室覚海円成は、元亨三年〔1223〕貞時十三年忌供養に建長寺に華厳塔を建てたことは円覚寺蔵の「貞時十三年忌供養記」や建長寺蔵の「建長寺華厳塔供養疏」に明記してある。このことより推測するに、円覚寺の華厳塔は覚山尼が時宗の供養に建立し、無学もこれに随喜して仏舎利や法衣を納めたものであろう。あるいは開山の袈裟というのは、開山が時宗および時宗夫人に授与した法衣(すなわち袈裟)でなかったか。 円覚寺古図で見ると、仏日庵の前に門があって、これより中は仏日庵すなわち時宗の塔所であり、その中に華厳塔があって、いかにも時宗の供養搭にふさわしい。 まして先にものべたように、無学は円覚寺を華厳禅の道場ともいっているくらいで、あるいは円覚創建の最初から中心線上の奥の院に華厳塔を建てる企画であったので、時宗夫人がその志をついで建てて、亡夫の供養塔ともしたものでなかろうか。 その後、北条氏滅び足利氏の天下となり、尊氏〔1305〜58.54歳〕の近臣饗庭氏直は夢窓〔1275〜1351.77歳〕の門弟であったので、ひそかに円覚寺内に国師の塔頭を建てようとして、まず尊氏から円覚寺内の公地割譲を承認してもらって、文和三年(一三五四)ごろ夢窓門派の方外宏遠が黄梅院を造った。これで夢窓門派の関東での根拠の寺が出来上がった。この間のくわしい説明は、玉村竹二氏『夢窓国師』『円覚寺史』について見られたい。今ここで私がいわんとするのは、義堂はなぜ、この華厳塔を時宗の供養塔だといわないかということである。 鎌倉時代には、仏日庵は時宗、後にはも少し拡げて北条得宗家の菩提所であり、円覚寺の公界であった。北条家滅亡の好機に乗じ夢窓門派の工作で、その一部を尊氏の認可で分譲して黄梅院にした。華厳塔は自然、黄梅院の境域内に建っていることになった。 そうなると、足利家からは前代である北条の、しかも本寺たる円覚寺の開基時宗の供養塔であるというのでは、あまりに公的性格を帯びすぎるので、義堂はこの建立の由緒をぼかしてしまったのではないのか。 応安元年〔1368〕に将軍義満〔1358〜1408.51歳〕は父義詮〔1330〜67.38歳〕の分骨を黄梅院に納め、塔主義堂をして不朽の勤行を命じている。ここに至って円覚寺の奥の院、時宗供養の華厳塔の霊地は、足利家の菩提所にとって代られ、黄梅院は円覚寺の他の塔頭を凌いで足利家と密着して、最も盛大をきたす次第である。 華厳塔は応安七年〔1374〕に焼失、世は足利の時代である。これが再建には北条時宗を持ち出すのは都合が悪いから、ぼかして、あのような勧縁文が書かれたのであろう。これが嘉慶二〔1388〕−三年に再建され、応永八年〔1401〕また焼失、同十一年〔1404〕再興、その後、同二十八年〔1421〕に焼失。応永三十年〔1423〕再興の黄梅院絵図では華厳塔はなく、その位置に開山塔が建てられ、完全に夢窓の塔頭となってしまっている。『相模風土記稿』に華厳塔が門外にあったというのは誤りであるが、黄梅院より先にあったということは事実である。 仏日庵は小田原北条の出の鶴隠周音の時から、円覚寺の塔頭列にはいったもので、それまでは公界である。今でも開基廟は円覚寺に直属する。 10 建長寺華厳塔 貞時夫人覚海の建てた建長寺の華厳塔も、三重の美しい塔であったらしい。室町初期の来朝僧竺仙梵仙〔1292〜1348.57歳〕の『天柱集』の中の天源菴記に、
とある。この大浮図(ふと)(塔)がそれである。建長寺蔵の『伝延宝古絵図』にも、「華厳塔址」が、大体、仏殿法堂を貫く中軸線の奥の峰の中腹にあり、これは円覚寺の華厳塔と相対し、建・円相並ぶように建立されたと考えられる。 昭和九年〔1934〕、河村瑞軒(瑞賢)〔1617〜99.83歳〕の墓修理の際、新たに参道を造ったとき、はからずもこの塔心の穴に掘り当たった。石蓋をあけると、径七五糎、深さ一米余の丸井戸形の穴が凝灰岩の地盤中に作られ、この中に経石が埋納されていたという。 これこそ、覚海夫人ら自書のものであったにちがいない。しかしこれは土工の手にかかり、参道のコンクリートと化してしまった。 赤星直忠氏は後でこの話を聞き、かけつけて僅かに残った数箇の経石を拾って所蔵した。十数年後に私は、このことを聞いて、その一箇をゆずり受けて珍蔵している。 瑞軒父子の墓は、もと華厳塔の西、金剛院跡の草深き中にあったものを、今の所に移し、覆屋を設け、銅板に墓碑銘を刻し、参道を新設したのである。江戸初期、匹夫から出て、幕命をうけて東西廻米の航路を開き、淀川を治めるなど海運治水の功労者である瑞軒の顕彰も結構であるが、今その墓のある所こそ華厳塔の跡であることは、知っておいてほしい。 この華厳塔礎から出た写経石については、赤星直忠氏が『鎌倉』誌上に紹介されており、華厳学者鎌田茂雄氏に質したところ、おそらく華厳経であろうとの回答であったが、僅か数個では判然としない。経石をコンクリート的に使用したところ、お盆の精霊送りの馬の茄子や胡瓜を集めて潰物として金もうけをしたと伝えられる瑞軒は、我が意を得たりと墓の下で微笑しているかも知れぬが、貴重な文化財を失ったことは惜しいことだ。 11 覚山尼寄進状 覚山尼は永仁三年(一二九五)閏二月廿十五日付で、仏日庵へ出羽国寒河江(さがえ)庄吉田郷を寄進したことが、「円覚寺文書目録」(市史二ノ六○)でわかる。仏日庵へというのは、言うまでもなく時宗の菩提のためであり、これは十三回忌の翌年にあたる。仏日庵という名が出るのは、この文書が一番古い。惜しいかな、この寄進状は今はない。 嘉元四年(一三○六)には丹波国成松の保を正続庵へ寄進した。この寄進状も散佚したが、「相州文書」にある(市史二ノ三八)。
正続庵は、この当時は建長寺にあった無学祖元〔1226〜86.61歳〕の塔頭である。元亨四年〔1324〕ごろから正続院とよばれ、建武二年〔1335〕に円覚寺の舎利殿の所に移され、開山塔頭として現在、円覚寺派専門道場になっている。 これから約半年後に覚山尼は示寂するが、それに先立って恩師への報恩に寄進したものである。女らしい和字状で、師を思う志が、短い文の中にみちあふれている。仏日庵への寄進状も、おそらくこのような亡夫への仏事を依頼した文であったろう。亡夫と恩師への仏事供養のために覚山尼は寒河江と成松の自分の所領を寄進したのである。 貞時は翌徳治二年〔1307〕に、成松の寺領安堵の書状を出している。
ここに潮音院殿とは覚山尼のことであり、その書状とは前にあげた寄進状である。覚山尼が示寂したので、貞時が、成松の寺領の権利を心配した正続庵主に、証明として出したもので、母の意志をうけついでいる。次に正和五年〔1316〕の覚海夫人のこれに関する書状がある。
正和五年は貞時死後五年目、高時〔1303〜33.31歳〕はこの年七月十日に執権となったので、後家として親権を行なっていた貞時夫人覚海円成の出した安堵状である。故殿とは貞時、御文はこの前にあげた書状をさす。関係文書はなお高時のもの、足利直義〔1306〜52.47歳〕のものなども、円覚寺にある。これに関しては貫達人氏の論文があり、ここにも引用させていただいたが、今はこれで筆をとめる。 覚山尼が亡夫、恩師に追善報恩のために自領を仏日庵や正続院に寄進したこと、子孫がよくその遺志をついで、これを守ったことを見ていただきたい。 12 覚山尼と仏鑑伝法衣 禅宗史の権威、玉村竹二氏から、覚山尼に関係ある珍しい話を教えられた。 円覚開山は、その師仏鑑禅師(無準〈ぶしゅん〉師範)より授与された法衣二着の中、一着は伝法の証拠として那須雲巌寺の開山仏国国師(高峰顕日)〔後嵯峨院皇子.1241〜1316.76歳〕に授け、もう一着は有資格者が現われたら伝衣するつもりでいたが、その人がまだ出ぬうちに示寂を迎えることになり、これを法海禅師無象静照に依托して、その人の出現の時、伝えてくれるようにとたのんだ。無象は宋僧石渓心月の法嗣、来朝の仏源禅師大休正念〔1215〜89.75歳〕と同門である。彼はこれを托されて当惑した。その人選もむずかしい。思いあまってついに、この袈裟を覚山尼に預けたと、その伝記に出ている。 覚山尼はこれを大切に保持していたが、ことの重大さにこれを高峯に預けた。高峯はすでに伝衣されている正嫡であり、この人なら無難であるからそうしたのであろう、と玉村氏はいう。無象や高峯と覚山尼はそんなに親しい間柄であったかと思うと、ありがたく、うれしい話である。 高峯は後に夢窓〔1275〜1351.77歳〕に伝衣する。辻博士の『日本仏教史』によると、この伝法衣は夢窓より春屋〔妙葩.1311〜88.78歳〕に伝わり、その現品、印金の法衣は原邦蔵家の所蔵とある。一方、円覚寺続燈庵所蔵の太平妙準骨器銘によれば、太平が高峯より無準和尚の信衣を親受した的子なりと、夢窓が謹書している。覚山尼が預かった一着が、これであろう。詳細は玉村竹二編『五山文学新集』第六巻にゆずる。 13 覚山尼の示寂と墓塔について 『北条九代記』に「徳治元年十月九日潮音院禅尼逝去」とあり、諸書もこれと同じ。厳密に言うと、この十二月十四日改元であるから嘉元四年〔1306〕である。
寺蔵に五百年忌の誠拙の香語がある。昭和三十年に正当六百五十年忌を厳修した。その時の円覚別峰宗源老師の香偈、
墓は境内裏山の中腹に南面して岩崖を掘りくぼめた中に、ささやかな五輪塔があるが、本来は、仏日庵内にあったと考えられる。 『鹿山略記』(瑞泉寺蔵、享保写本)には、
とあり、『京鎌五山住持籍』とか『鎌倉五山雑記』という古写本にも、この四堂の名が見え、もっと古く義堂〔1326〜89.64歳〕は『空華日工集』の永和四年(一三七八)十月十七日の条に「円覚寺仏日庵は平氏(北条)四世の香火」と記している。 高時の「円覚寺制符条書」(『市史』二ノ七五)に比丘尼并女人の入寺を禁制してあるが、ただし毎月四日・九日・廿六日は除いてある。これは時宗・覚山・貞時の忌日であり、この日は霊屋に参詣のため特に許したのである。『相模風士記稿』によれば、仏日庵は北条家の祠堂、はじめは時宗のみの霊屋を仏日庵と言って、そのほかは今の黄梅院や続燈庵の辺に分処して各霊屋を設けたのを後に仏日に合安したもので、近年続燈の客殿の下から一石櫃を得て仏日に移したとある。この黄梅・続燈は室町に入って造営された塔頭で、黄梅のことは前にのべたが、続燈は康安二年(一三六二)に、大喜法忻が円覚住持となって住房として造営されたもの、彼は駿遠の名門今川家の出身、開基は今川範国〔?〜1384〕である。 覚山尼の塔所は、死後間もなく、仏日庵内に営まれたものであろう。貞時の十三年忌を彼の霊屋無畏堂で行なったときの仏事は、千僧供養で「諷経行道して昭堂内より廊架池汀に及ぶ」とあるから、相当大きな御堂であったと考えられるし、「御墳墓に於て重ねて仏事を修す」とあるから、別に墓もあったことも明らかである。 『鎌倉市史』では、仏日庵公物目録により、本堂・弥勒堂・観音堂(すなわち仏日庵・慈氏殿・無畏堂)の什物が僅少であるから、別殿でなく、仏殿を三区分したものか(社寺篇三七○頁)というが、鎌倉末期の仏日庵は、まだ黄梅・続燈もない、もっとそれらを含めた広い地域であったから、初めは時宗の塔所であったが、次に時宗夫人、次に貞時と漸次、北条得宗家の霊廟や墓塔が造営されたのを、北条滅亡後に足利家や今川家により塔頭が新造されるに至って、それらの霊屋墓塔は仏日時宗廟に合祖され、堂内を三分したものと考えられる。その後、義堂のころには高時のため同光塔もできたものであろう。ここで平氏四世とは時宗・覚山・貞時・高時である。『市史』で時頼〔1227〜63.37歳〕か?とも書いてあるが、時頼は含まぬ。あとでのべるが、享和の訴訟の時、仏日庵周古が幕府へ提出した返答書にも、「覚山和尚の塔所仏日庵に御座候」とあり、仏日庵の廟所には、元禄時代義海の納めた時宗・貞時・高時の木像と位牌があり、「潮音院殿覚山大姉」という時宗夫人としての法名を刻んだ位牌が安牌されている。東慶寺のは「開山覚山大和尚」とある。なお、『鹿山年中行事』によると、一月九日と、十月八日の潮音院殿宿忌、九日の月忌には、円覚僧衆一山総出頭で楞厳咒回向が定例の年中行事であった。一山総出頭の回向をうけるのは、北条歴代の夫人の中で、この人のみである。仏日庵に寺領寄進の功徳にもよるが、越格な人物であったからともいえよう。 14 志道尼提唱、二世龍海尼 付、鏡堂の警策 『湘南葛藤録』という鎌倉禅の公案集がある。その第八十七則に、覚山尼のことが出ている。
同書の八十二則に降誕仏の則があり、次の話(わ)を伝える。
円覚寺の貞時の制符条書(市史二ノ二四)に「四月八日花堂結構事」という一条がある。仏誕生会に花御堂を盛大にすることを禁制したのである。あるいは当時、各寺の花堂美麗を競うたものか、これは尼寺らしい問答で、このような商量がなきにしもあらずであろう。 『松岡過去帳』によると、東慶寺の第二世は龍海雲大和尚とあるが、このほか何もわからぬ。 鏡堂の志道尼に授けた警策 無学祖元〔1226〜86.61歳〕と共に来朝した宋僧鏡堂覚円〔1244〜1306.63歳〕は禅興・浄智・円覚・建長・建仁寺に歴住し、わが覚山尼と同年徳治元年九月六十三歳示寂。その語録(玉村竹二編『五山文学新集』六・所収)の法語の最初に「志道大師求語大方殿」とあるのは覚山尼である。 それによると、志道尼は夙有慧根、標致不凡、女流ながら丈夫の志あり、深く仏道を信じ、静定工夫をつみ、近年円顱方服、志愈々堅固で、一日余に参禅し、公案の看方を問うた。そこで鏡堂は古徳の語を示し、蚊子(ぶんす)鉄牛を咬む如く参究せよ。香林澄遠(きょうりんちょうおん)の「四十年方ニ打成一片」の語や、末山了然尼の「不露頂」の問答を示して、千※万煉すれば八面に敵を受けても大自在へと警策の法譜を書き与えたとある。鏡堂の遺墨は二点のみ、この法語が現存すればと惜しまれる。覚山尼は、無学・鏡堂・無象・高峯等の高僧に師事して自らを錬磨した教養高き禅尼であった。 ※火へんに「段」 (以下略) |
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