更新14.10/14 up12.7/4

| 石井順子氏の略歴(※) |
| 御茶水女子大学卒 (現姓野田) ※『日本文学研究資料叢書 歴史物語U』p317より |
| ※『日本文学研究資料叢書 歴史物語U』(有精堂.昭和48年p256以下)から引用しました。 ※原文の傍点部分を太字に換えました。 |
一 従来の増鏡に対する解釈を整理すると、大別して二つの見方に要約される。一は大覚寺統の公卿の立場から公武間の衝突の歴史を描こうとしたとみるものであり、一は、宮中のやわらかな面を主として記した生活史にすぎないと云うのである。この二つの見方は、共に大まかな割切った解釈であるが、このような一見全く相反する見方がなされて来た事実は、増鏡の性格の複雑さを物語っているのではないかと思われる。 前説に於いて、大覚寺統の公卿の立場に基いたものとの項については、既に多くの反証によって、増鏡の作者が大覚寺持明院両統の天皇に同じ敬愛の情を持っていることが明らかになっているのでここでは触れないが、公武衝突史との見方について考えてみよう。増鏡に於いて、承久の乱元弘の乱と云う朝廷対幕府の二つの争いに関する記事は、比較的詳しく全巻の中でも大きな位置を占めている。又公卿の立場からの、幕府に対する不満反感を匂わせる言葉が所々に散見されることも事実である。頼朝が将軍となるや、「日本国の衰ふる始め」と嘆き、朝政への幕府の容喙を悲しんでは、「大方いとあさましうなりはてたる世」と憤っている。しかしこのような態度は、決して全巻を通じて不変のものとは云えない。善政を施けば執権をも「いとめでたき者」と讃め、皇子が将軍に任ぜられれば、「まことにおはやけとなりたまはずば、これよりまさること何ごとかあらん」と御運を称え、「関の東をみやこの外とておとしむべくもあらざりけり」と関東を弁護するなど、必らずしも反武家に終始してはいないのである。更にそれは、鎌倉幕府滅亡の折の記事によく現われている。
ここには、公家として敵手たる武家の総元締が亡びたことへの感慨などは一かけらも示されてはいないのである。又、増鏡が後鳥羽天皇から筆を起していることも、承久の乱を書く為と解釈しなくとも、その序にことわってある通り「いや世継」の後を受けて書いたとみる方が自然であろう。このように見て来ると、従来のこの考え方では、余りに全てを承久の乱に結びつけ過ぎているようである。巻一おどろの下の巻名は、後鳥羽院の御製「おく山のおどろの下をふみ分けて道ある世ぞと人に知らせん」に基いたものであるが、この歌は幕府の専横を憎み給う院の御心情の吐露であり、増鏡の精神を象徴するものとして巻頭を飾っていると考えられて来た。諸注釈書も全てこの意に解釈しているのであるが、この歌は承久の乱より十年前に当る承元二年三月、住吉歌合に於いて、「寄山雑」の題で詠み給うたものであり、単に帝王としての御心を山に寄せて洩らされたのではないかと考えられるのである。巻一はその殆んどが後鳥羽院の風流韻事についての記事であり、この歌が院の御聖徳を称えたあと、「なかにも敷島の道なん秀れさせ給ひける。」としてその例にあげられていることを思うと、おどろの下の巻名も院の風流な御生活ぶりを記した巻の名として相応しいと考えられるのである。 次に、宮中の生活史とみる立場について考えてみよう。増鏡の記事の中、二つの戦乱に関する記事の外に、行幸御幸・詩歌管絃・仏事などの記事が比較的大きな位置を占めている。これらは、歴史の流れの上からは余り価値のないような雑事であるが、増鏡に於いては、巻一の定家と慈円の歌の贈答・巻九の後深草院と前斎宮の秘事・巻十の北山准后九十賀など、その巻の主要な記事となっている所が少くないのである。このような事から、増鏡は宮中の生活史であると云われるようになるのであるが、これも前説と同じように増鏡の全てにあてはまるとは云えない。なるほど増鏡には御遊の記事などが多いけれども、宮中生活に大きな位置を占める年中行事に関しては殆んどこれに触れていないのである。しかも、戦乱の記録に多くの紙数を割いている外、摂関や将軍の更迭などの国事や、僅かながら外交や政変などについての記事もみられるのである。 このように、増鏡に対する二つの見方は、それぞれに於いて一応尤もでありながらどこかに欠陥がある。ただここで、増鏡が朝廷を中心としたものであり、公家の立場にあると云う事だけは一致して正しいと認められる。増鏡の作者は、身分の高い公卿であろうと云われて居り、それが序に示されているように大鏡今鏡の系列をふんでいるのであるから、それは当然とも云えよう。 結局、記事の内容から増鏡を見るならば、政争から個人の私生活に至るまでの多岐にわたって居り、公事や関東の事情などについても一切顧みないわけではなく、時をえらび折に従ってそれらを扱いながら、一五○年間の事跡を書き流していると云えよう。特に目立つ記事に戦乱の記録があっても、御遊や後宮の軋轢、高貴の人の秘事を綴ったものがあっても、それは増鏡の全てではないのである。増鏡の両端に位する戦乱の記事は確かに大きなものである。この二つの戦乱にはさまれた時代は、一応平和な昨代であるから、その間の記事は勢い宮中生活のやわらかな面に限定されてしまうのは当然と云えよう。しかしこの間の記録の中にも、時折政治上の事件やそれに対する考え方などが示される事もある。その反面、正史ならば当然取り上げるべき、そして関東の歴史たる吾妻鏡でさえも記している改元や、即位などの記録は、やや気まぐれに見える程軽く扱われて居り、他の記事と同様に雑然と書かれているのである。あらゆる種類の事がいろいろな見方で記されている為に、増鏡はその中に一つの主題を求めようとする人に対して、全く異った回答を与えることができるのであろう。雑多な記事を持つ雑史であるだけに、増鏡はどのようにでも解釈できるのである。そしてそのような雑史でありながら、読む者にそれ程不統一な感を抱かせないところに増鏡の本質を解く鍵がひそんでいるのではないかと考えられる。 二 以上述べて来たように、増鏡が朝廷を中心とした雑史であるとすると、その特色は当然全体のまとめ方にあると考えられる。増鏡がある一つの事柄を書く事を目的としたものでない事は前節で述べた通りであるが、今増鏡の記事を全体の構成の面からみると、大きな起伏があることが分る。御遊、入内、賀などに関して特に目立つ記事がある事は、増鏡が終始同じように平坦に書かれたのではないことを示している。その中の或るものは作り物語を思わせるような優雅な筆使いで書かれたものであり、又或るものはそれとは趣きを異にした長い記録風な記事であったりする。巻一の定家と慈円の長歌贈答、巻六の公子入内、巻八の後嵯峨院舞御覧、巻九の後深草院と前斎宮の秘事、巻十の北山准后九十賀など、いずれもその巻に於いて相当多くの紙数を占めている記事であるが、全体の構成からみると、一つの事件についての叙述と云う意識が強く、歴史の流れの一コマとして書くと云う意識は全く失なわれて居り、全十七巻の流れの中で座礁してしまったような不安な感を抱かせのである。このような大きな記事にはさまれている多数の小さな記事も、それぞれに分けて考えることができ、一連のものとして分類するのが困難な記事は始んどみられないと云ってよいのである。即ち増鏡は、極端に云えば大小あらゆる種類の記事の集合体とも云うべき性貫を持っているものであって、この事実は増鏡が多くの資料をもととして組立てられていった事を暗示していると考えられる。これら記事群は、和田英松博士の「増鏡の研究」以下で説かれているように五代帝王物語・弁内侍日記・とはずがたりを始めとする多くの資料を原典として巧みに形成されているのである。ここで今、個々の支献と増鏡の関係について一々述べる事はできないが、それらを組合せて行く過程と方法の一端を明らかにすることによって、増鏡全体の構成をうかがいその本質を追求しようと思う。 先ず、個々の記事の配列に当って、増鏡が歴史としてその正確さを期し史実を忠実に伝えると云う意欲に乏しいことが問題となる。意欲に乏しいと云うよりそのような事には無関心であると云った方がよいかもしれない。行幸や御遊の行なわれた日時などについてみても、現存の諸記録と比較して全く誤まっていたりする事が多い。今、行幸関係の記事の多い巻五を例にとってみると、次の通りである。
ここで各記事の、増鏡での位置と実際の年代順とを比べてみると、余りにも記事の年代を無視していることに驚く。後嵯峨院宇治御幸に続く日時の明記されていない記事は、お互の位置に誤りがあるけれども、一応宇治御幸に近いある時期のこととして解釈することができる。しかし、「またそのころ」で始まる院住吉御幸は、その後の後深草天皇御元服の記事が、「明くる年は建長五年なり」として書かれているのをみると、それが実は建長五年の出来事である事を全く無視していることになってしまう。更に、朝覲行幸と院熊野御幸は共に実は建長二年であるのに、天皇御元服の記事の後にただ付けられているのでは、これは反対に建長五年より後の「神無月の十日ころ」であり、「そのころほひ」であると読まれることになるのである。巻十にはもっと甚だしい例がある。「かくて弘安元年になぬ」として先ず十月の二条内裏焼亡の事を載せ、その後に「やよひの末つ方」とか、「そのころ」とか前置きして亀山院後深草院の御遊びの記事がある。その先が、「かくて年月変りぬ」「あくる年」「弘安四年になりぬ」と年を追うて記しているような体裁で続いているのを見ると、先の「やよひの末つ方」も「そのころ」も全て弘安元年の出来事のように受けとられてしまう。実際諸注釈書は、皆弘安元年とこれに注を施しているが、この記事の資料となったとみられるとはずがたりによると実は建治元年の出来事なのである。 これらは、記事を歴史として年代順に記す事にそれ程注意を払っていない証拠と云えよう。このように、特に必要でない場合はその記事の年代を示さなかったり、自由に置換えたりする他、時には読者に誤解を与えるような不徹底な書き方をもとっているが、更に明らかに記事の年代を誤っている所さえも屡々みられるのである。特に大きなものとしては、正応二年九月七日の亀山院御落飾がそれより後の翌三年三月十日頃に起った浅原某内裏侵入事件の後に、あたかもそれに原因があるかのような書き方で載せられていることである。即ち、浅原某が伏見天皇の内裏へ乱入した事件が、亀山院の御意に出たかのような流言がとび、為に院は関東へ御誓書を遣わされる結果となり、終には御落飾されることになっているのである。これなどは単に記憶違いなどで片付けられないような問題を含んでいるように思われるのである。 同じように増鏡に於いては、登場人物の官位や人名が事実と相違する事が多い。殊に人を官名で呼ぶ場合など、特に一定の基準もなく、余り注意を払っているとは思えない。ここでも先の記事の年代の場合と同じように、余りに明白な誤りは単に手違いとして受取ってよいかは疑問となって来る。今ここで、増鏡に於いて比較的重要な役割を果している西園寺実氏の場合をみると分り易い。実氏は実朝の任大臣の大饗の為鎌倉へ下っているが、当時権中納言まで上っているのを、宰相中将実氏と呼ばれている。更に仁治三年、その女※子の入内に当っては、「まことやこの頃右大臣ときこゆるは実氏の大臣よ」とあるが、実氏が右大臣であったのは嘉禎元年から二年にかけてであり、「この頃右大臣」であるのは一条実経なのである。※子入内を記している諸書に、前右大臣女と※子を説明しているのが正しいのである。実氏は寛元四年三月、後深草天皇即位に際して太政大臣となったが、僅か八ヶ月でこれを辞している。増鏡で、寛元四年大嘗会の頃実氏が少将内侍に歌を贈ったことを載せているが、ここで太政大臣と呼んでいるのは正しいことになる。ところがこの後、後嵯峨院鳥羽殿御幸の折は、既に太政大臣を退いているのに、相変らず太政大臣と呼ばれている。 ※女へんに「吉」
これは後嵯峨院が実氏の吹田山庄へ御幸になった頃の毎日の御生活を評した言葉であるが、致仕の太政大臣を現職ででもあるかのように書いている所など、故意にそうしたように思えるのである。こうして実氏は、致仕後十年目の康元々年の公子入内の記事にまで、「太政大臣の第二の御女女御にまゐりたまふ」と記されているのである。この記事ではその先に「この頃殿ときこゆるは太政大臣兼平のおとど岡屋殿の御弟ぞかし」とある。兼平が摂政太政大臣であったのは建長五年の事であり、その十一月には太政大臣を辞しているのでこれもおかしいが、次に今度は再び実氏を太政大臣と呼び、「御返し太政大臣きこえたまふ」「太政大臣夜のおとどより(三夜の餅を)取入れたまふ」とか書くに至っては、その無神経さに唯驚くばかりである。康元元年に太政大臣が欠けていることを知らずに読むならば、この太政大臣を前の兼平と考えてしまっても無理はない。いかにその内容から此の場合の太政大臣が女御の御父である実氏と推察できるからと云って、この書き方は余りにも不徹底であり、統一に欠けているものと思われる。実氏については、まだその他に単に不統一で片付けられない場合がある。公子入内に引続いて実氏の栄誉を書いているが、そこで、
とある。この事件は実は入内より三年前の建長五年五月六日のことであるが、百錬抄に、「最勝講中日也、前太政大臣相具子息左右大将被参之」とある通り、既に実氏は前太政大臣の筈なのである。 巻七で佶子入内の頃の公宗を、未だ左中将でしかないのに中納言と呼び、同じく巻七の後嵯峨院御仏事で既に大納言である師継を花山院中納言としているような、不注意として許せるようなものと違って、この実氏の件については、熟考の必要がありそうである。 いずれにしろ以上の事実は、増鏡を史書として見、その史料的価値を買おうとする事が全くその性格にもとることを示していると云えよう。 三 以上の事実をもととして、増鏡執筆の方法と組立て方の特質を求めると、第一に数多くの記事を全体としてまとめる為、大雑把に整理している事が注目される。特に年代的に重要でないような遊芸関係の記事については、大胆に実際の日時年代を無視し、適当な所に挿入している事は前節で詳述した所であるが、これを更に効果的にする為に、年代を示す記事によってこれら記事群を統括しようとしている事に注意したい。増鏡には、「年もかえりぬ」、「かやうの事にのみ心やりて明かしくらさせ給ふ程にまたの年の秋になりぬ」、「寛元元年なり」、「花も紅棄も散り果てて雪の積れる日数のほどなさにまた年かはりて」、「ひまゆく駒の足にまかせて文永も五年になりぬ」と云うように、年代的な区切をつける意味での書き出しが随所にみられる。つなぎの文にはいろいろに変化を持たせてあり、美辞を連ねて物語の場面転換を思わせるような書き方がなされている。これは、編年体の歴史として増鏡を書こうとして作者の試みた一つの方法であろうと思われ、或る意味では大きな効果をあげている。それは要所々々で締めくくりをつけながら、時の流れを追って記していると云うことを強調する結果となっている。テムポの遅い増鏡の文章と、似通った内容の雑事を描いた記事群の、静止したような鈍い動きの中にあって、動くものを捉えると云う本来の姿を維持しようと努めているように思われる。先に、増鏡の大きな記事の中には、歴史の動きから孤立したようなものがある事を述べたが、その中の一、巻九の△子内親王の悲恋譚などは、登場人物の呼称までも「おとど」「男君」「大将」など物語めいて居り、さながら平安朝の物語の一場面を思わせるような一節であるが、その物語めいた筆致も話の結末を告げるに至って、現実の内親王の御事を描いているとの意識に呼び戻される。ここで一瞬筆を控えた作者は、「いくほどなくて弘安七年二月十五日に宮かくれさせたまひにしをも大納言殿いみじう歎きたまひけるとや」で結んでいるのである。ここでも、弘安七年二月十五日と年代を明記することによって史実としての裏付けを施し、歴史であることを強調しているのである。このような不自然な、割注のような一句を入れなければならない所に歴史物語としての増鏡の限界があると考えられる。 △りっしんべんに「豈」 それはさておき、このように所々を区切って行くに際しては、反面前節であげたような多くの矛盾や無理が生ずることも忘れてはならない。けれどもそれらの記事の多くは、年代を全く無視してしまっているのであるから、読者に少しも不自然な感じを与えないのであり、この試みは一応成功していると考えてよいであろう。 ここでその際の、記事の繋げ方の巧妙さに触れなければならない。年代に徒って並べられていなくとも、前後の関係が乱れて来ない原因の一はここにある。増鏡は、和歌の記事、行幸の記事と類別にまとめて記す場合が多いが、その時の繋げ方には連想による巧みなつながりがみられる。 又、記事を繋ぎとめて行く一つの方法として、更に、記事の内容のこまかい点を大まかに割切って解釈し、自らの観察とを合せて前後に筋を通そうとしていると考えられる。特に立坊や即位をめぐってのいきさつ、摂関家を中心とする動き、権力の推移などについては、他に見られぬ掘下げた解釈がなされて居ることがあって、この点での作者の歴史的洞察力は大変鋭いと考えられる。そして特にこの面での観察がこまかい事に、作者の公卿としての性格がにじみ出ているように感ぜられる。 承久の乱前後では、心ならずも位を退かれた土御門院が、御父後鳥羽院の討幕計画にも加わらず淋しく暮らしていられた事が、後の巻で院の皇子が幕府の推挙によって後嵯峨天皇として即位される事に繋がって行くし、又別に後白河院の御孫えらびに洩れた三の宮守貞親王の御子が、乱後後鳥羽天皇の御一統に変って孫王で位を即ぎ給うに至るいきさつも、巻一から巻二にかけて平行して書かれている。しかも作者が、御孫えらびに洩れた三の宮惟明親王と、当時都においでにならなかった二の宮守貞親王を混同しているのが、故意であり、話の筋を面白くする為、虚構をかまえたとすると大きな意味を持って来る。前述の亀山院御落飾と浅原某内裏乱入事件とに、史実を無視しても無理に因果関係を想定したことも、とうに致仕している筈の前太政大臣実氏が、都合よく現職のままで書かれていることも、全て故意であるならば、増鏡には、作者の創作、虚構によって書かれた所があるのではないかと考えられて来る。増鏡には、とはずがたりなどからの生の引用による記事と反対に、遠島御百首を資料として書かれた隠岐の後鳥羽院の御生活の記事のように、作者の筆によって新らしく生まれた記事も多いことから、資料を或程度自由に都合よく変えて書くこともありえないことではないと考えられる。その場合、それにはやはり全体としての筋を通し、記事をどこかで統一しまとめたいと云う作者の意欲がその原因となっていると私は思うのである。この点に注意して増鏡を読むと、各記事の配列も、繋げ方も心してなされているように見える。巻五内野の雪の巻名は、御孫に当らせ給う後深草天皇の即位を寿ぐ西園寺実氏と天皇の内侍との贈答歌によっているが、この巻は、関東と浅からぬ関係にある西園寺家の今をときめく栄華のさまが所々にみられる事を考えると、致仕の実氏を殊更太政大臣の職にあるものとして書いていることも相当大きな効果をあげているように思えるのである。巻十一の亀山院御落飾の件も、西園寺家と深い関係を持ち、かつ好意をよせていられる後深草院の御血統に幸いがめぐって次々と吉事が重って行き、反対に公相女嬉子をおろそかにせられてから、西園寺家に疎く思われている亀山院の御一統には、浅原事件から院の御落飾、後宮の難散と不幸が続いて行くとの趣向とみると、話の構成としては大変整ったものになっていることが分るのである。 その後、両統迭立の事が行なわれるようになってからは、専らそのいずれに皇位が移るかを、その度の事情や人心を叙するに興味をもってきている。これに絡めるに西園寺家の内紛を以てし、天皇の御代変り毎に一喜一憂する人々のさまをやや批判的に眺めている。その中には、とはずがたりを資料として露骨に引用して書いている後深草院皇后東二条院御産の記事などで、原典が単に姫宮御誕生の事実だけを報じているのに対し、増鏡はこの時だけはとはずがたりを離れて、
と、今上の中宮方の安堵のさまにまで突っ込んだ洞察を加えているのなどは、資料の扱い方の面からも興味のある良い例であろう。 以上の考察を通して増鏡をみると、その特質は、史料としての価値にあるのでもなく、記事のえらび方やその文章にあるのでもなく、各記事の統合に当っての独得の処置にあると考えられる。即ち、各記事をえらぶのは、用意した多くの資料から気の向くままに引用し、或いはそれらを材料として形成していったのであり、それらの雑多な記事を巧みに組合せて、一つの統一あるものに仕上げているその編纂の巧みさに、増鏡の価値はあると考えるのである。記事の種類が多岐にわたる雑史であっても、読者に不統一な感を抱かせないと云うその秘密は、実にここにあると信ずる。 増鏡の性格を論ずるに当って、紙数の関係から、個々の資料との関係について述べることを省き、各記事の生成の課程についての論証を略したが為に、記事群の統一についての考察が論旨不十分であったことを惧れるものである。 |