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| 伊藤敬氏の略歴( 上掲書による) |
| 藤女子大学教授 ※後日、補充します。 |
| ※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。なお、末尾に「増鏡について発言する方への要望」があるので、私の考え方を簡単に示しておきました。 ※「十九巻本」という表現があって、若干とまどいますが、これは一般的には「増補本」「二十巻本」と言われているもののことです。 |
「増鏡研究史」(本書所載)に続いて、その後の研究動向を、主要な研究者(書)ごと、主題ごと、最近の業績等に大別して見ていく。 なおこの三十数年間のことについては、増淵勝一「増鏡研究小史」(昭48)・松村博司『歴史物語改訂版』(昭54)、とくに西沢正二『『増鏡』研究序説』(昭57)の第三章『増鏡』本質論への展望(第一・二節)が必読の文献である。叙述の都合上の重複等は寛恕を得たい。 1、研究者(書)別に (1)木藤才蔵『中世文学試論』(昭59) 昭和三十五年前後が研究の交替時期となった。松本新八郎「歴史物語と史論」(昭34)、岡一男『大鏡 増鏡』(昭37)所掲の、岡筆「解説」と石田吉貞「増鏡作者の検討」、そして木藤才蔵「増鏡の構想と叙述」(昭36)を例にすることで、史学者との別離、岡・石田時代の終結、木藤時代の開始を読むことができる。木藤氏は引き続いて数多くの研究成果を発表するが、増鏡関係の九篇を第一部としてまとめ収めたのが標記の書である。この論考以外に、『神皇正統記 増鏡』(日本古典文学大系昭40)・『増鏡』(校注古典叢書昭44)の校注釈書もあり、この二書が増鏡の読者・研究者の層を広げ深めた功績は大である。他に増鏡作者論に関連する「二条良基の研究」(昭38)、その増訂新版『二条良基の研究』(昭62)もある。連歌研究で高名な木藤氏の良基伝であるので、作者論の上で必読の文献となる。 『中世文学試論』所載論文は、先学の所説を検証・修正し、実証的・多角的に新見解を披露する。主題別にすると、構想・叙述・作者・成立などの本質論・作品論四篇と、典拠資料考証関係の五篇とになろう。それらの中で最も重要なのは、最初の稿「増鏡の構想と叙述」(昭36)であろう。 この要点は、まずはかつての皇国史観的読解を排した上で、首尾をなす両帝王、とくに後醍醐帝の記述(討幕・新政)の重みに留意し、全篇を序破急になぞらえた、その破の段に該当する公家宮廷生活記述の部を重視する。つまり、芳賀矢一の「やはらかな平安宮中生活」、岡一男の「アナクロニズ的生活」などと言われてきた後嵯峨・亀山・後宇多院時代を精細に読み直し、「作者の心を支配していたのは優艶とあはれの精神、王朝文化伝統確認」と集約し、そのことと、後醍醐帝の元弘の乱−古代王朝復活記念大事件の記述とに矛盾を見ないし、全篇を貫く優艶な雅文体叙述も一体のものと説く。論理の見事な考察であった。 昭和三十年に入っても、いまだに公武葛藤史、公家勝利、王政復古史という読みが存していた(中村直勝『増鏡』昭30。竹野長次「増鏡の構成と思想」(昭32))。その解は木藤氏の言う「破の段」の正当な読みを妨害した面がある。戦前からの岡説「アナクロニズム的生活をアナクロニズム的擬古文で、万華鏡的に表現」(『現代語訳増鏡』昭12。朝日古典全書『増鏡』昭23)は(苦渋に満ちた表現として私は読んでいるが)、ここで止揚され、政治性と文芸性とが一本化され筋の通った構想叙述論が提起されたのであった。(なおこの論旨は、『神皇正統記 増鏡』(昭40)の「解説」、『日本文学大辞典』(昭59)の「増鏡」の項で、簡明に知ることもできよう。) この論考の特質のもう一点は、作者論にかかわる。氏は初出稿の末に、岡・石田説を受けての二条良基作者説に替同し、その基礎づけの意図の所在を記す。推するに、同時に作者論の構想が進行していたのであろう。約一年後に、詳細な「増鏡の作者−二条良基に関する試論−(上・下)」(昭37)が発表された。約十年前の石田吉貞「増鏡作者論」(昭28)をもって「ほぼ決定的」と評価し、前稿「構想と叙述」の趣意と良基の伝記・足利義満と細川頼之のことなどを有機的にあざなって、成立時点を「応安から永和二年(1368−1376)の九年以内」と限定したのが新見であった。この、良基・執筆時のことは大方の賛同を得ていくことになる。 右の二論文が木藤増鏡論の骨格としてよいだろう。他の七論文はそれを補い装うものとしてよいが、作品の読解の上で重要な、成果であった。 改めて私の理解のままに要約すると、十七巻本古本・作者二条良基・王朝伝統文化尊重・擬古優艶雅文叙述、これを四本の柱とする「優艶とあはれの歴史物語」との論になる。 かくして、昭和三十年代後半から木藤氏を先導者とする新時代に入った。索引の面で鈴木茂美「『増鏡』人名索引」(昭43)、そして『神皇正統記 増鏡』による門屋和雄『増鏡総索引』(昭53)の出たのがありがたかった。 このあとの研究史は、木藤氏の四本の柱に囲われた土俵での争い、または柱の移動・取り替えの跡をたどることになる。 (2)宮内三二郎『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』(昭52) 昭和四十年代前半ごろまでの木藤氏の総括に対し、最初の切り込み役を果した人として宮内三二郎氏を挙げておく。徒然草の論考を発表するその前後に、四十六年秋から四十九年の秋に至る間に、計七篇が精力的に書き継がれた。標目の書はそれらを「第三篇 増鏡」に収載する。(なおこの書は、福田秀一・島津忠夫氏らの編による遺著。増鏡関係は島津氏の「解説」が有益なので参照を。) 宮内氏の第一作は「兼好法師と増鏡−増鏡の作者は兼好ではあるまいか−」(私家版)。その題にうかがえるごとく、大変に大胆な新作者説の提言であった。「近年の有力な良基作者説は、確証なく今もって不明」と書き出してその定説化に挑み、兼好の伝により、成立も暦応年間(1338−42)ヘと、三十年以上も遡ることになる。この説はさらに古代王朝復古のこととからむが、良基の著作物との共通性については、良基が増鏡を模したのだとする。 この新見は翌年の「兼好と名子−『徒然草』と『竹向きが記』−」(昭47)に見える西園寺家・名子と兼好との一連の考察と接続するはずで、西園寺家史の「内野の雪・北野の雪」の巻巻の読解が鍵になる。そこで当然のことながら十七巻・十九巻本との子細な比較となり、その成果が「増鏡の原形態−二十巻が原形に近い‐−」(昭47)と「増鏡と西園寺家−増鏡は西園寺家家門史でもある−」(昭47)とに結実する。周知のごとく、江戸期は十九巻流布本が広く享受されたが、期末から明治、とくに昭和に入って十七巻本の原態論が定説になっている。その四十年来の定説を覆そうとしたのが、宮内氏の第二弾目となった右の論考である。 その後、昭和四十八〜九年の一年余に四篇があい次ぐ。「徒然草と増鏡」は標題の二作と良基作の文章をさらに具体的に比較して、良基利用、兼好作の説を補強。「「増鏡」と「思ひのまゝの日記」」は、前稿の主旨、良基の増鏡利用の具体的作業例。「増鏡の成立年代」・「増鏡の成立」は、起筆時は元弘から建武の時で(巻十五むら時雨まで)、残り二巻は間をおいて、成立時は暦応元年以後とするもの。 宮内氏の真摯な姿勢は遺稿に付された推敲訂正の跡に痛く感じられる。がそれだけに焦点のずれが読者を惑わし、翌五十年秋の急逝によって悼ましくもその後の発展に終止符が打たれてしまったのは、惜しい限りであった。そして右に紹介の諸説は余りに斬新に過ぎた、別に言えば十七巻本・良基作者が一般化していたために、さほどに論義を呼ぶことなく過ぎたのは寂しいことであった。しかし遺著の解説で島津氏が記すように、作者・成立などについて十分に検討するに価するものがあろう。また松村博司『歴史物語改訂版』(昭54)にも、宮内論が紹介され、増補本・著作年代・作者などについての再検討が要望されている。しかし全体としては宮内論の追検証の煩雑さからか、松村発言以降もそのままになっている。とは言え、良基が作者なら兼好にも蓋然性があり、西園寺・洞院家の線から、洞院公賢も。また十九巻原態説、成立時についても改めて可能性のある問題提起者として、氏の偉業は敬慕に値するものがあろう。次述する西沢正史氏は、宮内氏の言を受けていて貴重であるが、他に増鏡を論ずる人は、今後とも、これらの論との対決が必要となろう。これも重要な動向として顕在化することを期待したい。 (3)西沢正二(正史)『『増鏡』研究序説』(昭57) 宮内氏の若々しく情熱的な仕事ぶりによって関心が回帰させられ、その学問的成果を原動力として生み出された、と「あとがき」に記すのが、右の西沢氏の書である。宮内氏の死から七年後の刊行。木藤・宮内両氏の論点を踏まえ、別筒の問題も抱合して、ここで増鏡研究の最初の本格的な単行本誕生となった。 内容は、成立、構造と方法、本質論への展望の三章仕立て。計十二節(論文)。昭和四十二年の「『増鏡』に描かれた後鳥羽院」以下の六篇を取り込みながら、相当に加筆訂正を施し、新稿を添えての総合研究書として登場。既発表のそのままの論文集でないところで、最初の研究書としての意義がより深い。ただし紹介に限りがあるので、問題をいくつか摘記していく。 第一章は成立年代と作者考。ここで着目すべきは、作者考と成立考とを分ける姿勢。従来の、良基を作者として成立を考察するのを非とし、内外の資料でとする。宮内氏は最初に兼好作者説を提示し、それを措いて成立を独自に探索する。それに等しい。木藤氏も、良基からとする「増鏡の構想と叙述」の付記を、『中世文学試論』所収では削除。 早くに手島靖生「一知識人としての『増鏡』の作者のありかた」(昭31)もその姿勢であった。これは、作者と作品論においても同様であろう。かくて、改めて自由な視座で、諸説・資料を検討、結論として、宮内説よりは下るが通説をやや大きく遡らせて、貞和・観応ころ(1345〜51)を措定する。勿論、可能性追求の前提で、松蔭中納言物語成立以前、足利尊氏在世中、新待賢門院宣下以前を主な理由とする。そしてまた良基壮年時著作の可能性もありと付記する。次いで「作者をめぐって」の節で、良基説を種種検討するが、仮説として今後を期待すると結ぶ。今後の課題となろう。 注目すべきは次章第一節「未完結的性格」(初出、昭49)である。増鏡が序に応ずる跋部を欠くことについて、これまでまともな論議はなかった。巻末を逆賊北条討伐・王政復古の歓呼で読むからであろう。戦後になってからを見ると、岡一男『増鏡』(朝日古典全書、昭23)「解説」に、尻切れで序を結んでないのはもう三巻ばかり書き続けるつもりだったか、とあり、吉岡幹子「増鏡の最終部分に関する疑問」(昭44)はそれを受けながら、作者二条良基の北朝・足利方への遠慮による筆の中断かと推定する。この岡・吉岡論をさらに押し進めたのが「未完結的性格」論である。 結論は、建武新政記事と跋文の欠如、十七巻の半端性などから、二十巻予定の未完とする。そして王朝回復の歴史叙述の中絶に、観応・文和の擾乱と良基の境遇とを想定する。可能性の高い論であり、そして見事に、前述の「成立」と「作者」とこの「末完」との三者とが合体することになった。やはり可能性の領域内のことであるが、未完結か完結かの論を呼んだだけでも意義深い発言であった。増鏡を読み考えるだれしもが、この課題の答を持つべきであろう。 以下私の関心のままに触れると、「序文の形成と意義」における今鏡との関係は重要な指摘。その女性的視座は作品の質に及ぶもの。「第一・二・三部の方法」は三部構成説に基づいての子細な考察。合わせて一五○ページに及ぶので、著者の力点を覚える。(ただ、一と三の後鳥羽・後醍醐の構想と二の「『とはずがたり』の受容」とに違和感が残った。) 第三章の「著作意図をめぐって」は右の三部構成や従来の諸説を踏まえた上で、著作意図は、後鳥羽院物語を包括した王朝回復運動史を軸に後醍醐物語を構想するとともに、歴史物語性を宮廷生活史の形で果たそうとした「鎌倉時代の物語風な歴史の叙述にある」とする。そしてその原動力は「後醍醐帝をめぐる歴史的事件と作者の物語世界への憧憬であった」かと付言する。この結論もまた、一つには、末完・作者・成立に関する著者の見解と有機的に無理はなく、二つめとしては、木藤・宮内氏の所論の止揚として新味がある。増鏡の著作意図を今後考える上での、明確な座標の提示として、有益な明文化であった。 次の「本質論への展望」は、増鏡の擬古物語性を再検分したもので、歴史・文学にわたる論題のもの。これも当時としては重い課題提起。 新時代幕開けの木藤氏、相対する形での宮内氏、またその他の研究・発言を洩らさずに、多角・総合的な増鏡論となったこの書の意義は大きい。他にも取りあげるべき論点(例えば和歌関係)もあるが、ここで終え、あとは三角洋一氏の書評(『国語と国文学』昭58・7)に詳しいので譲る。 ここで前述の木藤氏の四本柱に帰ってみると、十七巻古本・良基作は同じ。王朝優艶性は物語性をより強調(あるいは別柱)、文体は同様。全体に、宮内説の克服止揚で柱を補強、修飾。特筆すべきは、良基の執筆時を観応期に、三巻を残しての中絶未完とする新見・仮説であり、これが後生への検討課題となった。著作意図とからんで難題であるが避けて通れまい。なお、著作意図に見えていた、歴史性と文学性の相関も、課題提起としておく。後醍醐帝物語重視の読みも含めて。 以上、木藤・宮内・西沢三氏の業績を、刊行書によってその動向を追ってみた。論は子細にわたっていて適切な紹介は難儀であったが、大方の理解が得られればと願っている。 (4)その他 右の三氏の書以外で、昭和三十六年から五十年代後半までにおける、増鏡の思想・政治に関する二篇をここで紹介しておく。 イ 矢花祐子「増鏡に表れた思想的特色−宗教・信仰方面より見た−」(昭36) 増鏡(歴史物語)と神皇正統記(史論)との差異に倫理・思想の有無や濃淡を見るのは当然であるが、増鏡の著作意図を「王朝文化伝統確認」・「物語風歴史叙述」とする中に、作品・作者の思想があるとまず押さえよう。そしてまた、作者の意図外のところで、その確認・叙述の中でおのずと背負いこんでしまった思想のあることも。かつての皇国尊重の思想に替って、「宗教・信仰」方面から一つの思想を見るのがその例であろう。 矢花氏はこの論考で、崇神(皇室尊重)をまず挙げるが、次いで、諸種の心霊現象(怨霊・妖怪変化・夢告)、そして出家遁世・宿世観の事例を整理して増鏡の思想性の特色とする。矢花氏自身指摘のごとく、神仏・心霊関係叙述の特異さはすでに溝口駒造『増鏡新講』(昭3)の「緒言」に指摘があった。さらには竹野長次「増鏡の構成と思想」(昭33)も、宿世・兆・陰陽道・物の怪に言及する。矢花氏はこれらの記述を通じて、増鏡の中世的特質を帰納する。これを作者の意図とするまでの分別には至っていないが、増鏡という作品の特質指摘として貴重な収穫と考えられる。ただし、公武衝突史・宮廷生活史のいずれで読むにしても、それは権勢浮沈の歴史叙述であるから、おのずと「人」を超えた世界への思念を誘うはず。その視点で信仰・宗教性を見ると、序の「清涼寺如来二伝の御形見」の表現が解ってくる。また巻末の「月草の花」の歌の解も。そうした仏教思想への緒となる言及、昭和三十六年、木藤時代の始めのころの増鏡論として、評価しておきたい。 ロ 加納重文「「増鏡」の思想」(昭51) 「思想」を主題の論文なので、続いて取りあげる。また論旨も極めて枢要であるので。 加納氏の近刊の論文集『歴史物語の思想』(平4)「第X編 増鏡」所収はこの一篇のみであるが、その篇名は「政治思想」とある。説明は見えないが、「政治」を冠したところに氏の意図があるとすると、改めて増鏡の思想を考える上で、文学的・歴史的読みとの関連で、貴重な収穫である。 加納氏はまず公武関係史の視点から、後鳥羽院・後醍醐帝記事の政治性(武家批判・倒幕意志)に対する武家の描き方の不徹底(批判よりむしろ称賛)に疑義を呈し、後鳥羽・後嵯峨・後醍醐三帝王の物語を、公武対立・公武強調・公武対立時代の三部構成として位置づける。これは氏自身が説明するように、木藤氏の序破急構成に基づきつつ、王朝回復・公家重視の把捉とは別に、武家方の倫理を尊重した新見である。そして、公と武とのそれぞれの「分の思想」をもって論じ、後嵯峨院時代を公武強調の理想的な姿として描くことで公武強調による反映と安寧とを念ずるのが、増鏡という作品だ、とする。 増鏡の主題・執筆意図理解は、大まかには、皇権がわの武家政治否定の解釈から、王朝美の回復・叙述、物語的性格の重視へと座標軸が移動してきた。それに対し、公武対立よりも協調の理想表現を主張する論は、明快で説得力があり、まさに「政治思想」の増鏡となる。 右の読みは当然ながら、作者像−平和主義とかかわり、清涼寺という物語の場−争乱無縁と「序」を解するのも新鮮であり、歴史叙述に政治的意識なしはあり得ないと断ずるのも同感である。巻末部の後醍醐帝還幸の公武の描写も、これで説明がつく。そして、作者を特定する論に踏み込まずに作品内部を考察したのも首肯される(ただ注36に、木藤氏想定の良基の理解−彼一流の公武一統政治の実現に努めた−などが私考と共通する面がある、とあるので、今後の作者論を期待したい)。 この論考で、増鏡の公武観の偏りは、完全に払拭されたと言えよう。まだ「望ましい公武協調の上に築かれる繁栄と安寧を念ずる書」とする結論は議論の余地があろうが、歴史叙述と政治思想の視点は、従来の狭義歴史物語観からの解放としても評価される。 政治性に関連して、ここで、河北騰氏の「歴史物語に見る政治性について−増鏡を中心とする一考察−」(平2)を挙げておく。最近のこの論考も増鏡の政治性を読もうとするもので、政治記述の具体例、帝位意識・天皇観・武家観などから、皇権回復・王威発揚挙手歓迎の政治意識を確認する。さらに戦争責任について記録者(知識人)の不徹底、政治意識の欠落を、一方で指摘する。この政治性着目は次の「「増鏡」の文芸性について」(平3)と対をなすもので、両編の集約が「「増鏡」の歴史物語的特色」(平7)に見える。政治性指摘の見方は歓迎すべきであるが、加納氏とは別のようであり、さらにこれを機にして政治性論義の高まることを期待したい。そしてそこからの作者像追求のことも。 この政治思想の比重のことは、長年の課題である「歴史と文学」とも関係が深い。次の主題別の最初で取りあげておく。 2、主題別 (1)文学と歴史とのこと 今のいわゆる歴史物語類は、大勢として明治期には雑史、その後に国語(文)教材として扱われ、国文学の領域が確定していく中で、芳賀矢一「歴史物語」、そして近年の松村博司『歴史物語』(昭36)において、文学書扱いとなる。 しかし他の仮名物語(虚構物語)との相対化の中で定義と名称は揺れていた。『歴史物語』では、一ページ余で説明するが、要点を抜くと、「仮名文で書かれ、物語風に叙述された半文学的半歴史的な性質を持つ一連の史書をいう」、「むしろ物語風歴史または物語風史書という方が幅が広く、各作品を等質的に見誤ることもないであろう」、「むしろ物語風歴史書と呼ぶ方がふさわしい」(補注六)、とある。これが改訂版(昭54)では九ページ余に拡張される。そこにこれら一群の作品の性格規定の難儀が如実にうかがえよう。(委細紹介は略)。主意は要約しにくいが、末部から抜くと、「概して王朝趣味を発揮した作品として、一般にめでたいことを記そうとする意識の勝った物語風史書ということができよう」で終る。 この道の碩学にして右のごとくである。あえて引用を多くしてこだわってみたが、結局は「史書」性を主体としての認識になっていることの確認のためである。別に言えば、文学・歴史論義の不毛性の予感の意味でもあった。 最初から私見に流れたが、この課題に関する二論文をまずは取りあげ、そのあとでまた私見を紹介してみる。 イ 石井順子「増鏡の性格」(昭32) 『国文学』の大鏡・増鏡特集(昭32・12)以前の数少ない業績の中で、とくに高い評価を得たのがこの石井論文であった。まずは公武衝突史と宮中生活史との二面性検討に始まり、増鏡は雑多な記事を持つ雑史でありながらも不統一感を与えない。増鏡の本質を解く鍵はそこに、と問題を立て、「内野の雪」後半部記事の年代不順部分、その他の虚構記事を例にして記事群の連想・統括の独特の処置を指摘し、増鏡の価値はこの編纂の巧みさにあるとする。編年雑史(史書)増鏡の文学性指摘・評価の論として、見事なのであった。別にいえば史実と虚構の課題解答、その研究動向の典型としての意義も高かった。かくして、増鏡はその文学性・物語性・創作性において評価されていく。それが重点となる。史書を離れる。 ロ 鈴木孝枝「増鏡の文芸性」(昭43) 右の石井論文にすぐ続いて、『国文学』(昭32・12)の特集に、谷山茂「増鏡の文芸性について」・中村直勝「増鏡の史実性について」が組まれている。当時の動向を示す好例であるが今は略して、標記の鈴木論文に進む。石井論文の十年後になる。 この間は南波敦子「増鏡の史観について」(昭41)の、朝廷政治への武家権力介入肯定に作者の立場を見る立論以外に、政治性・史観云々の発言は見えない。四十年代以降の文学主流の風潮において、この鈴木論文の明哲さは記憶されてよい。 「歴史物語」のあいまいな定義とは別に、個々の作品の特性研究重視を前提に、として、「歴史性=事実、文芸性=イマジネーション」の、一見矛盾の特性をふまえて、史書か文学書かの判断よりも、まずは文芸性を、と整理して考察に入る。その内容は各章の標目である「歴史的認識と文芸的認識・対象の把握態度・文芸的特性・文芸としての増鏡」の表現にうかがえるように、やや硬派の論調ながら、考察は広域にわたり、とくに「歴史を一歩脱して文芸としてあること」の領域、歴史を美的に捉え、その美を形式美・内容美(美と抒情)の文芸、という増鏡論を展開する。 歴史性と文学(芸)性とで増鏡を考えようとする場合、必読・対決すべき論文と見て挙げておく。 しかし、今後もこの二者(歴史・文学、史実・虚構)に関する考察は多出しようけれど、所詮、雑史も歴史語りであり、語りは騙りであるから、史・資料の物語り化、記実の融通性を基底に置くこと。またいわゆる歴史物語の作品わくを外して、広く記実の史書・軍記・説話などに及んで、歴史叙述を分母とすること。こうした視野を一般とする時代に入っているのではないか。平成三年三月の『解釈と鑑賞』(特集、歴史物語の世界)を貫くのは右のことであったと思われる。平成八年五月の中世文学会でのシンポジウム「歴史認識と中世文学」のテーマ設定も、その気運の表現と解される。松本新八郎「歴史物語と史論」(昭34)も読返すなかで、中世の史書と文学の問題を新しく考えてよいだろう。 動向を客観的に叙すべきところ、私見を濃くしてしまった。反発があろうが、拙稿「歴史物語と史論、補説「歴史か文学か」のこと」(『増鏡考説』(平4)所収)を参照していただきたい。 (2)伝本・付注釈書 次に、文献学的領域の動向を展望しておく。 イ 伝本のこと 江戸後期以降、十七巻本に対する十九巻流布本の異文と別文の部分は、後代の贅編・増補と見なされて、十七巻本の応永・永正本系伝本を古本と称するのが固定した。それに対して、十九巻本が原本の形態を九分どおり伝えるもの、として異を唱えたのが、宮内三二郎「増鏡の原形態−二十巻本が原型に近い−」(昭46)であった。拙著「増鏡考説−流布本考−」(平4)は、この宮内説を受けて考察を広げ、古本との異文・別文は原態をとどめるもの、従って流布本には古本と同じ(古本から入った)部分もあるので、原態と古本との混態のものが流布本の本文であるとしたのであった。名づけて流布本混態説。 『増鏡詳解』式の二十巻改訂本の非であることはすでに徹底したと思われるが、古本と流布本の先後関係は、まだ未決である。私の言う流布本混態説はまだ学界での理解を得ていない。逆に十七巻古態本の立場においての私自身の混態説批判も必要と考えている。要はこの本文批判が増鏡の性格追求に不可欠ゆえ、古本と流布本との差異・先後の考究を早急の課題としての認識と実行が望まれる。これに関し、鈴木登美恵「『増鏡』の本文異同をめぐって−後崇光院本の検討から−」(昭60)は、太平記の事例から見ての、後崇光院御所の近衛筋に焦点を当てた、示唆に富む論考である。 次には、十七巻本の、応永本と永正本との本文異同のことがある。現存最古の後崇光院書写本(序を含む二十冊、十九巻本)における古本との共通部分は、木藤氏によって、「さしぐし」の前までは応水本、後が永正本、つまり取り合せ本であることが明らかにされている。この応永本と永正本の差異、先後の課題も未決で、これも早急の解決が望まれる。 また、十九巻本系写本についても、私の調べでは、古写とされる浅野・色川・脇坂・松井旧蔵本、そして「源起記」は、古活字もしくは整版流布本の写しである。後崇光院書写本と古活字版依拠の写本との間が空白状態にある。十九巻本系諸本の校異・校合作業を含めての書誌学・本文批判の分野が立ち遅れている。作品・成立の論に大きく影響するまでのことは予想されないが、増鏡論の多彩さに比すれば、片手落ちの感は拭いきれない状況にある。今後を期待したいものの一つである。 ここで翻刻・影印本関係について付記する。動向としては古本の紹介が盛んで、前述の木藤氏の校注釈本の他、佐藤高明「片仮名本増鏡研究本文資料篇」(昭51)に、源起記・永正カタカナ本・桂宮本の翻刻と校異。佐藤敏彦『ますかゝみ』(昭58)に岩瀬文庫蔵本の翻刻と校異、同じく「校本増鏡」(昭55〜)の作成。 影印本には、佐藤高明『真寸鏡桂宮本』(昭55)・『御物本増鏡』(昭56)、他に川瀬一馬『増鏡』(竜門文庫本、昭60)。材料は相当に出揃った(また、大東急文庫、静嘉堂文庫のマイクロフィルム頒布もある)。佐藤敏彦氏の「校本増鏡」の完了と総括結果の早きを期待したい。 十九巻本については、後崇光院書写本の紹介が待たれるが、さし当っては、「内野の雪・北野の雪」の部分だけでも、十七巻本との対照本文があると便利であろう。欲を言えば、古活字本と整版本との翻刻なり影印があってもよい。 以上が、伝本関係の実情・概略である。 付 注釈書 昭和十二・十三年に、十七巻本による岡一男『現代語訳増鏡』・佐成謙太郎『増鏡通釈』が出た。これは明治改訂二十巻本の多くの注釈書に対して画期的なことであった。ただし時局がら両書の口訳において、上皇の秘事は筆を曲げ、文字を伏せねばならなかった。戦後の自由を得て、昭和三十七年に前者の新訳が刊行され、これが全口訳の最初となった(十七巻本・十九巻本において)。 この岡「現代語訳」新訳もまた昭和三十年半ばで区切る研究史の一指標となり、その後二十年ほどして、井上宗雄『増鏡(上・中・下)全訳注』(昭54〜58)三冊が出た。すでに岡・木藤氏らの頭注・補注の書、また二十巻本によった青山直治『全訳増鏡』(昭45)もあったが、これが戦後唯一の全訳注釈書となっている。その特筆すべき二点を言うと、第一は、各章段の口訳・語釈のあとの〈解説〉部。単なる補遺記述にとどまるものではなくて、著者の「読み」−ここを自分はこう読み解した−が、丹念に叙されていること。この読みの提示は注釈者の義務とすべきであろう。第二は、戦後の古本尊重に対し、増補本もひどく隔った後世の成立でないので意義があろうとして、その特有部分をも付載し現代語訳を添えたこと。これまでの十九巻(二十巻)と十七巻との各注釈史を止揚するものと位置づけられる。増補の二系統は、十四世紀後半から十五世紀前半の一世紀の間の作として、巨視的に両者をもって一作品増鏡とする見方は極めて有益で興味深いことである。 井上氏の著述は講談社学術文庫の方針が関係するにしても、〈解説〉は一手本となる。従来、訓詁注釈の客観性が云々されたが、近年の「読み」の深化の中で、注釈者の主体が問われ始めている。各段・章においての主意把握があっての作品論であろうので、今後の増鏡全注釈書は、さらに井上氏を超えるものを目途とすべきだと思われる。 (3)作者と成立のこと イ 作者のこと 前例に洩れず、雑史増鏡の作者名は未詳のままである。江戸期以降、二条良基・一条経嗣・兼良・冬良の四代の名があった。その伝承から、摂関二条・一条家の関与が想定されるが、矢花祐子「増鏡作者についての一資料」(昭37)に紹介の実隆公記紙背文書のとおりとすると、大永年間(1521−1526)にして、大臣家の一流の文化人三条西実隆も作名者を存知しなかったこと、摂関家の前記四名に触れていないのは不思議である。兼良・冬良父子と交流のあった実隆である。しかしその事情は未詳のままである。 さりながら、冬良作説が江戸期に多いことにつき、吉岡幹子「一条冬良と『増鏡』」(昭59)があり、良基原態作、経嗣・兼良あたりの増補作と見るのが無難とする。これは、十七巻→十九巻本を含めての考察で、すでに石田吉貞「増鏡作者論」(昭28)の末部を継承・発展させたもので新説ではないが、今のところ最も可能性のある見方である。 他の主な説としては、小沢良衛「『増鏡」をめぐる諸問題」(昭52、未完)は「とはずがたり」と増鏡第二部との所縁から、良基よりも、中村直勝「四条隆資」説の可能性を買い、さらに宮内「兼好」説検証の必要性も言う。 最近の唯一の新説が、田中隆裕「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討−」(昭59)の公賢作者説である。公賢の経歴・教養などから見て一候補と想定されるのは自然であったが、その積極的発言として注目を引いた。 これに対し、西沢正史「『増鏡』作者論のゆくえ−洞院公賢説批判を中心に−」(昭63)の反論が出、公賢作の根拠は良基にも適当するものが多く、外部徴証(著作物と増鏡のこと)から見ての良基説の信頼性を重ねて言う。かくして良基説はあい変わらず大方の指示を得ているが、不賛成の史学者の例、坂本太郎「増鏡」(『史書を読む』昭56)を挙げておく。そこには、良基説は菟玖波集・百寮訓要抄の著者とはやや縁が遠く釈然としないこと、かえって二条為明を捨てがたいとある。簡単な言及で説明不足ながら、参考に供しておく。 以上が作者論の近年の動向、とまでも言えない貧しい様相である。要は、良基・経嗣父子に注目が集まっているにしても、決定的なものは現在は見えてないのである。私事ながら『増鏡考説』(平4)の「はしがき」には、小著『新北朝の人と文学』(昭54)所収二条良基研究の一つの意図は「良基は増鏡作者たり得るか」にあったが、結局は何も言い得ず、その十余年後のこの書でも作者と成立の章は立てられなかった、と記さざるを得なかった。そしてその最大の理由は、流布本と古本の関係の未分明・未解決の中での作者論は不毛でしかないこと。加うるに、良基作に寄せての増鏡論は空虚・非であるとする思いがあった。良基作と言い切れない今、その心は変らない。今後どのように作者論が展開するかの予測は困難であるが、単純な作者論の独行は慎むべきことだろう。 ロ 成立のこと 作者のことが右のごとくであるから、成立のことも、いたずらな仮説にとどまるだろう。良基を別にしての、例えば手島靖生「一知識人としての『増鏡」の作者のあり方」(昭31)式の推論を重ねる他はないだろう。増鏡完結説の立場からは、「久米のさら山」に見える「つひのまうけの君」の解による延元三年三月と、序と巻末記事、そして応永本奥書の永和二年、この確かな三事項のみが頼みである。岡説に言う日野宣子(二品局)と藤原懐国密通のこと(大日本史所載)の非は、井上氏の証するとおりである(『増鏡(下)』解説)。従って岡説がこれを重い根拠としての応安・永和ころ、二条良基五十代説は、白紙にもどすべきであろうし、応永本奥書の「如法不審」の正解がまずは求められよう(本書五ニページ参照)。 作者・成立の証のない今、まずは作品読解、例えば、未完と完結、「月草の歌」の解など、それらの公認の釈義定立が先決のことだろう。 (4)近年の研究動向 平成の年度に入ってからのものを概観する。 特集「歴史物語の世界」(『解釈と鑑賞』平元、3)は、歴史と文学、歴史物語の領域と本質などを総合的に再考させるものがあり、有意義であった。ついでに言えば昨年(平8)五月中世文学会春季大会でのシンポジウム課題は「歴史認識と中世文学」である。四鏡の流れの範囲を超えての視野拡大が今後の一方向であろう。 研究者として福田景道氏が登場する。「『増鏡』の世界−「皇位継承」の意義をめぐって−」(昭58)が初期の論で、増鏡の統合契機上、皇位継承・世継の性格を核に、人人の明暗裏表(転変世界)の基調を確認する。その後の「『増鏡』の基調−二家系対照と明暗循環の構図−」(平3)・「『増鏡』にみられる宮廷貴族諸流の盛衰−外戚から近臣ヘ−」(平3)・「『増鏡』と両統問題」(平3)などは、第一論文の発展と見られる。とくに「両統問題」の論は総括の作で、木藤・加納氏の所論等を整理した上で、林屋辰三郎「競合の文化」論を尺度に、鎌倉期の公家社会・文化、両皇統性を説明し、増鏡の独自性・思想・公平性を括る。ここで氏の「増鏡の思想」論が一段落するに至る(と私は読む)。この間の「『増鏡』における過去と現在−「先例」の機能について−」(平2)も、先例の克服と超越に両皇統並存をかませ、三部構成の見通しを言う。その他「歴史物語の系譜と『増鏡』−継承性と自律の観点から−」(平3)は叙述と領域に着目、六代勝事記・五代帝王物語との継承・自律において大鏡・今鏡につながる縦の系譜をつむぎ出そうとする。いずれも格の高大を思わせる。 以上、あえて福田氏の業績に筆を費したが、今後の研究方法と動向の上で、私の駄文よりも雄弁と考えてのことである。ここで、小島明子氏の「『増鏡」の先例の意味−明暗循環説との関連−」(平5)も挙げておく。公武協調・対立の明暗を「先例」の事例で調べ確かめたもの。福田論と読み合わすべきで、他の「歴史物語の継承−『今鏡』と『増鏡』の間−」(平5)の縦の系譜把握も同様であろう。 単行本関係で見ると、歴史物語(とくに今鏡を主にしつつ)の個別的文体論・表現形式から作品の主題や構成に至ろうとする、大木正義氏の四冊の著書がある(平4−7)。それらの中に、例えば『歴史物語の表現世界』(平6)の「第四章 増鏡を特色づける表現」などがある。この方面に疎い者にとって、増鏡のみのまとめを期待したい。欲を言えば、十七巻・十九巻本の本文差などの収穫があると、ありがたい限りである。文体研究が歴史物語増鏡の歴史・思想・物語性を追いつめることを期待したい。 終りに−今後の展望 最近の業績から見ての今後の展望、この課題は難儀であるが、始めにあげた西沢氏の『『増鏡』研究序説』第三章『増鏡』本質論への展望(著作意図をめぐって・本質論への展望)以上に、ここで付加できるものは多くない。是非この解説を利用されたい。問題点が適切に解されている。 ただし、他の古典作品と同じく、未詳・不明の部分が多いために、まだ増鏡の正当な読解が拒まれている。稿者、私の特権で、最後に自著『増鏡考説‐流布本考−』(平4)にかこつけて、残された課題等を記してみる。 この著書の目途は三つ。その一つの参考の文献目録と資料による利便提供は別にして、他の一つは、著述意図・思想を、歴史書として探索すること。結果として先学(岡一男)らに教えられながら、明暗交替・仏法倫理をたどってみた。勿論(弁解じみるが)、王朝優艶を、そして公武協調を否定するのではなく、もっと多角的にとの、あえての作業であり、今後の統合か、捨象かが研究対象となるべきであろう。(前掲福田氏の論考に通ずるものがある。) 一つは副題「流布本考」そのままに、伝本の書誌・文献学的調査のこと。古本・流布本、前者の応永本と永正本、後者の複合性のことは、疑えばまだ未解決である。原態・書き換えが未詳の中で、作品の質、作者、成立を論ずるのは空しくないか。それが動機であった。既述のように、室町・江戸初期の古写流布本系とされるものが、古活字本・整版本の写しである。まだこの面の基礎調査も未熟なのである。佐藤敏彦氏の十七巻本校本作成とともに、書誌学面での推進も早急に望まれる。 もう一つだけ添えれば、私見としては、芳賀矢一・松村博司学統の歴史物語に止留していいのかどうかのことがある。栄花物語以来の通時性(伝統と創造)とは別に、共時的な歴史物語群、その中の増鏡。つまり中世・南北朝期の歴史叙述意識による鎌倉時代史としての読解が必要と考えられる。最近平安朝期歴史物語の研究で実績のある河北騰氏の、増鏡論がいくつか出た。今後を期待したい。 最後に、増鏡について発言する方への要望を添えて終りとしたい。それは三つほどある。 一つ。増鏡は、十七巻と十九巻の二形態で依存する(少くとも十五世紀以来)。自分の論ずるのはそのどちらであるかを明確にして(できたら理由を添えて)論述してほしい。 一つ。十七巻(十九巻はなおのこと)の形態・本文が、完結(著書の意図において)か未完結かの自分の読みを提示しほしい。 一つ。右に関して、巻末の「墨染の色をもかへつ」の和歌を、王制復古肯定(賛歌)か明暗流転(諷刺)のどの意(もしくは他の解)で読むかを示してほしい。 以上は増鏡研究の踏み絵と考えられる。私は、流布本混態(原態保有)説・完結説・流転説の立場で一書を成した。 踏み絵とは嫌味な言い方で恐縮であるが、これらが示されると各論が生きて受容されるし、仮説としてもこれらを自説の前提とすることで、視野・論旨が開けてくると思われる。今後の研究動向において右の三か条が反映することを願って、難儀な研究の粗雑な展望を終えることとする。 補記 平成八・九年度に、古本流布本に関する次の二論文の発表があった。 小島明子「十九巻本原態説の検討」(『国語国文』平8・4) 小川剛生「『増鏡」と公家日記−十九巻本の文永四年記事をめぐって」(『中世文学』42号、平9・6) 前者は、増鏡の内部・本文の綿密な読み、後者は外部資料(「経光卿記」)紹介による貴重な考察。ともに十九巻流布本原態(混態)説に対する反論、流布本増補説を主意とするもの。新進気鋭の方方のこうした論考の出現は、意義深く、ありがたく、これらを機に増鏡研究のさらなる活発化を期侍したい。 なお、小島論文から種種の刺戟を得たままに、多少の疑義をこめて、私解を「増鏡私注」(『国文学雑誌』58号、平9.3)に叙してみた。小川論文については後日を期することになるが、今回の『歴史物語講座』を新たな出発点として、歴史物語・増鏡研究の論のにぎにぎしくなることを願い、課題の「研究動向」紹介の筆を擱くこととする。 |
| 「増鏡について発言する方への要望」についての私の考え方 1.「増鏡は、十七巻と十九巻の二形態で依存する(少くとも十五世紀以来)。自分の論ずるのはそのどちらであるか」 主として十七巻本である。私は通説の「流布本増補説」が正しいと考えており、増補部分は十七巻本が「西園寺家家門史」であることを苦々しく思った摂関家関係者が、「西園寺家家門史」的色彩を若干でも修正しようとしたものと考えている。例えば、増補部分に西園寺公相の死後、その生首が盗まれた、といった異様な話が盛り込まれているのは、増補を行った摂関家関係者の「西園寺家家門史」たる十七巻本に対するシニカルな態度を示すものと考える。 2.「十七巻(十九巻はなおのこと)の形態・本文が、完結(著書の意図において)か未完結か」 完結していると考える。未完結説は「増鏡が序に応ずる跋部を欠く」と断定するのであるが、この点が根本的に誤っており、実は巻十七「月草の花」の結末には、「序に応ずる跋部」がきちんと示されているのに、誰も気づいていないのである。 即ち、結末には善勝寺大納言隆顕の孫、四条隆資を極めて唐突に登場させた上で、「四条中納言隆資といふも頭おろしたりし、また髪おほしぬ。もとより塵を出づるにはあらず、敵のために身を隠さんとてかりそめに剃りしばかりなれば、いまはた更に眉をひらく時になりて、男になれらん、何の憚りかあらん、とぞ同じ心なるどちいひあはせける。天台座主にていませし法親王だにかくおはしませば、まいてとぞ」としている。 ここに登場する「同じ心なるどち」は、ごく普通に解すれば四条隆資と同様の立場にある後醍醐帝側近ということになるが、そうではなくて、四条隆資の登場と同様の極めて唐突かつ詩的な連想により、ここでは『増鏡』の序に登場する「「八十にもや余りぬらんと見ゆる尼」を想起すべきなのである。 『増鏡』の著者は、序の部分で登場した自分自身を、詩的感覚の鋭い読者にだけは分かるであろう極めて微妙な形で最終場面にきちんと登場させ、従前の歴史物語には見られない独創的な「序に応ずる跋部」を示しているのである。 3.「巻末の「墨染の色をもかへつ」の和歌を、王制復古肯定(賛歌)か明暗流転(諷刺)のどの意(もしくは他の解)で読むか」 ごく素直に読めば、結末部は極めて明るく力強い印象を与える書きぶりであって、この「墨染の色をもかへつ」の和歌は新しい時代の到来を喜ぶ「賛歌」であると考える。 なお、建武の新政が単純素朴な「王制復古」などでは全くないことは近時の歴史学界の常識であるが、伊藤敬氏の用いる「王制復古肯定」という表現には、既に古くさくなってしまった歴史観の残滓が伺えるので、私は「王制復古肯定」という表現は用いたくない。 結末部が何故ここまで明るく力強いのかについての私の考え方は、巻十五「むら時雨」の北山御幸の場面と巻十六「久米のさら山」の日野資名の昇進・光厳天皇の後宮の場面に関連して述べた。 |