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※岩佐美代子氏の略歴はこちら。
| 岩佐美代子氏の見解 |
私の立場からの補足 |
| 作者 後深草院の女房、弁内侍。歌人、画家として知られる藤原信実の女。祖父隆信は藤原定家の異父兄に当り、新古今歌人であると同時に、高雄神護寺蔵平重盛像等の筆者と伝えられる似絵(にせえ)の大家である。母は未詳であるが、同腹と思われる姉妹に藻璧門院少将・後深草院少将内侍があり、「みなよき歌よみ」と『井蛙抄』にたたえられている。 |
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| 生没年未詳。安貞元年−寛喜元年(1227〜29)頃出生か。寛元元年(1243)後深草天皇立太子の時「弁」の名で出仕し、同四年践祚により内侍となり、正元元年(1259)退位まで十七年間奉仕した。以後は宮仕えを退いたと思われ、文永二年(1265)妹少将内侍の死去により出家、続いて父信実、姉藻璧門院少将とも死別した。従二位法性寺雅平との間に女子(新陽明門院中納言)を生んでいるが、その時期は明らかでない。 |
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| 晩年は比叡山横川の北麓、仰木(おうぎ)の山里にこもった。『実材母集(さねきのははのしゅう)』に建治三年(1277)の贈答歌が見えるので、その頃(五十歳ぐらい)までの生存は確認される。
宝治二年(1248)百首を詠進、『続後撰集』以下の勅撰集に四十五首入集。本日記・諸歌合・私撰集類等の所載歌を合せ、約四百首が知られるほか、連歌の名手で『菟久波集(つくばしゅう)』に十三句入っている。
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| 成立・内容 寛元四年正月二十九日、二十七歳の後嵯峨天皇からわずか四歳の後深草天皇への譲位の儀に始まり、日次を追って建長四年(1252)十月に至る、幼帝近侍の女房の日記である。内容は宮廷の公的行事と日常奉仕生活に限られ、私生活は記されていない。 若干の例外的長文を除き、一日一事、百字から二百字程度の短章を、自己、あるいは妹少将内侍の和歌でしめくくるという形式に統一され、一七五章段(玉井幸助氏『弁内侍日記新注』による)に及ぶ。ただし一三○段あたりから本文に欠損が生じ、末尾に至るに従って甚だしく、ついに判読不能な状態になって終るので、全編の規模は不明である。 |
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| 『井蛙抄』には本記にない記事をあげて「弁内侍日記に書きて侍り」と記しており、『玉葉集』『増鏡』にも正元元年頃の記事が、本記と同趣の筆致で掲げられているので、あるいは後深草朝十四年間を通しての日記であったかと思われる。 文章は簡潔明快、ユーモラスな中に、幼帝中心の宮廷を盛り立てる真情にあふれ、日次記(にちじき)の形を取ってはいるが、構成上の統一をはっきり意識して執筆した、後年の回想記と考えられる。 定子皇后賛美に徹した『枕草子』日記的章段の系統を引き、幼くしてその治世を終った後深草天皇とその宮廷生活のめでたさ楽しさを、明るいエピソードの積み重ねをもって記録した、ユニークな日記作品である。 |
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| 諸本 内閣文庫蔵「弁内侍寛元記」、彰考館蔵「弁内侍日記」、島原市立図書館松平文庫蔵「後深草院弁内侍家集」をはじめ、静嘉堂文庫蔵和学講談所本・小諸蔵書本、群書類従本等多数現存するが、取り立てて大きな異同はなく、後半の欠損部分も諸本共通である。ただし永正九年(1512)豊原統秋(とよはらむねあき)著の音楽書『體源鈔(たいげんしょう)』第十二巻に、本記の本文から十五条が収録され、これにより七段分の大きな欠字を補い得る。底本には彰考館本と並ぶ善本と思われる内閣文庫蔵「寛元記」本を採用、彰考館本・松平文庫本・體源鈔(東北大学蔵、日本古典全集所収)をもって校訂した。章段番号および見出し名は、玉井氏『弁内侍日記新注』によった。 |
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