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※初出は『史学雑誌』31編12号[大正8(1919)年12月]
| 平泉澄氏の略歴(『国史大辞典』より) | |
| (ひらいずみきよし.1895〜1984) 大正・昭和時代の国史学者。明治28年(1895)2月15日、白山神社祠官平泉恰合の長男として福井県大野郡平泉寺村平泉寺(勝山市平泉寺町)に出生。第四高等学校を経て大正7年(1918)東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。大学院で研究の後、同12年、東京帝国大学文学部講師、同15年、文学博士となり、助教授。この年に『中世に於ける精神生活』『我が歴史観』『中世に於ける社寺と社会との関係』(学位論文)を上梓し、新進の国史学者として注目され、西欧における中世史研究の動向を視野に入れた斬新な学風は、昭和初年の歴史学界に影響を与えた。 昭和5年(1930)3月、在外研究のため渡欧、ドイツ・オーストリア・イタリア・フランス・イギリスなどの諸国を歴訪。翌年7月に帰国した後、同7年『国史学の骨髄』、同9年『建武中興の本義』を出版し、同8年には東京本郷区駒込曙町(文京区本駒込)に青々塾を開くなど、急速に国粋主義的な立場に傾き、いわゆる皇国史観の指導者となり、日本精神を鼓吹して大きな影響力を持った。同10年、東京帝国大学教授。同13年、日本思想史講座担当となり、国史学第一講座は兼担。同11年『万物流転』、同15年『伝統』を出版、同年3月、満洲国新京で皇帝溥儀(ふぎ)に進講。翌年太平洋戦争開戦とともに海軍勅任嘱託となった。 同20年8月、敗戦直後、大学に辞表を提出して平泉寺に帰り、翌年1月、白山神社宮司となった。同23年3月、公職追放。その後、同25年創刊の『芸林』、翌年創刊の『桃李』(のち『日本』と改題)、同28年創刊の『神道史研究』などに論考を発表、同27年刊行の『芭蕉の俤』をはじめ多くの著書をまとめ、同29年11月には、東京銀座に研究室を開設し、右派の国史学者として、影響力を持ち続けた。同59年2月18日、平泉寺で没。89歳。平泉寺に葬られる。 [参考文献.平泉澄『悲劇縦走』]
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| 平泉澄氏の見解 | 予輩の考え方 | |||
弘安四年蒙古襲来の折に、畏くも身を以て国難に代る事を伊勢大神宮に祈らせられた御逸事は、従来之を亀山上皇に帰し奉つて敢て疑ふ者がなかつた。然るに大正七年一月の史学雑誌に八代国治氏は「蒙古襲来についての研究」と題する論文を掲げ、これ実は後宇多天皇の勅願であつて決して亀山上皇の御願でないといふ新説を発表せられた。之を国史全体の上より見るならば、問題はさまで大きいとは云へないけれども、古来人ロに膾炙してゐる事柄だけに、著しく世人の注意を惹き、或は此の新説を決定的のものと信じ、或は彼此取捨に迷ふて当惑するに至つた。殊に困惑するのは国定教科書の責任者である文部当局並に小学乃至中学教員諸氏であらう。従つて予輩も又自ら諸方からこの問題に就いて度々意見を尋ねられ、この問題の成行には聊か注意して来たのである。でこゝに愚見を開陳してそれら質問に対する答案とすると共に、賢明なる諸彦の峻厳なる批判を仰がうと思ふ。 |
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| さて最初に御断りすべきは、予輩はこの問題に就いて何等特別の研究を積んだものでないといふ事である。八代、龍、栢原三氏の傑れた研究にかなり満足してゐる予輩は、三氏によつて提供せられた史料以外に別に新史料を漁らうともせず、それどころか三氏提供の史料も多くは三氏の論文で拝見するに止めて、一々其原本を査検するに至らなかつた。必ずしも懶惰の性其労を厭ふたのではない、史学界の俊才三氏の研究を或点まで信じたからである。故に今より説述する予輩の議論は、徹頭徹尾三氏の提供せられた材料の上に築かるゝもの、もしこの基礎が正当ならば、そは三氏の功績であり、もしそれが偽妄ならば、そは予輩の罪過である。 予は今只この問題に就いての予の答案を書かむとするものである。しかるに八代氏の論文は間もなく龍学士によつて批評せられ(史学雑誌第二十九編第四号)、ついで栢原昌三氏よりも韜晦的ながら反封意見が発表せられた(歴史と地理第二巻第二号)。而して八代氏は大正八年五月の史学会例会講演に於て、明快にこの両氏の説を反駁して上皇説を覆し、天皇説の根拠として三箇条を数へられた(史学雑誌第三十編第六号)。而して予の寡聞なる未だ其以後にこの問題に関して有力なる意見の発表を知らない。即ちこの問題は外見上八代氏の勝利に終つてゐる。従つて天皇説を信ずる人には最早多く言ふべき事は残つてゐないし、上皇説を信ずる人は必ずや此の八代氏の説を排撃しなければならない。しかるに予は上皇説を信ずるものである。従つて予の意見の論述は必然的に八代氏との闘である。 八代氏は学会の猛将である。其旗幟は常に明瞭であり、其議論は必ず果断である。ともすれば気息奄々たらんとする学界に、これは又何たる雄々しい態度であらうか。従つて学会は氏によつて幾度か新しい刺激を得、よつて以て真理究明の歩を進めたのは著しい事実である。狐疑逡巡曖昧模糊の態度は断じて真理に到達するの道ではない。かのフランシス・べーコンも「真理は混雑より出で来るよりも遙に速に誤謬より出で来るものなり」といつたではないか。予は常に八代氏の明快なる態度を尊敬するものである。而して今氏と干戈相見ゆるに際して、情義恩師の如きこの懇篤なる先輩と意見を異にする不幸を悲しみながらも、猶この猶この雄々しき猛将と闘ふの愉快を喜ぶものである。 さていよいよ、予の意見を述ぶるに当つて、先ず第一に八代氏が最後に残された所の天皇説の根拠三箇条を審査して、之を動揺し之を倒壊しなければならない。すべての議論は其後に於て初めて可能である。(以下三条の氏の説は、史学雑誌第三十編第六号例会記事による)
増鏡の文は甚だ明瞭を欠き、著しく混乱に陥つてゐるので、この記事のみによりて決定的の議論は出来ない。しかしながら天皇説を採れば脈絡も貫通し意味も徹底するといふのは、それは前後照応を求めんとする語法分析の見方であつて、西洋流の文法に拘わることなくなだらかに読み下すときは、むしろ上皇説に傾きたい。さればこそ古来この文を解して上皇の御祈願とし、永く疑ふ人もなかつたのである。(龍学士論文七四−七六頁)
後宇多天皇が公卿勅使を発遣せられ、稀代の御祈願があつた事は、事実疑ふべからざる所である。予輩は素より之を否定せんとするものではない。只こゝに問題とするのは、かの増鏡に見ゆる御逸事は、之を何院に帰し奉るべきかといふ事である。予の確信する所によれば当時未曾有の国難に際して、君臣上下共に希代の祈願を籠めたのである。天皇も稀代の御願があつた事を知つた予輩は、之より推しても猶更上皇に稀代の御願があつた事を信ずる。 |
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先にも述べた様に、この未曾有の国難に際して君臣上下の別なく、専心神明の加護を祈願した事は、種々の史料に散見する所であり、よしまた史料乏しくとも之を確信して差支ないものである。既に心を専らにして懸命に祈つたとすれば、かの神風を以て各々これ自己の所願の成就と信ずるは当然の事である。従つて天皇の勅使を発遣して大神宮に稀代の御願をこめさせられたのを知つてゐる公卿達は、神風を以て天皇御祈願の結果と信じたであらう。同時に上皇の院宣を奉じて大神宮に詣でたものは、之を自分の所願の結果と信じてゐるし(通海法印参詣記)、八幡に於ける祈祷の盛なる事を聞いてゐるものは、之を思円上人の法力と信じたものもあつたであらう(類纂高祖遺文録、富城入道殿御返事)。この外箱崎に祈つた人は、之を箱崎の神力と信じ、住吉に祈つた人は、之を住吉の神力と信じたに相違ない。ひとり日蓮が賊船覆没と虚報として信じなかつた外は、国民を挙げてかく祈願し、かく確信したに相違ない。しかれば公卿勅使の発遣に関係した公卿が、神風を以て天皇勅願の結果と信じたといふ事は、上皇が身を以て国難に代らん事と祈らせられたといふ説を覆す所の、何等の論拠でもあり得ない。 見来れば八代氏が挙げられた天皇説の根拠三箇条は、啻に決定的のものでないばかりか甚だ薄弱であり動揺し易いものである事が分る。而してこの説に致命的の打撃を与ふるものは、実にこれより述べんとする予が上皇説の確立である。 然らば予輩はいかにして上皇説を確立するか。予は茲に三氏の論文と予の研究とによつて得たる命題数個を捉へ来つて、之を一つの論理的系列に配したいと思ふ。
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これは増鏡より得た所の命題である。増鏡には「身を以て国難に代る」とは見えてゐない。只「大神宮へ御願に、我が御代にしもかゝる乱出てきて、誠にこの日本のそこなはるべくは御命をめすべきよし御手づから書かせ給ひける」とあるのみで、続本朝通鑑に「今若我国為異賊所掠、即神可先早奪我命」と訳したのは当を得てゐる。しかるに之を身を以て国難に代らん事を祈らせられたとするのは、大日本史以下の言ひ過ぎであつて、今度の諸氏も依然として襲用し、脱却するを得ないまでに、一般に誤り伝へられた謬説である。
これは増鏡に対する予輩の見解である。但し文法の上より論ずれば決して決定的のものではない。只虚心に読み下すときには自ら新院を受けると解せられる。古来上皇説のみ多く伝へられたといふ事実が実に之を証する。而してこの御願を「大宮院いとあさましき事なりと猶聞えさせ給ふぞことわりにあはれなる」とあつて、この御逸事は大宮院に関係して伝へられたのである。しかるに上皇天皇の御二方のうち、大宮院との関係の最も密接なるは御愛子なる上皇であらせられたといふ事が、龍学士の研究によつて明にせられた(史学雑誌第二十九編第四号)。かくて増鏡のみの解釈よりして先づ上皇説が有力となつて来た。但し子より孫が可愛いが人情の常とすれば、是は決して決定的のものではない。 |
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この一条は本論文の眼目であり、柱石である。よつて少しく之を説明しなければならない。 上皇が常に国を思ひ世を思はれた事は、左の御製に徴して明かである。
然し只これらの御製に現れたる限りに於ては、歴代の天皇いづれも国を思ひ世を思はせらるゝ中に於て、亀山上皇の特殊なる御叡慮は発揮されてゐないのである。後宇多天皇の御製の中にも亦之と同様の御精神は十分に認められるのである。問題は「命」である。命を捨てゝ国を愛し、国難を見るに忍びずして命をめすべき由、神に祈願せらるゝといふ、其の死に面接して緊強せる御精神である。これは歴代の天皇いづれもしか御座しました事であり、後宇多天皇亦しか御座しましたに相違ないが、特に亀山上皇に於て熱烈であり、明瞭に認知せらるゝといふ特相があるのである。再び上皇の御製を見よ。 |
「極めて厳粛悲壮なる人生観を有せられ」ていた平泉氏が、亀山上皇におかせられても「極めて厳粛悲壮なる人生観を有せられ」ることを期待した気持ちは理解できるが、それはかのフランシス・ベーコンが最も忌み嫌った先入見であり、偶像(イドラ)であると私は考える。 平泉氏の思考には、多くの事例の慎重な分析の中から一般法則を抽出するという、かのフランシス・ベーコンの重視した帰納法が全く欠落しており、むしろ、「上皇が常に国を思ひ世を思はれた」との先入見・偶像(イドラ)を疑うべからざる命題として、その命題に適合する事例を何が何でも見つけ出し、その命題に適合しない事例は無視・排除するという、かのフランシス・ベーコンが最も忌み嫌った俗流演繹法が顕著なのである。 |
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見よ。上皇の自然を観らるゝ厳粛なる御精神、自然を愛せらるゝ熱烈なる御精神、それは散りゆく花の果敢なき運命を悲んでさヘ、命にもかへばやと詠嘆せられたではないか。 自然に対してこの厳粛な、しかも溢るゝ熱情を有せられた上皇が、どうして人生に対して更に切実な御感慨なくして已まうや。果然予は左の御製を見出した。
不断の緊張を以て深く人生を痛感し、法の為に身をも惜しまざる此上皇が、其同じ御精神を国家生活の上に向けらるゝ時、茲に国の為には身命を捨てゝも奉仕しやうとの恐れ多き御叡慮が発現しなければならない。さればこそ上皇は声高らかに、
と吟ぜられたではないか。 この上皇の御性格を以て、弘安四年の未曾有の国難に遭遇せさせ給ふては、必ずや「誠にこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべきよし御手づから書かせ給」ふて、大神宮に祈らせるゝに相違ない。そは個人心理の考察よりして何人も是認すべき所である。かくて予の上皇説はこゝに深き心理的根拠を得たのである。この一項は実に予の上皇説の骨髄である。 |
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或は言ふかも知れない。右に挙げた「世のために」の御歌は弘安元年のものであつて弘安四年には何等の関係もないと。予は答へる、弘安元年にさへ既にこの御精神でないか、それが国家の運命の危急存亡に迫つた弘安四年にどうして捨命殉国の御祈願とならないで已まうかと。この関係を認めないならば、予の上皇説は著しく其力を失つてくる。或は半崩壊するかも知れない。しかしながら、もしこの必然の理路をしも認めないならば、そは明かに人格の否定であり道徳の瓦解であり、ひいて歴史研究の意義の大半を喪失せしむるものである事を覚悟しなければならない。
当時上皇は廿二社の御祈を初として、或は石清水・春日・日吉に御幸あつて御祈願あり、或は高野山に院宣を下し(高野春秋)、或は大円上人に命じ(蓋嚢抄)、頻りに異賊降伏の祈祷を専らにせられたのである。而して大神宮へは通海法印が院宣を泰じて参向した。しかるにその事は通海参詣記の外に所見なく、而して八代氏は此書を偽書として信用を拒否せられてゐるが故に、予は議論の順序として先づ此書の価値を判定しなければならない。 通海参詣記は続群書類従に大神宮参詣記として収められてゐるが、それは上巻のみであつて下巻を欠き、神宮司庁に蔵する文化五年の写本は完備してゐるが、誤つて巻の上下を転倒してゐる。同庁にはなほ他に古写本を伝ヘ、それは上巻のみで下巻を欠いてゐるけれども、筆写年代の古き点に於て価値を有する。其奥書は惜い事には年号を虫蝕せしめて、いつの書写か明かでないが、書風より察すれば室町時代のものたる事疑ない。而してその神鏡二面遙拝の条に、文永十年とかくべきを誤つて文明とかき、直ちに永と改めてゐる。かく文の字につづいて自然に明の字を出してくる心理を考察すれば、これは不用意の中に筆写年代を語るものであつて、聡明なる八代氏のいち早く看破せられた通り、恐らく文明年間、もしくはその後程遠からざる間に謄写せられたものであらう。而して既に栢原氏が注意せられた様に、文安三年の蓋嚢抄に見ゆる大神宮の記事は、必ずやこの通海参詣記より抄出摘録したものと察せらるゝが故に、この書は文安以前に遡るべきものである。 |
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次には此書の価値を其内容の審査によつて判定しなければならない。しかるに八代氏は其内容の点検によつてこの書を疑はれたのであるから、予は当然一々その難点を吟味しなければならない立場に在る。以下八代氏の難点を挙げて一々之を弁駁する。
此の書はいかにも普通の参詣記ではなく、ある人が弘安九年に太神宮へ参詣した折、もとよりゐたある僧と布衣の俗人とが問答するのを傍に立聞きして、それを記録した形に於て、神仏習合の説を宣べ、神宮の説明をしたものである。既にかゝる仮託の形式を以て現れたる以上、通海が第三人称の形に於て現るゝは又当然の事といはなければならない。名の実に副はざる感あり、写本題名の区々たる事などがあつても、本書はそれが為に偽作の疑を受くべきではない。
しかるに法楽舎は鎌倉時代に存在の証明がある。即ち清浄光寺に伝へた他阿随従の弟子宗俊の記述した一遍上人絵縁起第九に、正安三年十一月二祖他阿上人参宮して法楽舎に宿する事が見えてゐる。この縁起は著作年代は明記してないが、金蓮寺本は徳治二年の奥書があり、清浄光寺本は更に一層古かつたといふから、恐らく嘉元頃の草稿に係り、確実なものであるからして、鎌倉時代の末に法楽舎の存してゐた事は疑ふベくもない。従つて通海参詣記に法楽舎の事が屡々出て来ても何の不思議もなく、又その建治元年法楽舎建立の記事も之を信用して宜しい。後年明国との貿易船を有するに至つたこの法楽舎が、創立の目的は異国降伏の祈願にあつた事は、面白い因縁であるといはなければならぬ。 |
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いかにも本書は屡々風宮といつてゐるけれ共、それは普通に社の事を何宮と唱へるその俗称によつたもので、格式の上より厳密に抗議せられる程の深い子細はない。のみならず、それのみならず、本書自ら明に、当時宮号宣下の議あれども未だ其事なしといつてゐるではないか。「宮号アルヘキカトテ神宮ニ下サレテ禰宜カ請文ヲメサレ侍キ其後未ダ被宣下」。これ実に本書が、風宮に宮号の宣下あつた永仁元年三月より以前の著作である事を自ら証明するものである。
本書の文は左の通である。
公卿勅使の定まつたのは、弘安四年日記抄によれば明に六月である。而して諸寺諸社の祈祷も皆六月に始まつてゐる。それも其の筈六月一日に異賊来襲の報が太宰府より来たのであるから、この一国の運命がのるかそるか生きるか死ぬかといふ大変に際して、其月直ちに諸寺諸社の祈願を始めるのは当然の事である。伊勢に対する上皇並に天皇の御祈願も明かに六月に始まつたのである。従つて本書の記事はたまたまその中の公卿勅使の発遣が遷延して閏七月二日になり、而してそれを本書が詳記しなかつたといふ点を以て、偽作の疑を受けるべきではない。
予の見る所を以てすれば、それらの綸旨や院宣は、別に疑はしい廉はない。もしあるとすれば詳密に指摘せらるべきである。 |
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| 以上予は八代氏の難点に答へつゝ、通海参詣記の性質を吟味し価値を判定し来つた。之を要するに本書は何等疑惑を受くべき弱点を有せざるのみならず、研究の結果は益々その信用を増したのである。かくて本書は弘安九年の後間もなく、而して明かに永仁元年以前に、恐らくは通海法印によつて、もしくはその門下法弟によつて、仮託の形式に於て述作せられたものである。 通海参詣記は既に正しき信用を回復した。しからば今問題とする所の殉国の御祈願について、本書はいかなる資料を提供して問題の解決に貢献するか。 見よ、其の上巻風宮の条は、実に本問題と密接なる関係を有するのである。
右の記事より先づ第一に採るべきは、亀山上皇の伊勢太神宮への御祈願の熱烈なる事である。上皇は先づ祭主に命じて祠官と共に異国降伏を起請せしめられた。しかもそれのみに満足せられずして、別に醍醐三宝院の通海権僧正を遣して懇祈を抽んでさせられた。実はこの記事なくとも上皇が伊勢に祈らせられた事は疑の余地がない。既に国家浮沈の大変である、而して既に諸寺諸社に祈願して居られる、それにどうして国家の宗廟たる伊勢太神宮を閑却せられやうか。我が国に於て国家意識が緊張し国家の使命が考へらるゝ時には必ずや伊勢太神宮が追想せられ、信仰せられ、そして復活せしめられなければならない。果然亀山上皇の御祈願はかくの如く懇篤切実であつたのである。 |
しかしこゝにはまだかの「命を捨つる」といふ御叡慮は現れてゐない。しかるに栢原氏の指示せられた如く続門葉集に左の通りの通海法印の歌が載せてある。
この歌の詞書は御祈の旨趣を明記するを憚つた為に全体の意味は甚だ不徹底であるが、とにかくその御祈が「命」に関係したものである事は明確である。さて「命」に関した御祈としてはニつの場合が考へられる。第一は宝算長久の御祈であり、第二は捨命殉国の御祈である。しかるにこの詞書、この歌を味つて見るに、どうしても第一の場合であるとは思はれない。玉算の長久ならん事を祈らせらるゝとて、御告文に宸筆を染めさせられ、通海法印を伊勢に遣はさるゝといふ事は、考へ得ない事である。太神宮は国家の宗廟である。こゝにはあくまで国家といふ観念が先に立つ。延命長寿の私的祈願は寧ろ他に社寺があるであらう。ましてこの頃の公家として考量の中に入るべきは亀山上皇と後宇多天皇とであるが、上皇はかくまでして延命長寿を祈らせられる程、夫れ程生命に執着のおはしました方でないばかりか、常に命を捨てゝ自然と人生とを愛し、社会と国家とを愛せられた御方である。又後宇多天皇は猶御年少に御座しまし、かくまでして延命長寿の祈願をこめさせられる筈がない。かくて第一の場合が否定せられた後には、当然第二の場合即ち捨命殉国の御祈となる。しからば彼の歌は通海が公家の捨命殉国の御祈願を読み奉つた後に於て、自ら感慨に堪えずして私に国家の隆昌と玉算の長久とを祈り奉つたものと解すべきである。 |
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| 而してこの場合、前述した亀山上皇の御性格より考へて「公家」は必ずや上皇で御座しまさなければならない。或はいふ、「公家は天皇を指し奉る詞であつて、上皇のみを指した場合はない」と。これ非である。「公家」は必ずしも上皇に用ひ奉るべからざる詞ではない。汎称的に朝廷を指す以上、特定的に上皇を指し奉るのに何の不思議もない。尤も予輩は今公家といふ詞が、ひとり上皇のみを指した適切なる例証を挙げ難いが、龍学士の指示によつて増鏡新島守の条に、「院のおぼしかまふる事、しのぶとすれどやうやうもれ聞えて、ひがしざまにもその心づかひ」して「おほやけときこゆともみづからしたまむことならねば、かつは我身のしゆくせをもみるばかりと思ひ」なつた事の記事を見出した。こゝに「おほやけ」といふは、特定的に其人を求むれば明かに後鳥羽院である。而して「おほやけ」と「公家」とは全く同じ詞である。しからば既に「おほやけ」が上皇を指し奉つて用ひられてゐる以上、「公家」が亦上皇を指し奉るのに何の不都合があらうか。 もしかくの如くにしてこの通海の歌の詞書に見ゆる公家の御祈が捨命殉国の御祈願であり、而して公家が上皇を指し得る事となれば、全体を総合してこれは弘安四年に通海が院宣を奉じて伊勢に参向した折の事と解せられ、そしてその弘安四年六月の通海を遣かはされた時の御告文は、宸筆を以て一死殉国を祈らせられたものとなつてくる。予の上皇説はかくして更に力を得来つた。 |
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而してこの時通海は特に風宮に起請する所あり、閏七月一日の玄海灘の激風は、全くその霊験であると確信し、宮号の宣下を泰請したが故に、朝議あつて其手続に及ばれた事は、前に引いた通海参詣記の文に依て明かである。やがて永仁元年三月に同社に宮号を宣下せられたのは、必ずやこの奏請の結果に相違ない。
この一項は既に前の諸項に於て述べ来たつた所より出るものであるからして、更に喋々として説明を要しないであらう。 比の外、諸氏の論文に就いては、猶いふべき事がないでもないが、事煩はしきが故にすべて省略して、今は只自説を吐露するに止めて置く。 かくして予輩は弘安御願の御趣旨を闡明し、之を増鏡の記事と上皇の御性格と、並に其他種々の事情とに従つて、其亀山上皇の御宸念に出でたるものである事を推定した。戦はかくの如くにして終つた。予は今上皇のこの悲壮なる御心事に対し奉り、無限の感慨を以て論戦の筆を収める。(大正九年十月) |