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平泉澄 「亀山上皇殉国の御祈願」
(『我が歴史観』.大正15年.至文堂)

※初出は『史学雑誌』31編12号[大正8(1919)年12月]




平泉澄氏の略歴(『国史大辞典』より)
(ひらいずみきよし.1895〜1984)
 大正・昭和時代の国史学者。明治28年(1895)2月15日、白山神社祠官平泉恰合の長男として福井県大野郡平泉寺村平泉寺(勝山市平泉寺町)に出生。第四高等学校を経て大正7年(1918)東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。大学院で研究の後、同12年、東京帝国大学文学部講師、同15年、文学博士となり、助教授。この年に『中世に於ける精神生活』『我が歴史観』『中世に於ける社寺と社会との関係』(学位論文)を上梓し、新進の国史学者として注目され、西欧における中世史研究の動向を視野に入れた斬新な学風は、昭和初年の歴史学界に影響を与えた。
 昭和5年(1930)3月、在外研究のため渡欧、ドイツ・オーストリア・イタリア・フランス・イギリスなどの諸国を歴訪。翌年7月に帰国した後、同7年『国史学の骨髄』、同9年『建武中興の本義』を出版し、同8年には東京本郷区駒込曙町(文京区本駒込)に青々塾を開くなど、急速に国粋主義的な立場に傾き、いわゆる皇国史観の指導者となり、日本精神を鼓吹して大きな影響力を持った。同10年、東京帝国大学教授。同13年、日本思想史講座担当となり、国史学第一講座は兼担。同11年『万物流転』、同15年『伝統』を出版、同年3月、満洲国新京で皇帝溥儀(ふぎ)に進講。翌年太平洋戦争開戦とともに海軍勅任嘱託となった。
 同20年8月、敗戦直後、大学に辞表を提出して平泉寺に帰り、翌年1月、白山神社宮司となった。同23年3月、公職追放。その後、同25年創刊の『芸林』、翌年創刊の『桃李』(のち『日本』と改題)、同28年創刊の『神道史研究』などに論考を発表、同27年刊行の『芭蕉の俤』をはじめ多くの著書をまとめ、同29年11月には、東京銀座に研究室を開設し、右派の国史学者として、影響力を持ち続けた。同59年2月18日、平泉寺で没。89歳。平泉寺に葬られる。
[参考文献.平泉澄『悲劇縦走』]
(大隅和雄)



平泉澄氏の見解 予輩の考え方

 弘安四年蒙古襲来の折に、畏くも身を以て国難に代る事を伊勢大神宮に祈らせられた御逸事は、従来之を亀山上皇に帰し奉つて敢て疑ふ者がなかつた。然るに大正七年一月の史学雑誌に八代国治氏は「蒙古襲来についての研究」と題する論文を掲げ、これ実は後宇多天皇の勅願であつて決して亀山上皇の御願でないといふ新説を発表せられた。之を国史全体の上より見るならば、問題はさまで大きいとは云へないけれども、古来人ロに膾炙してゐる事柄だけに、著しく世人の注意を惹き、或は此の新説を決定的のものと信じ、或は彼此取捨に迷ふて当惑するに至つた。殊に困惑するのは国定教科書の責任者である文部当局並に小学乃至中学教員諸氏であらう。従つて予輩も又自ら諸方からこの問題に就いて度々意見を尋ねられ、この問題の成行には聊か注意して来たのである。でこゝに愚見を開陳してそれら質問に対する答案とすると共に、賢明なる諸彦の峻厳なる批判を仰がうと思ふ。


亀山上皇(1249〜1305.57歳).弘安4年(1281)当時、33歳。
後宇多天皇(1267〜1324.58歳).弘安4年当時、15歳。
「よはい【余輩・予輩】〔代名〕自称。私。われ。または、私たち。われわれ。明治初期に多用された文章語。学問のすゝめ〈福沢諭吉〉一・端書「此度余輩の故郷中津に学校を開くに付」、諷誡京わらんべ〈坪内逍遥〉五「余輩(ヨハイ)も同僚の反対論者と、屡々束髪の利害を論じて」、偽悪醜日本人〈三宅雪嶺〉濁〈林弁次郎〉「予輩、実に同一の肉塊にして斯くも急変するの速かなるを驚かずんばあらざるなり」(『日本国語大辞典』小学館)
 さて最初に御断りすべきは、予輩はこの問題に就いて何等特別の研究を積んだものでないといふ事である。八代、龍、栢原三氏の傑れた研究にかなり満足してゐる予輩は、三氏によつて提供せられた史料以外に別に新史料を漁らうともせず、それどころか三氏提供の史料も多くは三氏の論文で拝見するに止めて、一々其原本を査検するに至らなかつた。必ずしも懶惰の性其労を厭ふたのではない、史学界の俊才三氏の研究を或点まで信じたからである。故に今より説述する予輩の議論は、徹頭徹尾三氏の提供せられた材料の上に築かるゝもの、もしこの基礎が正当ならば、そは三氏の功績であり、もしそれが偽妄ならば、そは予輩の罪過である。

 予は今只この問題に就いての予の答案を書かむとするものである。しかるに八代氏の論文は間もなく龍学士によつて批評せられ(史学雑誌第二十九編第四号)、ついで栢原昌三氏よりも韜晦的ながら反封意見が発表せられた(歴史と地理第二巻第二号)。而して八代氏は大正八年五月の史学会例会講演に於て、明快にこの両氏の説を反駁して上皇説を覆し、天皇説の根拠として三箇条を数へられた(史学雑誌第三十編第六号)。而して予の寡聞なる未だ其以後にこの問題に関して有力なる意見の発表を知らない。即ちこの問題は外見上八代氏の勝利に終つてゐる。従つて天皇説を信ずる人には最早多く言ふべき事は残つてゐないし、上皇説を信ずる人は必ずや此の八代氏の説を排撃しなければならない。しかるに予は上皇説を信ずるものである。従つて予の意見の論述は必然的に八代氏との闘である。

 八代氏は学会の猛将である。其旗幟は常に明瞭であり、其議論は必ず果断である。ともすれば気息奄々たらんとする学界に、これは又何たる雄々しい態度であらうか。従つて学会は氏によつて幾度か新しい刺激を得、よつて以て真理究明の歩を進めたのは著しい事実である。狐疑逡巡曖昧模糊の態度は断じて真理に到達するの道ではない。かのフランシス・べーコンも「真理は混雑より出で来るよりも遙に速に誤謬より出で来るものなり」といつたではないか。予は常に八代氏の明快なる態度を尊敬するものである。而して今氏と干戈相見ゆるに際して、情義恩師の如きこの懇篤なる先輩と意見を異にする不幸を悲しみながらも、猶この猶この雄々しき猛将と闘ふの愉快を喜ぶものである。

 さていよいよ、予の意見を述ぶるに当つて、先ず第一に八代氏が最後に残された所の天皇説の根拠三箇条を審査して、之を動揺し之を倒壊しなければならない。すべての議論は其後に於て初めて可能である。(以下三条の氏の説は、史学雑誌第三十編第六号例会記事による)

「(一)増鏡の記事のみでも天皇の御所願と解すれば文章も調ひ脈絡も貫通して意味が徹底して無理がないと認められる。」

 増鏡の文は甚だ明瞭を欠き、著しく混乱に陥つてゐるので、この記事のみによりて決定的の議論は出来ない。しかしながら天皇説を採れば脈絡も貫通し意味も徹底するといふのは、それは前後照応を求めんとする語法分析の見方であつて、西洋流の文法に拘わることなくなだらかに読み下すときは、むしろ上皇説に傾きたい。さればこそ古来この文を解して上皇の御祈願とし、永く疑ふ人もなかつたのである。(龍学士論文七四−七六頁)

「(二)勘仲記、弘安四年日記抄に後宇多天皇公卿勅使発遣があつて御祈願のことが見え、稀代の御祈願としてあるから立派な傍証とすることが出来る。」

 後宇多天皇が公卿勅使を発遣せられ、稀代の御祈願があつた事は、事実疑ふべからざる所である。予輩は素より之を否定せんとするものではない。只こゝに問題とするのは、かの増鏡に見ゆる御逸事は、之を何院に帰し奉るべきかといふ事である。予の確信する所によれば当時未曾有の国難に際して、君臣上下共に希代の祈願を籠めたのである。天皇も稀代の御願があつた事を知つた予輩は、之より推しても猶更上皇に稀代の御願があつた事を信ずる。
「八代、龍、栢原三氏の傑れた研究にかなり満足してゐる予輩」が、「三氏によつて提供せられた史料以外に別に新史料を漁らうともせず、それどころか三氏提供の史料も多くは三氏の論文で拝見するに止め」た理由が、「史学界の俊才三氏の研究を或点まで信じたからである」というのは、意訳すると、「モノを考えるのは予輩のような優れた人間がやるから、君たちはしっかり史料集めに専念してくれたまえ。」ということであり、前年に大学を卒業したばかりの学者のタマゴ(数え年で25歳)の発言にしては随分失礼な言い草である。

八代國治氏は1873年生まれで、平泉澄氏より22歳年上である。当時、既に多大の業績を誇る「学会の猛将」であったが、中でも八代氏が名をあげたのは長慶天皇の即位問題の考証によってである。南朝衰微のため長慶天皇の事蹟は諸事明確でなく、江戸時代以来、そもそも即位したか否かすら争われていたのであるが、北朝が正統とされていた時期においては、別にそんなことは重要な問題ではなかったのである。しかし、明治末の南北朝正閏論争の結果、南朝が正統とされたために、長慶天皇の即位の有無を明確化することが、俄然極めて深刻な課題となり、結局、八代氏の研究が決め手となって、その即位が確定されたのである。つまり八代氏は、長慶天皇を第98代天皇たらしめた最大の貢献者なのである。

フランシス・べーコン(1561〜1626)「イギリスの政治家・哲学者。科学的方法と経験論との先駆者。スコラ哲学に反対し、学の最高課題は、一切の先入見と謬見即ち偶像(イドラ)を去り、経験(観察と実験)を唯一の源泉、帰納法を唯一の方法とすることによって自然を正しく認識し、この認識を通じて自然を支配すること(「知は力なり」)であるとした。主著『新オルガノン』」(『広辞苑』)
「猶この猶この」というしつこい表現は原文のままであり、転記ミスではない。猶この「雄々しき猛将」八代氏は国学院出身という経歴からも明らかなように、いわば純和風の学者であり、「かのフランシス・べーコン」云々は、「西欧における中世史研究の動向を視野に入れ」(大隅和雄氏)ていることを自負する平泉氏の、八代氏に代表される<視野の狭い前時代の学者>に対するイヤミである。
「増鏡の文は甚だ明瞭を欠き、著しく混乱に陥つてゐる」のであるから、最初に考えなければならないのは、そのような「混乱」が生じている原因のはずである。この点、栢原氏は「後世伝写の誤脱」だろうという説明をされているが、平泉氏は少し後の部分で、「不幸にして主格を省略した」と述べるだけであり、何らの説明も試みようとしない。

「かの増鏡に見ゆる御逸事は、之を何院に帰し奉るべきか」という選択の問題は、本来、「かの増鏡に見ゆる御逸事」が本当にあったのかどうかを検討した後に生ずる問題のはずであるが、平泉氏にはそうした堅実な論理的思考が見られない。

「(三)弘安四年閏七月一日の大風雨は神風で其の当時の人心が後宇多天皇御祈願の結果であると信じてゐることが勘仲記、弘安四年日記抄に見えて居るから、これ亦立派な傍証とすることが出来ると信ずる。」

 先にも述べた様に、この未曾有の国難に際して君臣上下の別なく、専心神明の加護を祈願した事は、種々の史料に散見する所であり、よしまた史料乏しくとも之を確信して差支ないものである。既に心を専らにして懸命に祈つたとすれば、かの神風を以て各々これ自己の所願の成就と信ずるは当然の事である。従つて天皇の勅使を発遣して大神宮に稀代の御願をこめさせられたのを知つてゐる公卿達は、神風を以て天皇御祈願の結果と信じたであらう。同時に上皇の院宣を奉じて大神宮に詣でたものは、之を自分の所願の結果と信じてゐるし(通海法印参詣記)、八幡に於ける祈祷の盛なる事を聞いてゐるものは、之を思円上人の法力と信じたものもあつたであらう(類纂高祖遺文録、富城入道殿御返事)。この外箱崎に祈つた人は、之を箱崎の神力と信じ、住吉に祈つた人は、之を住吉の神力と信じたに相違ない。ひとり日蓮が賊船覆没と虚報として信じなかつた外は、国民を挙げてかく祈願し、かく確信したに相違ない。しかれば公卿勅使の発遣に関係した公卿が、神風を以て天皇勅願の結果と信じたといふ事は、上皇が身を以て国難に代らん事と祈らせられたといふ説を覆す所の、何等の論拠でもあり得ない。

 見来れば八代氏が挙げられた天皇説の根拠三箇条は、啻に決定的のものでないばかりか甚だ薄弱であり動揺し易いものである事が分る。而してこの説に致命的の打撃を与ふるものは、実にこれより述べんとする予が上皇説の確立である。

 然らば予輩はいかにして上皇説を確立するか。予は茲に三氏の論文と予の研究とによつて得たる命題数個を捉へ来つて、之を一つの論理的系列に配したいと思ふ。

(一)弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事が伝へられてゐる。
「天皇も稀代の御願があつた事を知つた予輩は、之より推しても猶更上皇に稀代の御願があつた事を信ずる」というのは、極めて単純な三段論法であり、かのフランシス・ベーコンが最も忌み嫌ったはずの思考形態である。

(三)については、「閏七月一日の大風雨」が、閏七月二日に出発した中御門経任を使者としての御祈願の結果ではありえないこと、そして「其の当時の人心が後宇多天皇御祈願の結果であると信じてゐ」なかったことは別途述べた。元軍潰滅が京に伝わった直後には、2か月前に襲来の報が到達して以来の極度の緊張感・重圧感が一気に開放されたために一種の狂躁状態になっていて、細かいことをとやかく言う人もなかったであろうが、少し時間がたてば、大騒ぎして公卿勅使を発遣したのにねぇ、という話になるのは当然である。まして中御門経任は極めて敵の多い人物で毀誉褒貶が激しかったのだから、皮肉や中傷めいた発言が出てこないはずがないと私は思う。
通海(1234〜1305.72歳)
思円上人(叡尊.1201〜90.90歳)の元寇に際しての活発な行動についてはこちら。(和島芳男『叡尊・忍性』)
日蓮(1222〜82.61歳)

 これは増鏡より得た所の命題である。増鏡には「身を以て国難に代る」とは見えてゐない。只「大神宮へ御願に、我が御代にしもかゝる乱出てきて、誠にこの日本のそこなはるべくは御命をめすべきよし御手づから書かせ給ひける」とあるのみで、続本朝通鑑に「今若我国為異賊所掠、即神可先早奪我命」と訳したのは当を得てゐる。しかるに之を身を以て国難に代らん事を祈らせられたとするのは、大日本史以下の言ひ過ぎであつて、今度の諸氏も依然として襲用し、脱却するを得ないまでに、一般に誤り伝へられた謬説である。

(二)この御逸事を伝へた増鏡の文章は、不幸にして主格を省略した為に、上皇天皇の中いづれに擬定し奉るべきか明瞭でない。しかしなだらかに和文流に読み下すときは、むしろ近き主格「新院」を受けるとするの妥当であるばかりでなく、大宮院との関係は益々上皇説に傾き易い。

 これは増鏡に対する予輩の見解である。但し文法の上より論ずれば決して決定的のものではない。只虚心に読み下すときには自ら新院を受けると解せられる。古来上皇説のみ多く伝へられたといふ事実が実に之を証する。而してこの御願を「大宮院いとあさましき事なりと猶聞えさせ給ふぞことわりにあはれなる」とあつて、この御逸事は大宮院に関係して伝へられたのである。しかるに上皇天皇の御二方のうち、大宮院との関係の最も密接なるは御愛子なる上皇であらせられたといふ事が、龍学士の研究によつて明にせられた(史学雑誌第二十九編第四号)。かくて増鏡のみの解釈よりして先づ上皇説が有力となつて来た。但し子より孫が可愛いが人情の常とすれば、是は決して決定的のものではない。

この「論理的系列」の出発点たる第一の命題自体に論理的な問題があることは先に述べた。

「之を身を以て国難に代らん事を祈らせられたとするのは、大日本史以下の言ひ過ぎ」という意味が私にはよく理解できない。ただ単に「御命をめす」だけで「国難に代わ」らないなら、踏んだり蹴ったりであって、祈願する意味が全くない。「御命をめす」ことを「国難に代らん事」と同義として何の不都合もないはずである。

「増鏡の文章は、不幸にして主格を省略した」で済ませてよいのか、私は疑問に思っている。主格の省略により文意が極めて不鮮明となり、読者に著しい混乱を生ぜしめることは一読して明らかであり、著者がそれに気づかないはずがないと私は思う。ここも出発点なのであるから、「不幸にして」で済ませる前に、もっときちんと考えるべきである。平泉氏の思考方法は、常に出発点の命題を安易に設定しておいて、後は単純かつ強引な三段論法で済ませるから、結論がどこに向かうか分かったものではないのである。

大宮院(1225〜1292.68歳)

(三)しかるに上皇は極めて厳粛悲壮なる人生観を有せられ、緊張灼熱せる国家観念を抱かせられた。されば国家有事の際には「世のために身をば惜しまぬ心」であると、上皇自ら宣言せられた事さある。亀山上皇がこの上皇で御座します限り、蒙古襲来乾坤一擲の大変に際して、空しき命生きながらへて悲しき亡国の末路を見やうとは思召されなかつたに相違ない。是に於て「誠にこの日本のそこなはるべくは、御命をめすべきよし」大神宮へ祈願せられるのは当然の事である。上皇にこの御願あらせられた事は、かくして何人の疑惑をも許さない。

 この一条は本論文の眼目であり、柱石である。よつて少しく之を説明しなければならない。

 上皇が常に国を思ひ世を思はれた事は、左の御製に徴して明かである。

世のためも風をさまれと思ふかな花のみやこの春のあけぼの
津の国の難波のあしの世の中をのどかにとおもふわが心かな
すべらぎの神のみことをうけきつゝいやつぎつぎに世を思ふ哉
神風や伊勢のをとめが袖たれて祈るひつきに我が世やすけむ
ゆくすゑもさぞなさかえむ誓あれば神の国なる我が国ぞかし
ちはやぶる神の定めむわが国はうごかじものをあらがねの土
うれしくも豊葦原のよしよしとわがすゑずゑのまほるべき国
石清水たえぬながれは身にうけつ我が世の末を神にまかせむ
今もなほ久しく守れちはやぶる神のみづがき世々をかさねて

 然し只これらの御製に現れたる限りに於ては、歴代の天皇いづれも国を思ひ世を思はせらるゝ中に於て、亀山上皇の特殊なる御叡慮は発揮されてゐないのである。後宇多天皇の御製の中にも亦之と同様の御精神は十分に認められるのである。問題は「命」である。命を捨てゝ国を愛し、国難を見るに忍びずして命をめすべき由、神に祈願せらるゝといふ、其の死に面接して緊強せる御精神である。これは歴代の天皇いづれもしか御座しました事であり、後宇多天皇亦しか御座しましたに相違ないが、特に亀山上皇に於て熱烈であり、明瞭に認知せらるゝといふ特相があるのである。再び上皇の御製を見よ。

平泉氏によれば「上皇は極めて厳粛悲壮なる人生観を有せられ、緊張灼熱せる国家観念を抱かせられた」そうであるが、『増鏡』には、例えば「亀山院は恋心のおもむくまま、気に入った女性を見のがされることなく、度を過ごすぐらい手をつけられるうちに、腹違いの宮たちが大ぜいおできになった。だいたい、十三の御年から、お子様がお出来はじめになったので、たいそう乱りがわしいと思われるほどだ。(井上宗雄氏訳)」といった記述がある。亀山院が「緊張灼熱せる国家観念を抱かせられた」かはともかく、「極めて厳粛悲壮なる人生観を有せられ」ていなかったことだけは確実だと私は考える。
 「極めて厳粛悲壮なる人生観を有せられ」ていた平泉氏が、亀山上皇におかせられても「極めて厳粛悲壮なる人生観を有せられ」ることを期待した気持ちは理解できるが、それはかのフランシス・ベーコンが最も忌み嫌った先入見であり、偶像(イドラ)であると私は考える。

これらの御製は、弘安元年(1278)の弘安百首御詠昭慶門院御出題百首詠などからの抜粋である。確かに平泉氏のようにこれらの歌のみを列挙すると「上皇が常に国を思ひ世を思はれた事」が「明か」のように思えてくるのであるが、実際に『亀山院御集』を全部読んでみて、その全体の中でこれらの歌の位置づけを考えてみると、果たしてそんなことが言えるのだろうかと、かなり疑問になってくるのである。
 平泉氏の思考には、多くの事例の慎重な分析の中から一般法則を抽出するという、かのフランシス・ベーコンの重視した帰納法が全く欠落しており、むしろ、「上皇が常に国を思ひ世を思はれた」との先入見・偶像(イドラ)を疑うべからざる命題として、その命題に適合する事例を何が何でも見つけ出し、その命題に適合しない事例は無視・排除するという、かのフランシス・ベーコンが最も忌み嫌った俗流演繹法が顕著なのである。

命にもかへばやとおもふ心をば知らでや花のやすく散るらむ。

 見よ。上皇の自然を観らるゝ厳粛なる御精神、自然を愛せらるゝ熱烈なる御精神、それは散りゆく花の果敢なき運命を悲んでさヘ、命にもかへばやと詠嘆せられたではないか。

 自然に対してこの厳粛な、しかも溢るゝ熱情を有せられた上皇が、どうして人生に対して更に切実な御感慨なくして已まうや。果然予は左の御製を見出した。

このよには消ゆべき法のともし火を身にかへてこそ我は照さめ

 不断の緊張を以て深く人生を痛感し、法の為に身をも惜しまざる此上皇が、其同じ御精神を国家生活の上に向けらるゝ時、茲に国の為には身命を捨てゝも奉仕しやうとの恐れ多き御叡慮が発現しなければならない。さればこそ上皇は声高らかに、

世のために身をば惜しまぬ心ともあらぶる神は照し見るらむ

と吟ぜられたではないか。

 この上皇の御性格を以て、弘安四年の未曾有の国難に遭遇せさせ給ふては、必ずや「誠にこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべきよし御手づから書かせ給」ふて、大神宮に祈らせるゝに相違ない。そは個人心理の考察よりして何人も是認すべき所である。かくて予の上皇説はこゝに深き心理的根拠を得たのである。この一項は実に予の上皇説の骨髄である。

「其の死に面接して緊強せる御精神」が仮に亀山上皇にあったとしても、それを直接に和歌に詠み込むことがありえたのかは慎重に考察しなければならない問題である。例えば後醍醐天皇の皇子宗良親王は南朝屈指の歌人として名高いが、南朝軍を率いて各地を転戦し、現実の死の危険に幾度も晒され、明らかに「其の死に面接して緊強せる御精神」があったはずの宗良親王にしても、残された作品は優美な二条流の歌なのである。「現実の中から自分のこころに生じた感情を素直に詠む」といった作歌理念が誕生したのは明治に入ってからであり、鎌倉時代の貴族社会においては、そうした単純な態度は、むしろ卑しいものとして忌避されていたのではないかと私は考える。(貴族社会における政治と文学の関係について考えるための資料として、ドナルド・キーン氏の宗良親王に関する論評が参考になる。)
「自然に対してこの厳粛な、しかも溢るゝ熱情を有せられた上皇が、どうして人生に対して更に切実な御感慨なくして已まうや。」という単純な三段論法、硬直した論理性は、詩的言語の解釈には適切でない。また、平泉氏は「命」に執拗にこだわるのであるが、弘安百首には「恋」の題詠として、「ながらへばさてもあふよのたのみとて猶をしまるるわがいのちかな」という歌もある。平泉氏の論法で行けば、弘安元年に恋のために命を惜しんだ亀山上皇が、「弘安四年の未曾有の国難に遭遇せさせ給ふては、必ずや」命を惜しまないはずがない、ということにもなりかねないのである。
 或は言ふかも知れない。右に挙げた「世のために」の御歌は弘安元年のものであつて弘安四年には何等の関係もないと。予は答へる、弘安元年にさへ既にこの御精神でないか、それが国家の運命の危急存亡に迫つた弘安四年にどうして捨命殉国の御祈願とならないで已まうかと。この関係を認めないならば、予の上皇説は著しく其力を失つてくる。或は半崩壊するかも知れない。しかしながら、もしこの必然の理路をしも認めないならば、そは明かに人格の否定であり道徳の瓦解であり、ひいて歴史研究の意義の大半を喪失せしむるものである事を覚悟しなければならない。

(四)当時上皇は懸命に諸寺諸社に祈願をこめさせられたが、伊勢大神宮へは祭主に命じて祈願せしめ、別に又通海法印も院宣を奉じて参向して祈つた。彼が伊勢にて長命に関する歌をよんだのはこの時の事と思はれ、従つてかの捨命殉国の御祈願と照応し、ひいてかの御願が上皇の御願である事を推察せしむるに足る。而して通海はこの時殊に風宮に起請する所あり、かの敵艦覆没の大風は全く風宮の冥助と確信し、之を朝廷に奏上して官幣を賜はるべき旨申請した。やがて永仁元年三月に同社に宮号を宣下せられたのは実にこれが為である。かの捨命殉国の御願が亀山上皇の御叡慮であつた事は、是に至つてもはや疑を残さない。

 当時上皇は廿二社の御祈を初として、或は石清水・春日・日吉に御幸あつて御祈願あり、或は高野山に院宣を下し(高野春秋)、或は大円上人に命じ(蓋嚢抄)、頻りに異賊降伏の祈祷を専らにせられたのである。而して大神宮へは通海法印が院宣を泰じて参向した。しかるにその事は通海参詣記の外に所見なく、而して八代氏は此書を偽書として信用を拒否せられてゐるが故に、予は議論の順序として先づ此書の価値を判定しなければならない。

 通海参詣記は続群書類従に大神宮参詣記として収められてゐるが、それは上巻のみであつて下巻を欠き、神宮司庁に蔵する文化五年の写本は完備してゐるが、誤つて巻の上下を転倒してゐる。同庁にはなほ他に古写本を伝ヘ、それは上巻のみで下巻を欠いてゐるけれども、筆写年代の古き点に於て価値を有する。其奥書は惜い事には年号を虫蝕せしめて、いつの書写か明かでないが、書風より察すれば室町時代のものたる事疑ない。而してその神鏡二面遙拝の条に、文永十年とかくべきを誤つて文明とかき、直ちに永と改めてゐる。かく文の字につづいて自然に明の字を出してくる心理を考察すれば、これは不用意の中に筆写年代を語るものであつて、聡明なる八代氏のいち早く看破せられた通り、恐らく文明年間、もしくはその後程遠からざる間に謄写せられたものであらう。而して既に栢原氏が注意せられた様に、文安三年の蓋嚢抄に見ゆる大神宮の記事は、必ずやこの通海参詣記より抄出摘録したものと察せらるゝが故に、この書は文安以前に遡るべきものである。

平泉氏の上皇説の「深き心理的根拠」「骨髄」は、結局のところ、ある時こう言った人は、別の時にはこう言うだろう、という素朴な比較論であって、まともな心理分析ではなく、また文学論と呼べるようなものでもない。平泉氏は歴史学者としてはそれなりに優秀だったのかもしれないが、およそ文学的感受性に欠けており、氏の粗末で杜撰な感受性では、貴族社会の人々の複雑な心理を理解しようとしたり、高度に洗練された歌を解釈しようとすること自体がもともと無謀な試みだったように私には思われる。
私には平泉氏の論理は「必然の理路」どころか、硬直した屁理屈以外の何ものでもないように思われる。また平泉氏は「この必然の理路をしも認めないならば、そは明かに人格の否定であり道徳の瓦解であり、ひいて歴史研究の意義の大半を喪失せしむるものである事を覚悟しなければならない」と言うのであるが、いったい誰の「人格の否定」なのか、何故その程度のことが「道徳の瓦解」につながるのかが不分明であり、また誰が「覚悟しなければならない」のかという主格も不明瞭である。主格が不明瞭な文章を発端とする問題の論評に際して、主格が不明瞭な文章を書かれると困るのである。
風宮の宮号宣下がなされた永仁元年は1293年、弘安の役の12年後で、伏見天皇の親政時のこと。
亀山院らによる異賊降伏の祈祷の詳細についてはこちら(龍粛『蒙古襲来』)。

以下、通海参詣記に関しては、予輩は平泉氏の傑れた研究にかなり満足しており、史学界の俊才平泉氏の研究を或点まで信じているのであるが、個別論点の分析は小島鉦作氏の「大神宮法楽寺及び大神宮法楽舎の研究」に詳しいので、そちらで検討したい。なお、通海参詣記の概要についてはこちら(西山克「『通海参詣記』を語る)。
文永十年は1273年。文明年間は1469年から1487年まで。文安三年は1446年。
  次には此書の価値を其内容の審査によつて判定しなければならない。しかるに八代氏は其内容の点検によつてこの書を疑はれたのであるから、予は当然一々その難点を吟味しなければならない立場に在る。以下八代氏の難点を挙げて一々之を弁駁する。

(a)元来この書は参詣記ではなく伊勢神宮に関する雑事を書いたもので、その主意は神仏習合説に過ぎない様である、本書が通海の参詣記でない事は内容に通海法師とあるので認められる。或は通海が名を他人にかりて書いたものであると見られないでもないが、通読した所で通海の参詣記ではない様だ。殊に原本には伊勢神宮参詣記とあつて通海参詣記となつたのは、余程後世のことである。」

 此の書はいかにも普通の参詣記ではなく、ある人が弘安九年に太神宮へ参詣した折、もとよりゐたある僧と布衣の俗人とが問答するのを傍に立聞きして、それを記録した形に於て、神仏習合の説を宣べ、神宮の説明をしたものである。既にかゝる仮託の形式を以て現れたる以上、通海が第三人称の形に於て現るゝは又当然の事といはなければならない。名の実に副はざる感あり、写本題名の区々たる事などがあつても、本書はそれが為に偽作の疑を受くべきではない。

(b)「この書は鎌倉時代のことを誤つてゐる点が少くない。例へば法楽舎のことに就いても建治元年後宇多天皇の御祈願として異国降伏御祈の為に出来たとしてあるが、私の見聞したところでは古文書記録には南北朝以前に法楽舎の事が見えないから信用が出来ない様である。」

 しかるに法楽舎は鎌倉時代に存在の証明がある。即ち清浄光寺に伝へた他阿随従の弟子宗俊の記述した一遍上人絵縁起第九に、正安三年十一月二祖他阿上人参宮して法楽舎に宿する事が見えてゐる。この縁起は著作年代は明記してないが、金蓮寺本は徳治二年の奥書があり、清浄光寺本は更に一層古かつたといふから、恐らく嘉元頃の草稿に係り、確実なものであるからして、鎌倉時代の末に法楽舎の存してゐた事は疑ふベくもない。従つて通海参詣記に法楽舎の事が屡々出て来ても何の不思議もなく、又その建治元年法楽舎建立の記事も之を信用して宜しい。後年明国との貿易船を有するに至つたこの法楽舎が、創立の目的は異国降伏の祈願にあつた事は、面白い因縁であるといはなければならぬ。














弘安九年は1286年。


清浄光寺(しょうじょうこうじ)は神奈川県藤沢市にある時宗総本山。通称は遊行寺。

他阿(1237〜1319.83歳)「鎌倉中期の僧。諱は真教。号は他阿弥陀仏。京都、または豊前大野荘の人ともいう。建治3年(1277)、豊前大友氏のもとで、時宗の祖一遍の弟子となり、正応2年(1289)までその遊行に従い、一遍の没後、時衆などに推されて知識となり、おもに越前などの北陸と関東の地に遊行したのち、嘉元元年(1303)、相模の当麻に金光院(無量寺)を建て、同4年、教団の統制を図って道場制文を定めている。文保3年(1319)に83歳で寂す。京極為兼と和歌の交わりがあり、伝記は『一遍上人絵詞伝』、法語は『他阿上人法語』にまとめられている。(『鎌倉・室町時代人名辞典』.新人物往来社.菊地勇次郎氏)
嘉元年間は1303年から1306年まで。
建治元年は1275年。

 
(c)「又風宮のことが参詣記に見えるが、風宮は元は社であつて永仁元年三月に宮号を授けられたのである。然るにその前の弘安元年の参詣記に風宮となつてゐるのは、これまた疑しい。」

 いかにも本書は屡々風宮といつてゐるけれ共、それは普通に社の事を何宮と唱へるその俗称によつたもので、格式の上より厳密に抗議せられる程の深い子細はない。のみならず、それのみならず、本書自ら明に、当時宮号宣下の議あれども未だ其事なしといつてゐるではないか。「宮号アルヘキカトテ神宮ニ下サレテ禰宜カ請文ヲメサレ侍キ其後未ダ被宣下」。これ実に本書が、風宮に宮号の宣下あつた永仁元年三月より以前の著作である事を自ら証明するものである。

(d)「又異国降伏御願の公卿勅使の発遣を弘安四年六月としてゐるが勘仲記弘安四年日記抄等の日記によると閏七月一日となつてゐる。」(一日は二日の誤植か。)

 本書の文は左の通である。

「又去弘安四年六月公卿勅使ヲ発遣セラレテ異国降伏ノ御祈アリ、祭主院宣ヲ承テ祠官相共ニ起請シ侍リキ。通海法印又院宣ヲ承テ………。」

 公卿勅使の定まつたのは、弘安四年日記抄によれば明に六月である。而して諸寺諸社の祈祷も皆六月に始まつてゐる。それも其の筈六月一日に異賊来襲の報が太宰府より来たのであるから、この一国の運命がのるかそるか生きるか死ぬかといふ大変に際して、其月直ちに諸寺諸社の祈願を始めるのは当然の事である。伊勢に対する上皇並に天皇の御祈願も明かに六月に始まつたのである。従つて本書の記事はたまたまその中の公卿勅使の発遣が遷延して閏七月二日になり、而してそれを本書が詳記しなかつたといふ点を以て、偽作の疑を受けるべきではない。

(e)「其の他綸旨や、院宣等が援用せられてあるが疑しい様なものである。」

 予の見る所を以てすれば、それらの綸旨や院宣は、別に疑はしい廉はない。もしあるとすれば詳密に指摘せらるべきである。



「弘安元年の参詣記」とあるが、これは弘安九年の誤植。永仁元年は1293年、弘安9年は1286年。
 以上予は八代氏の難点に答へつゝ、通海参詣記の性質を吟味し価値を判定し来つた。之を要するに本書は何等疑惑を受くべき弱点を有せざるのみならず、研究の結果は益々その信用を増したのである。かくて本書は弘安九年の後間もなく、而して明かに永仁元年以前に、恐らくは通海法印によつて、もしくはその門下法弟によつて、仮託の形式に於て述作せられたものである。

 通海参詣記は既に正しき信用を回復した。しからば今問題とする所の殉国の御祈願について、本書はいかなる資料を提供して問題の解決に貢献するか。

 見よ、其の上巻風宮の条は、実に本問題と密接なる関係を有するのである。


「又去弘安四年六月公卿勅使を発遣セラレテ異国隆伏の御祈アリ。祭主院宣ヲ承テ祠官相共に起請シ侍リキ。通海法印又院宣ヲ承テ内法ニツキテ直ニ法楽舎ニ下着シテ御祈ヲ始ム。其時院宣イマタタツネトリ侍ラス。是ニヨリテ殊ニ風神ニ起請モ申ケルニ、閏七月一日巽方ノ風俄ニ発テ海上鳴動シ、霊光赫奕トシテ異賊忽ニ漂没ノ間、通海法印当宮ノ冥助ト存テ申侍ケルハ、当社ハ勢州ノ本主トシテ風雨ヲ司トル霊神也(中略)、コゝニ去弘安四年夏ノコロ、蒙古ノ先鋒亡宋ノ艨艟海ニ三千旌旗日ヲカゝヤカス、シカルニ御祈ヲ承テ神宮ニ奏テトシナヘニ懇祈ヲヌキンデ敵国ノ降伏ノ処ニ、飛簾風ヲヨコシテ賊船タチマチニ漂泊シ、陽候浪ヲアケテ群兵速ニ退散ス。其ノ時波瀾ニ光曜アリテ海陸霊瑞ヲ朗ニス。(中略)実ニコレ宗廟ノ冥慮也、定風社ノ威神ニ非スヤ。(中略)官社ニツラ也テ早ク宮号ニアヅカリ、官幣ヲ領テ神威ヲマサレハ、異国草ノ如ニシテ靡然トシテ風ニ随ワム者歟ト申ケレハ、宮号アルヘキカトテ神宮ニ下サレテ禰宜カ請文ヲメサレ侍キ。其後未ダ被宣下」。(古写本を本とし、文化本により校合す。)

 右の記事より先づ第一に採るべきは、亀山上皇の伊勢太神宮への御祈願の熱烈なる事である。上皇は先づ祭主に命じて祠官と共に異国降伏を起請せしめられた。しかもそれのみに満足せられずして、別に醍醐三宝院の通海権僧正を遣して懇祈を抽んでさせられた。実はこの記事なくとも上皇が伊勢に祈らせられた事は疑の余地がない。既に国家浮沈の大変である、而して既に諸寺諸社に祈願して居られる、それにどうして国家の宗廟たる伊勢太神宮を閑却せられやうか。我が国に於て国家意識が緊張し国家の使命が考へらるゝ時には必ずや伊勢太神宮が追想せられ、信仰せられ、そして復活せしめられなければならない。果然亀山上皇の御祈願はかくの如く懇篤切実であつたのである。

 しかしこゝにはまだかの「命を捨つる」といふ御叡慮は現れてゐない。しかるに栢原氏の指示せられた如く続門葉集に左の通りの通海法印の歌が載せてある。
「公家の御祈の為に太神宮へ詣うでゝ、宸筆の御告文を読み奉るとて、伊勢の国は常世の浪の敷浪寄する国なり、人の命も長かるべしと御託宣ありける事を思ひ出でゝ、
 やそちまで祈る心は伊勢の海や常世の浪の数にまかせて、」

 この歌の詞書は御祈の旨趣を明記するを憚つた為に全体の意味は甚だ不徹底であるが、とにかくその御祈が「命」に関係したものである事は明確である。さて「命」に関した御祈としてはニつの場合が考へられる。第一は宝算長久の御祈であり、第二は捨命殉国の御祈である。しかるにこの詞書、この歌を味つて見るに、どうしても第一の場合であるとは思はれない。玉算の長久ならん事を祈らせらるゝとて、御告文に宸筆を染めさせられ、通海法印を伊勢に遣はさるゝといふ事は、考へ得ない事である。太神宮は国家の宗廟である。こゝにはあくまで国家といふ観念が先に立つ。延命長寿の私的祈願は寧ろ他に社寺があるであらう。ましてこの頃の公家として考量の中に入るべきは亀山上皇と後宇多天皇とであるが、上皇はかくまでして延命長寿を祈らせられる程、夫れ程生命に執着のおはしました方でないばかりか、常に命を捨てゝ自然と人生とを愛し、社会と国家とを愛せられた御方である。又後宇多天皇は猶御年少に御座しまし、かくまでして延命長寿の祈願をこめさせられる筈がない。かくて第一の場合が否定せられた後には、当然第二の場合即ち捨命殉国の御祈となる。しからば彼の歌は通海が公家の捨命殉国の御祈願を読み奉つた後に於て、自ら感慨に堪えずして私に国家の隆昌と玉算の長久とを祈り奉つたものと解すべきである。


「続門葉和歌集(しょくもんようわかしゅう)鎌倉最末期の私撰集。10巻。文治年間に成る門葉集(散佚)に倣って、醍醐寺報恩院の吠若麿・嘉宝麿が醍醐寺の僧侶達の秀歌1000首を編んだもの。その成立は嘉元3(1305)年12月(真名序)。憲淳が監修し序文を執筆したらしい。(中略)長尾宮歌合(建暦元・1211年、永仁元1293年、同2年)7首・東大寺若宮歌合3首・同八幡宮歌合1首・禅林寺為兼主催歌合3首・嘉元元年仙洞歌合4首など歌合35首、定数歌50首、贈答歌53首などを撰集資料にしており、作者には為氏・為世・為兼・為相・為実・実教・光俊らの名が見える。醍醐寺歌壇を知る貴重な私撰集である。」(『和歌文学事典』桜楓社)






「後宇多天皇は猶御年少に御座しまし、かくまでして延命長寿の祈願をこめさせられる筈がない」とあるが、亀山上皇も弘安4年当時はまだ33歳である。
 而してこの場合、前述した亀山上皇の御性格より考へて「公家」は必ずや上皇で御座しまさなければならない。或はいふ、「公家は天皇を指し奉る詞であつて、上皇のみを指した場合はない」と。これ非である。「公家」は必ずしも上皇に用ひ奉るべからざる詞ではない。汎称的に朝廷を指す以上、特定的に上皇を指し奉るのに何の不思議もない。尤も予輩は今公家といふ詞が、ひとり上皇のみを指した適切なる例証を挙げ難いが、龍学士の指示によつて増鏡新島守の条に、「院のおぼしかまふる事、しのぶとすれどやうやうもれ聞えて、ひがしざまにもその心づかひ」して「おほやけときこゆともみづからしたまむことならねば、かつは我身のしゆくせをもみるばかりと思ひ」なつた事の記事を見出した。こゝに「おほやけ」といふは、特定的に其人を求むれば明かに後鳥羽院である。而して「おほやけ」と「公家」とは全く同じ詞である。しからば既に「おほやけ」が上皇を指し奉つて用ひられてゐる以上、「公家」が亦上皇を指し奉るのに何の不都合があらうか。

 もしかくの如くにしてこの通海の歌の詞書に見ゆる公家の御祈が捨命殉国の御祈願であり、而して公家が上皇を指し得る事となれば、全体を総合してこれは弘安四年に通海が院宣を奉じて伊勢に参向した折の事と解せられ、そしてその弘安四年六月の通海を遣かはされた時の御告文は、宸筆を以て一死殉国を祈らせられたものとなつてくる。予の上皇説はかくして更に力を得来つた。


「汎称的に朝廷を指す以上、特定的に上皇を指し奉るのに何の不思議もない」というのも平泉氏の得意とする単純比較の論法である。しかし、言葉というのは、そうした単純な論理で成り立っているのではないから、「尤も予輩は今公家といふ詞が、ひとり上皇のみを指した適切なる例証を挙げ難い」にもかかわらず、このような断定をするのはあまりに乱暴である。同様に「既に「おほやけ」が上皇を指し奉つて用ひられてゐる以上、「公家」が亦上皇を指し奉るのに何の不都合があらうか。」というのも乱暴な話である。



不確実な仮定を重ねた上で「全体を総合」すれば大抵のことは説明できてしまうのであって、「予の上皇説はかくして更に力を得来つた」とは言えない。
 而してこの時通海は特に風宮に起請する所あり、閏七月一日の玄海灘の激風は、全くその霊験であると確信し、宮号の宣下を泰請したが故に、朝議あつて其手続に及ばれた事は、前に引いた通海参詣記の文に依て明かである。やがて永仁元年三月に同社に宮号を宣下せられたのは、必ずやこの奏請の結果に相違ない。

(五)第一項に述べた如く、この御願は国家もし減亡すべくは其に先つて我が命をめせとの御趣旨であつて、これが二つの点に於て本問題解決の光を放つ。第一には当時宝算御十五歳の年少気鋭なる御宇多天皇の御願としては、余りに消極的であつて不適当であるのに反し、既にこの世の旅の半を越えさせられ、前にも述べた様に切実悲痛なる人生観をいだいて居られた亀山上皇の御願としては、最も適当なるを覚ゆる事、第二はこの御願の余りに消極的である事が、たまたま通海参詣記の記事の、上皇の御願と、直接に風を起す力となつた風宮の起請とを別々とする、左様な考の成立を可能ならしめるものである事。

  この一項は既に前の諸項に於て述べ来たつた所より出るものであるからして、更に喋々として説明を要しないであらう。

 比の外、諸氏の論文に就いては、猶いふべき事がないでもないが、事煩はしきが故にすべて省略して、今は只自説を吐露するに止めて置く。

 かくして予輩は弘安御願の御趣旨を闡明し、之を増鏡の記事と上皇の御性格と、並に其他種々の事情とに従つて、其亀山上皇の御宸念に出でたるものである事を推定した。戦はかくの如くにして終つた。予は今上皇のこの悲壮なる御心事に対し奉り、無限の感慨を以て論戦の筆を収める。(大正九年十月)








「既にこの世の旅の半を越えさせられ」とあるが、亀山上皇は弘安4年当時、まだ33歳であり、元気溌剌・意気軒昂たる時期である。上皇は57歳で亡くなったから、確かに客観的には「既にこの世の旅の半を越えさせられ」ていたのであるが、亀山上皇自身は「既にこの世の旅の半を越えさせられ」たとは思ってもみなかったはずである。また、前にも述べた様に、亀山上皇は「切実悲痛なる人生観をいだいて居られた」訳ではなかった。







予輩も平泉澄氏の悲壮なる御心事に対し奉り、無限の感慨を抱かざるをえない。悲壮とアホは同居しうるものなのだなあ、と。(平成10年6月)



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