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今谷明 「殉国の『御祈願』」
(小学館『創造の世界』第104号.「王権の日本史」第12回「国難きたる」p.126)





※今谷明氏の略歴はこちら

※ホームページの構成、特に『増鏡』関係を若干変更する予定であり、それまで、とりあえず「参考文献」に掲載しておきます。



今谷明氏の見解

私の考え方


(2)亀山上皇の祈祷



 元寇両役でわが側で戦ったのは、「狼勇殺を嗜む」鎌倉武士のみではなかった。当時の観念では、戦勝祈願を受けて“諸仏”や「神々」が戦争に参加したからこそ勝てたのだと認識されたのである。従って現代の物理的、科学的観点からのみこの戦争を評価しては事(こと)の一面を見失うことになる。

藤原兼仲(1244〜1308.65歳)「父は権中納言藤原経光。母は正三位藤原親実の娘。弱冠にして文章道を修め、父祖が近衛家に仕えたように、近衛一門の鷹司兼平に仕えた。兼平の執事、兼平婿の近衛家基の執事となる。弘安3(1280)年、兄兼頼が没したために家嫡と目されるようになる。同7(1284)年に蔵人となり、弁官を経て、正応5(1292)年に参議。時に49歳だから、名家の名流と比べると著しく遅い昇進である。ついで権中納言となり、永仁2(1294)年に辞任。また正応5(1292)年に日野資宣の没後を襲って日野長者となり、嘉元3(1305)年にその地位を日野俊光に与奪している。兼仲の家は勘解由小路と称され、みな権中納言にまで昇る。にもかかわらず、他の名家の家に比べると、治天の君に用いられていない。これは同家があまりに近衛家に近かったためであろう。」(本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』「廷臣小伝」より)
 そこで諸記録によって、当時の人々が戦勝をどう認識していたかを見ていこう。まず文永度であるが、既述のように「逆風」の事実を記した勘解由小路(かでのこうじ)兼仲は、

逆風の事、神明の御加被歟(か)。止事(やむごと)なく貴(たつと)ぶべし。其憑(たのみ)少なからざる者也(ものなり)。(『勘仲記』文永十一年十一月六日条)

 兼仲が「逆風」と記した自然現象を、早くも「神風」ととらえた見方は、翌建治元年の薩摩国分寺奏状に見えるが、『歴代皇記』は「賊船二百余艘漂倒、神威のカと云々」とあり、鎌倉末成立と推定される『八幡愚童記』は十月二十日夜の神異として、

今度既に武力尽果てゝかゝる大勢敗北して逃げ失せにしは、国の危(あやう)き限無き。今はこうと見えし夕過る頃、白装束の人三十人計(ばかり)筥崎宮より出て(中略)怪しき火燃え巡り、船二艘現れて皆討たれ、偶々沖に逃のびたるは、大風に吹沈められにけり。

と神威による暴風を強調している。これが南北朝期になると、「神明威を現(あらわ)し、形を現して防がれにけり。大風俄に起りて、数万艘の賊船みな潦倒破滅しぬ。末世と雖も神明の威徳不可思議なり」(『神皇正統記』)と誇張されて神威が語られる傾向が出てくる。


『勘仲記』の著者勘解由小路兼仲は1243年生まれの後深草院と同世代(1歳下)であり、文永の役のあった1274年には31歳、弘安の役のあった1281年には38歳である。
 兼仲は弘安役でも「去朔日、大風波を動かし賊船多く漂没すと云々。(中略)今度の事、神鑑炳焉(へいえん)の至也。天下大慶何事か之(これ)に過ぐべけん乎(や)。直事(ただごと)に非(あらざ)る也。末代と雖も猶止事(やんごと)なき也。弥(いよい)よ神明仏陀を尊崇すべきもの歟(か)」と神仏の加護を特筆している。

 では神仏の参戦を促した祈祷はどのように行われたか。
弘安度の朝廷祈祷を瞥見すると、

5.8廿二社奉幣 6.4廿二社祈祷令、山門四王院大法楽 6.18仙洞心経三十万巻転読 6.19新院御所祈祷 7.22神宮に勅使差遣

 右のうち仙洞祈祷につき略述すると、心経転読は公卿殿上人、上北面の武士まで動員し、一人千二百巻宛、参加人員は二五○人に及び、別に宸殿でも大般若経の転読、さらに諸社寺での祈祷があった。

弘安4(1281)年の6月1日に異賊襲来の知らせが京都に到達し、祈祷がいよいよ活発に行われることとなった。今谷氏は「7.22神宮に勅使差遣」と書かれているが、この日時の関係は重要なので、もう少し丁寧に説明したい。即ち、6月9日に伊勢神宮公卿勅使発遣の事が議せられ、その日時は7月22日、勅使は中御門経任と決まったのだが、実際の出発はかなり遅れ、翌閏7月2日となったのである。ところが暴風のために前日の閏7月1日には既に元軍は壊滅しており、それを知らずに中御門経任は出発したのである。
 一方関白鷹司兼平第でも六月二十日に一族あげての祈祷次第が決められた。『勘仲記』から摘記すると、

@諸社千度百度詣(春日と大原野社は千度、賀茂以下百度)
A氏三社(春日・大原野・吉田)御読経
B読経(興福寺・延暦寺・高山寺・東大寺・石清水・清水寺・行願寺、別に心経六四万巻を鷹司一門で読誦)
C仁王講千座(多武蜂・法成寺・東北院・平等院・法性寺・鷹司第)
D心経以下五経を一日書写供養(鷹司家司)
E真言称名(不動院・金輪・愛染名十〜三十万反)
F仏像の建立供養(一字金輪明王・不動明王、別に印仏摺写)
G五大尊の護摩供養法

 さすがに摂※家の貫禄で夥しい仏神事であるが、さきの仙洞祈祷はこれ以上の規模と推定され、近衛以下の他摂家でもそれぞれ祈願が競われた。治天の君、亀山上皇個人については、さきの仙洞心経転読の他、六月二十日には宸筆を山陵八所に献じ、同日石清水に行幸参籠、七月十一日に春日社行幸、十九日に日吉社行幸(一夜参籠、社頭神楽)という具合いに多忙を極めた。

鷹司兼平(1228〜1294.67歳)は国文学会の通説(定説)により、『とはずがたり』に登場する変態老人「近衛の大殿」と決めつけられてしまっている人物。五摂家のひとつ鷹司家の祖。1228年生まれなので、後深草院二条の父雅忠と同年の生まれである。勘解由小路兼仲は、この鷹司兼平に仕えていたために、『勘仲記』は兼平の動向が詳細に記録されている。
 武家(幕府)も負けていず、四月二十日如法尊勝法、七月二十四日尊星王護摩以下を修し、北条時宗は自ら血書して金剛経以下を写経し、鶴岡八播以下東国社寺あげて祈祷に動員した(以上相田二郎前掲書)。しかし以上のいずれにも増して著名な祈祷は、亀山上皇が伊勢神宮に捧げた“殉国の御祈願”と称せられるものである。

 『増鏡』に、

弘安も四年になりぬ。(中略)その頃蒙古起るとかやいいて、世の中騒ぎ立ちぬ。色々様々に恐しう聞ゆれば、本院(後深草)・新院(亀山)は東(あずま)へ御下あるべし、内(後宇多)・東宮(伏見)は京にわたらせ給て、東の武士共上(のぼ)りて候べし等沙汰ありて、山々寺々御祈数(かず)知らず、伊勢の勅使に経任大納言まいる。新院も八幡へ行幸なりて、西大寺の長老(叡尊)召されて真読の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、我御代(わがみよ)にしもかゝる乱(みだれ)いできて、誠にこの日本の損(そこ)なわるべくは、御命を召すべきよし、御手ずから書かせ給ひけるを、大宮院(亀山生母)いとあさましき事なりと、猶諫(いさ)め聞えさせ給うぞ、理(ことわり)にあわれなる。

と、「上皇が御身を以てこの未曾有の国難に殉ぜられんと、畏くも大神宮に御祈念あらせられた」(相田前掲書)旨が記されている。

北条時宗(1251〜1284.34歳).鎌倉幕府第8代執権。

相田二郎(1897〜1245.49歳)氏の「前掲書」とは『蒙古襲来の研究』(吉川弘文館.初版昭和33年)のこと。


伊勢神宮の地図はこちら伊勢市のホームページより)。










この「相田前掲書」に関する今谷氏の記述は事実に反する。後述する。

湯池丈雄(1847〜1913.67歳)は元熊本藩士、西南の役では政府軍に従軍して出陣、明治19年(1886年)に40歳で福岡警察署長となっている。今谷明氏は「旧藩士あがりの地元警察官」といかにも軽蔑した口調で語るが、単なる「警察官」と「警察署長」では社会的地位は全く異なる。また、「募金に十七年も要した」とあるが、これは建碑運動に2つのヤマがあって前後の間が空いただけで、17年間もだらだら金を集めた挙げ句、やっと建てることができた、というようなものではない。実際に碑が建立された時期の動きは極めて活気に満ちている。さらに、細かいことではあるが銅像の鋳造が終わったのは1904年8月、除幕式が行われたのが12月25日で、同年2月の日露開戦から相当経過しており、激戦の最中である。

 湯地丈雄と亀山上皇像の詳細はこちら。(川添昭二『蒙古襲来研究史』) 
 右に揚げた亀山上皇の銅像(※写真省略)は、右の史料に基いて日露戦直前の明治三十七年(1904)、博多に建立されたものである。銅像建立の発起人は湯池丈雄なる旧藩士あがりの地元警察官であり、募金に十七年も要したという。

 面白いことに、ほぼ同時に同地に建立された日蓮の銅像は、像高が上皇の倍の十メートルに及ぶもので、私が夏の暑い日訪れたとき、上皇像の周囲には人影も見当らなかったが、日蓮像の回りは巡拝者がひしめいていた。

 要するにこの上皇像は現在は一般には忘れられた存在で、元寇に関する一般向けの啓蒙書には、写真はおろか言及(右の『増鏡』が伝える説話も含め)すらされていない。

 筆者の遇目の範囲では、わずかに『国史大辞典』(吉川弘文館)の「文永弘安の役」の項(川添昭二氏執筆)に、上皇銅像写真が掲げられているのがほとんど唯一の例であった。元寇に関する最も権威ある研究書、相田二郎の『蒙古襲来の研究』には「国難に殉ぜられんとし給う御祈願」との見出しで特筆されているのだから、戦後概説書の無視は、意図的なタブー扱いの観がある。

 ところが、筆者が小学生時代の昭和二十年代後半には、未だ皇国史観的残滓のある図録が出回っていたらしく、学校図書室に、暴風に翻弄される蒙古船の絵と「世の為に身をば惜まぬ心とも荒振る神は照し見るらむ」の“御製”が載った歴史図録(もちろん戦後出版)を見た記憶がある。

 このような元寇に関する亀山上皇の扱いの変遷は、それ自体近代精神史のある一面を象徴して興味深い問題といえるが、大正時代にはその「殉国」の祈願主をめぐり学界に論争さえあったのである。



この「世の為に身をば惜まぬ心とも荒振る神は照し見るらむ」という歌は弘安元年の作で、直接に元寇に際して詠んだものではない。この和歌の評価も、殉国御願論争のひとつの争点になっている。
 即ち、大正七年(1918)八代国治は、願主は亀山上皇に非ず、後宇多天皇なるべきを主張し(「蒙古襲来に就ての研究」『史学雑誌』)、これに対しやはり史学者の龍粛(りょうすすむ)(「弘安の御願について」同)、栢原昌三(「弘安の御祈願と通海権僧正」『歴史と地埋』)があいつぎ反論を唱えたが、八代は翌年五月、龍・栢原両説に反駁し、両氏また沈黙してここに八代説は確定したかに見えた。

 然るに東大卒業直後の平泉澄が翌年末「亀山上皇殉国の御祈願」(『史学雑誌』)を発表して猛然と八代説に咬みつき、後宇多説への五ヶ所の疑問を指摘し、八代説を崩し去ったのである。軍配が平泉側に上ったことは、戦中成立の相田著作(『蒙古襲来の研究』)においても上皇説が踏襲されていることから裏付けられる。

八代国治(1873〜1924.52歳)
龍粛(1890〜1964.75歳)
平泉澄(1895〜1984.90歳)

大正8年(1919)に平泉澄氏が論争に参加した時は、数え年で若干25歳である。実際に読んでみると、当時、既に長慶天皇の研究などで歴史学会に確固たる地位を占めていた22歳上の八代国治氏に対して極めて攻撃的な姿勢をとっており、なかなか元気があって宜しいのであるが、周りは随分びっくりしただろうと思われる。

この「相田著作」についての説明も事実に反する。後述する。

 殉国捨命の祈主が天皇か上皇かなどは、戦後のマルクス主義史家にとってはどうでもよい問題なのであろう。しかしながら、国家的祈願の主催者が上皇か天皇かは、王権や国制史にとっては重大問題である。

 
 先述のように摂関や時宗も独自の祈祷体系を保持しており、当時はどの権門も自ら願主として各寺社に祈祷を行うことができた。院や天皇の祈祷もその限りでは相対的なものであったことが知られる。

 しかし弘安四年六月、来襲報知直後の各寺社の祈祷は仙洞議定による院宣を以て発令されている事実(『弘安四年日記抄』)から判るように、国家的祈祷体系の頂点に立つのはあくまで国王たる亀山上皇であって、関白兼平や執権時宗は決して願主にはなれないのである。ここに宗廟の大神宮への捨命殉国の祈願が上皇によりなされたことは、この祈祷体系のメカニズムを象徴する意義があるといえよう。

 俗に言われる如く、中世の天皇は神主(司察)として生き残ったのでは決してない。神官司祭を動員し、祈祷を行わせる願主の頂点として、執政上皇の王権が発揮されたのである。
※近・現代人についても数え年で表記しました。



補説:今谷明氏の見解について


 今谷氏は「『上皇が御身を以てこの未曾有の国難に殉ぜられんと、畏くも大神宮に御祈念あらせられた』(相田前掲書)旨が記されている」、「戦中成立の相田著作(『蒙古襲来の研究』)においても上皇説が踏襲されている」と書かれているが、奇妙なことに同書にはそのような記述は見当たらない。

 同書には、@「かく天皇も上皇も共に大いに国難を憂えさせられ、異賊の撃退に御熱烈に御祈念あらせられた。このことについて増鏡と申す鎌倉時代の歴史を書いた史籍に……」、A「亀山上皇は大神宮に御告文を奉り、この御代に蒙古襲来の騒乱が出来し、これが為に日本の損われることがあれば、御命をめさるべき由、即ち御身を以て国難に殉ぜさせ給う思召を宣わせられたと、従来説かれていた。」、B「何れにしても身を以て国難に代らせらるとの思召を神宮の宝前に宣わしめられたことは、誠に恐懼に堪えない次第である。」との記述はあるが、相田氏は慎重に自己の立場を留保しており、相田氏が上皇説を支持しているなどとはどこにも書かれていない。

 しかも同書で相田二郎氏は、上皇説の論者として平泉澄氏の名前すら挙げていないのである。これは相田二郎氏が終戦直前(1945年6月22日)に亡くなられた方で、同書の執筆時期がいわゆる皇国史観の全盛期であったことを考えると、平泉澄氏の名前を出さないこと自体が、相田二郎氏の平泉澄氏に対する評価を暗黙裡に表現しているようにも思われ、興味深いのである。

 いずれにせよ今谷明氏の相田著作の引用の仕方は信じられないほど雑であり、時局便乗を避けて着実に実証的な研究を続けていた相田二郎氏の学者としての信用・名誉を汚すことにもなりかねない。

 また、以上のような単純なミスではないが、今谷氏の「平泉澄が翌年末「亀山上皇殉国の御祈願」(『史学雑誌』)を発表しての猛然と八代説に咬みつき、後宇多説への五ヶ所の疑問を指摘し、八代説を崩し去った」「軍配が平泉側に上った」という評価も、実際に平泉氏の論文を読んでみると、過剰過大な評価のように思われる。

 冷静に論争の経過をたどってみれば、平泉氏が「五ヶ所の疑問を指摘し、八代説を崩し去った」のは、あくまで追加的・付随的な論点であるところの『通海参詣記』の評価に過ぎないことは明らかである。八代氏は、栢原氏が提起した『通海参詣記』の問題について、安易に偽書説を述べてしまい、平泉氏に痛烈な批判を浴びたのだが、たとえ『通海参詣記』が偽書でなくても八代説は充分に成り立つのである。『通海参詣記』の部分を除けば、平泉澄氏の上皇説は多分に文学論的なもの、はっきり言えば印象論・感情論であって、殆ど説得力はないのである。

 要するに平泉澄氏は、意図的かはともかく、問題を『通海参詣記』の真偽の争いに矮小化してしまい、その矮小化された議論に対して、八代氏が有効な反撃をなしえないまま数年後に亡くなってしまったため、一見すると「軍配が平泉側に上った」ように見えるだけである。

 今谷氏が引用ミスをしたり、論争の経過について正確な分析ができないのは、今谷氏が自らの王権論に好都合な補強材料として、この殉国御願問題に安易に飛びついてしまったたからではないか、と思われる。
 
 今谷氏は「国家的祈祷体系の頂点に立つのはあくまで国王たる亀山上皇」であり、「俗に言われる如く、中世の天皇は神主(司察)として生き残ったのでは決してない。神官司祭を動員し、祈祷を行わせる願主の頂点として、執政上皇の王権が発揮されたのである」ことを強調されるのであるが、この一般論の当否は暫く置くとしても、殉国御願問題をこれにからめるのは相当問題であると私は思う。

 なぜなら、「捨命殉国」を内容とするかどうかはともかく、「宗廟の大神宮への祈願」が後宇多天皇によりなされたことは誰も争っておらず、それ以外に上皇の御願もあったかどうかが問題になっているのに過ぎないからである。しかも上皇説の論者には、記録が残っていないから非公式なものだったのかもしれない、などと言う人も多くて、かなり不確実な想像・想定を重ねた議論なのである。

 結論として、私は、この殉国御願問題については、それを記録した唯一の史料である『増鏡』の記述を根本的に疑ってかかるべきものと考えている。つまり、「(『増鏡』を)なにより『増鏡』を日記類に準じた史料性、記録性の高い史書として扱ってゆきたい」(『創造の世界』第106号.「王権の日本史」第14回「後醍醐の討幕運動」)とする今谷氏の基本的態度が間違っており、従ってそのような誤った基礎に立脚するところの、「宗廟の大神宮への捨命殉国の祈願が上皇によりなされたことは、この祈祷体系のメカニズムを象徴する意義がある」云々という今谷説には多大の疑問を抱いている。 


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