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今谷明 『室町の王権−足利義満の王権簒奪計画』
(中公新書.1990年)





今谷明氏の略歴
(同氏著『謎解き中世史』洋泉社.1997年より)
(いまたにあきら)1942年京都府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得。日本中世史専攻。現在、横浜市立大学国際文化学部教授。主な著書に、『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店)、『京都一五四七年−描かれた中世都市』(平凡社)、『室町の王権』(中公新書)、『天皇家はなぜ続いたか』(新人物往来社)、『信長と天皇』(講談社現代新書)、『日本国王と土民』(集英社)、『武家と天皇』『歴史の道を歩く』(いずれも岩波新書)などがある。



 はしがき


 天皇家がなぜ続いてきたか、これは歴史家に突きつけられた解かれざる千古の命題である。最近、松本清張氏は極めて直截な形でこの疑問を歴史学界に投げかけられた。
 いわく、

その間、天皇家を超える実力者は多くあらわれている。とくに武力を持つ武家集団、平清盛でも源頼朝でも、北条氏でも足利氏でも、また徳川氏でも、なろうと欲すればいつでも天皇になれた。なのにそれをしなかった(中略)。どうして実力者は天皇にならなかったのか。だれもが知りたいことだが、歴史家はこれを十分に説明してくれない。学問的に証明できないのだという。(「神格天皇の孤独」『文藝春秋』八九年三月号)

 このような素朴な疑問、また余りにも正当な疑問に対し、歴史学界は真摯に応える必要があるだろう。本書は、松本氏の設問に対し、一中世史学徒として一つの回答を試みたものである。もとよりその叙述が成功しているか否かは読者の判断にお任せするしかない。

 本書の構成は、武家の身ではじめて天皇制度の改廃に着手し、いわゆる“簒奪”寸前まで行った足利義満〔1358〜1408.51歳〕の宮廷革命を中心に叙述している。その理由は、天皇家存続の謎を解くカギが、この時期に集中していること、また義満の行実を追うことによって、天皇の権力・権威の内実がおのずから明らかになるからである。しかし、義満の急死という偶然的事情も重なって、結果的に簒奪は不成功に終わった。義満の強大なカリスマ的権威にも拘らず、当時の社会の中核的部分に、簒奪に反対する根強い勢力が存在し、“万世一系”維持へ大きな役割を果たした。皇家存続の謎は、一にかかってその辺の力関係に由来しているといってよかろう。織豊政権・幕藩体制が天皇制度を超克し得なかった事情も、その延長線上で解釈できるのである。戦後歴史学は、天皇制度維持システムの政治力学を、突きつめて考察することを放棄し、近年は非農業民や文化人類学的手法でこの問題を説明しようとしている。しかし天皇制度が、すぐれて政治的存在である以上、あくまで政治史の問題として分析する努力を持続することが不可欠であり、いくら民俗学・人類学的方法をもってしても、そこからは結果論的解釈しか得られないであろう。

 最後に、本書の用語についてお断わりしておきたいことは、コミンテルン32年テーゼの訳語である「天皇制」なる用語を前近代の事象に当てはめて説明することは誤解を招きやすく、また「天皇制」の意味するところがまちまちであるため、本書では原則としてこの用語を使わず、便宜「天皇制度」などで表現することとした。明治以後用いられる「皇室」なる語も同様に使用せず、天皇家・皇家などと表現している。






天皇家権威の変化 (p.1以下)


一、親政・院政・治天の君

院政の成立

 天皇家の歴史はじまって以来、即位した天皇が現実には政務を執(と)らず、代行者が執政するといった例は枚挙にいとまがない。推古〔554〜628.75歳〕に対する聖徳太子〔574〜622.49歳〕の摂政のごときはその典型である。しかし、古代天皇制下における政務の代行はあくまで例外的・臨時的措置であって、本来は天皇親政こそがあるべき姿、建前(たてまえ)と意識されていた。

 ところが十世紀ごろから慣例化した摂関政治は、この天皇親政の原則を天皇不執政に変えようとした最初の組織的・恒常的制度転換であったといえる。

 摂関政冶の本質は、中国漢王朝の時代にもみられた外戚(がいせき)政治で、廷臣の最上層を構成する藤原北家が、女子を入内(じゅだい)させて天皇の舅(しゅうと)、すなわち外戚として実権を握る政体である。摂関は皇位を左右し、重要政務には介入したが、恒常的な律令官制と公卿の議定(ぎじょう)政治の枠組みは健在で、形式的に天皇が百官に君臨する構造は変わらなかった。

 ところが十一世紀末に起こった院政の成立は、律令制的太政官制の原理を根本から覆す巨大な宮廷革命であって、中世のはじまりをこの院政開始におく研究者が多い。

 院政は一○八六年に退位した白河上皇〔1053〜1129.77歳〕からはじまって、断続的に近世に至るが、政体としての院政は南北朝末期、後円融上皇〔1358〜93.36歳〕が死去する一三九三年まで、約三百年余続いた。その後も、後小松〔1377〜1433.57歳〕、後花園上皇〔1419〜70.52歳〕以下、退位した天皇は何人もいるが、権力を保持した例はなく、院政と呼ぶことはできない。

 白河上皇についても、息堀河天皇〔1079〜1107.29歳〕への譲位は、必ずしも堀河を後見して実権を掌(つかさど)ろうとする意志があったわけではなく、ただ皇統を確実に伝えるための手段であったといわれる。

 しかし四囲の状況は、白河のそうした個人的主観を超えて、白河の政務を要求し、太上天皇(だじょうてんのう)(譲位後の天皇)による執政が定着したのである。これによって天皇家は実権を藤原北家から奪還するとともに、上皇によるかつての天皇親政以上の専制政治を展開することになる。


治天の君

 保安四年(1123)、鳥羽天皇〔1103〜56.54歳〕が退位して崇徳(すとく)天皇〔1119〜64.46歳〕が即位、ここに白河、鳥羽という二人の上皇が出現したが、実権は依然白河が掌握し、新院である鳥羽はまったくの傀儡(かいらい)であった。

 このように、院政とは実権をもつ上皇(この場合は白河)が執政する政治で、この実権者のことを「治天(ちてん)の君」と呼んだ。治天は治世、または政務とも称され、政務をとる上皇の意で、天皇家の家督者にほかならない。

 以後、複数の上皇が併立することは常態となり、治天の君の地位こそが最重要の意味をもつようになった。

 ここにおいて「天皇」は、単に将来「治天」となる者の通過儀礼的地位、つまり国王見習期間にすぎなくなって、実質的意味をまったく失った。王族のうち実権を握る者、これこそが諸外国では国王と呼ばれることからすれば、わが国では、院政期以降、国王の地位は、天皇から治天に移行したといってよいだろう。そして白河以降、治天の地位は、鳥羽、後白河〔1127〜92.66歳〕後鳥羽〔1180〜1239.60歳〕と継承され、承久(じょうきゅう)の乱(承久三年=1221)に至るのである。

 この院政なる政体は、現在でもしばしば比喩として使われるように、名目上の主権者を表に立て、陰で実権を握る存在として、類似の形態はしばしば経験するところである。

 院政を権力者側からみて都合のよい点は、責任の所在を曖昧にできることで、危機においてトカゲの尻尾切りさながら、権力の延命をはかりうることである。平家一門の都落ちの際、平氏に擁立された安徳(あんとく)天皇〔1178〜85.8歳〕は 拉致(らち)され、神器(じんぎ)とともに西海に沈んだが、治天の君の後白河は京都に居座り、神器抜きでも後鳥羽天皇を立て、王統の延命をはかることができた。天皇家が治承・寿永の内乱(源平合戦)を乗り切り得た一因に、この皇統の二重構造が挙げられてよいだろう。


承久の乱後の院政

 ところが、治天みずからが無謀な討幕を計画し、天皇家あげて鎌倉に対決した承久の乱では、当然ながら後白河院流の責任回避は成功しなかった。
 
 入京した北条泰時(やすとき)〔1183〜1242.60歳〕は、治天の後鳥羽院以下三上皇を島流しに処し、廟堂から反鎌倉派を一掃した。この事件は、天皇家の歴史上未曾有の危機ではあったが、しかし、北条氏としても天皇家を滅亡させることまではできなかった。北条氏は頼朝〔1147〜99.53歳〕のような王朝国家の侍大将ではなく、天皇の権威を背負わねばならないほどの権力者ではなかっただけに、皇家に対し苛酷な措置を取り得たのだが、天皇家に取って替る統治能力までは不足していたのである。

 泰時は、父義時〔1163〜1224.62歳〕と謀って未だ一度も皇位の経験のない持明院宮守貞親王(後白河の末孫=後高倉院)〔1179〜1223.45歳〕を治天の君に立て、その子後堀河〔1212〜34.23歳〕を皇位に擁立して王統の再建を行なった。三上皇を遠島に処すだけの軍事力をもってすれば、鎌倉幕府は物理的には王統を廃絶することも不可能でなかったのはもちろんである。しかし摂関・大社寺以下、討幕計画に関知しなかった荘園領主・権門は依然として健在であり、それらの勢力を天皇なしで統治(ないし権力の総合調整)することは極めてむつかしく、あえて行なえば、内乱さえ招きかねない大混乱は必至であった。そのため、義時父子は皇統を温存して、これを遠隔操作する方策を選んだのである。


権門体制

 三上皇配流を敢行しながら、王統廃絶まではなし得なかった事実は、当時鎌倉幕府が、東国と全国の御家人(ごけにん)身分を支配する一種の東国国家であり、未だ軍事的にも全国政権でなかったことの表われである。御家人である地頭のいない荘園、つまり本所一円地(ほんじょいちえんち)は西国を中心に全国に多くあり、それらの土地の軍勢動員の権限が鎌倉幕府に掌握されるのは、弘安の役(弘安四年=1281)に至ってからである。

 ちなみに、この蒙古襲来に当って、最初のモンゴルの使節が一二六八年(文永五)に来朝したさい、幕府の九州出先鎮西奉行は鎌倉の指示に従って牒状を京都に送達し、聖断(治天の判断)を仰ぐ手続きをとっている。結局、ことが対外的な軍事力発動にかかわる性格であったため、最終的には幕府が外交処理を行なったが、外交権が治天の側にあるという建前は崩さなかったことがわかる。

 元亨(げんこう)元年(1321)、後醍醐天皇〔1288〜1339.52歳〕は院政を廃止し、右のような治天=国王体制を崩して天皇親政を実現し、さらに改革の障害となる鎌倉幕府打倒を企て、二度の挫折にも屈せず元弘三年(1333)、建武政府を樹立した。

 後醍醐の構想は封建王政を目指したとも、中国宋朝型の皇帝専制支配を範としたともいわれるが、在地領主である武士の広汎な支持を得られず、さらに中央集権的官僚制を構築しようとして公家・寺社などの既得権益を大幅に侵したため各層から離反され、短時日に崩壊した。後醍醐の失敗は天皇親政の失敗であり、足利尊氏〔1305〜58.54歳〕は再び院政を復活させ、持明院統の光厳上皇〔1313〜64.52歳〕を治天の君に立て、その弟光明天皇〔1321〜80.60歳〕を即位させて幕府を創始した。結局この治天=国王方式が武家にとっても最も支配の実態に適合していたのである。

権門体制
    ┌公家(執政)
治天 ┤寺社(護持)
    └武家(守護)
 ( )内は諸権門の業務分担を表す当時の用語

 このような「治天の君」が幕府をも含め、公家・寺社などの荘園領主(権門)の上に君臨する体制は、黒田俊雄氏の定義(権門体制論)が最も妥当のように思われる(別掲前図参照)。

 このように、一見対立するようにみえる公家・寺社・武家(幕府)が、実は協調して人民支配に臨む政体を権門体制と呼ぶ。この場合国王である治天は必ずしも専制君主ではなく、諸権門相互間における総合調整的機能の色彩が強い。この治天の政治意志を表わす文書が“院宣(いんぜん)”である。

 幕府が単独で諸権門の上に立つ実力を備えていないことは、既述の諸点、特に蒙古襲来のさいの外交処理などにも現われていると思う。

 実は黒田氏の説では国王の地位にあったのは一貫して治天でなく天皇であるとされるのだが、筆者は今まで述べてきたように、治天の君と理解する方がわかりやすく、説得力があると考える。この点で治天=国王を主張されている富田正弘氏の説に従うものである。


後光厳の践祚

 この権門体制下に、治天と天皇の地位を象徴的に示す事件が起こったのが、正平七年(1352)の南軍による三上皇・廃太子拉致(らち)である。
 
 この年二月、京都を占領した南軍は、北軍の反撃と京都奪回によって翌閏二月、光厳(こうごん)・光明(こうみょう)・崇光(すこう)〔1334〜98.65歳〕の三上皇と廃太子直仁(なおひと)親王(花園の子、崇光天皇の皇太子)〔1335〜98.64歳〕を山城八幡(やわた)、ついで河内東条(とうじょう.現、大阪府富田林市)に移し、同年六月、遠く賀名生(あのう.現、奈良県吉野郡西吉野村)に幽閉した。

 足利義詮(よしあきら)〔1330〜67.38歳〕のもと再建された室町幕府は、天皇・治天はおろか、皇位継承候補者をすべて喪失し、北朝をどう復活させるかが問題となった。南軍による三上皇・廃大子拉致は、後村上天皇〔1328〜68.41歳〕北畠親房(ちかふさ)〔1293〜1354.62歳〕らの策で、北朝を破壊し幕府を困却させようという企てである。

 同年五月、足利義詮(将軍尊氏は関東に駐在のため義詮が幕政を代行)は、等持院の僧祖曇(そどん)を使節として東条に派遣し、三上皇以下の還京を交渉させたが不調に終わり、六月二日、南軍はさらに葛城山脈を越えて賀名生に三上皇以下を連れ去ったので、いよいよ幕府は南朝との和睦の機を失った。

 実はこの段階が、南北朝期を通して南軍が最も有利に幕府と和議を結ぶ絶好の機会であったのだが、南朝は強硬派が主流を押えていたため、みすみす収拾のチャンスをのがしたのである。

 万策尽き果てた幕府は、後伏見上皇〔1288〜1336.49歳〕の女御であった老女広義門院(西園寺寧子)公衡の娘.1292〜1357.66歳〕を治天の君に立て、光厳の末子弥仁(いやひと)後光厳天皇.1338〜74.37歳〕を新帝に擁立する案を出した。弥仁は南車の京都占領時、仏門に入っていたため拉致をまぬかれていたのである。

 この弥仁擁立に当って、女性である広義門院をわざわざ治天に推したことが注目される。すでに見てきた院政の構造は、新帝擁立にも治天による“譲国”の手続きが不可欠であり、治天なくしてはいっさいの政務が遅滞する仕組みになっているのである。

 三院・廃太子が賀名生に流された翌日、義詮の使である京極高氏(佐々木道誉)〔1296〜1373.78歳〕は伝奏(てんそう)勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)〔1298〜1373.76歳〕を訪れ、広義門院の「御政務」(治天就任)斡旋を依頼した。しかし女院は、実子である光厳・光明の二上皇以下、甥の直仁まで連れ去られたのは、ひとえに義詮の無策のせいであるとして幕府を恨み、経顕の要請を拒絶した。弁官局左大史(さたいし)(太政官の事務官僚)の壬生匡遠(みぶただとう)の日記によれば、六月五日、九日の両度にわたって女院が幕府の奏請を蹴ったことが報ぜられている。北朝・幕府の再建は一にこの老婦人の向背にかかってきたのである。

 道誉・経顕らは八方手を尽して、この頑固な婆さんを宥めすかし、ついに十九日、女院の治天就任承諾にこぎつけた。この間の幕府の困惑ぶりが、依然として武家政権ひとつでも、天皇制度の存在が不可欠なことを物語っている。幕府にとって、天皇とは武家の首長を征夷大将軍に任命する存在にすぎないが、不安定な戦局に立つ尊氏・義詮は、その一条すら頼みの綱なのである。まして天皇から百官に任ぜられる公卿・寺社にとって、皇統の必要性はさらなのである。結局、武家だけでなくこうした諸権門に泣きつかれて、突っ張っていた広義門院も、十六日目についに折れたのであった。

 その結果は、院政史上はじめての女性の治天の登場となり、称徳天皇〔718〜70.53歳〕以来六百年ぶりの女性の国王の誕生となった。危機に際して女性がかつぎ出されるという卑弥呼以来の潜在的伝統は、皮肉にもこうした形で出現したのである。

 ところで、従来の院政研究では、広義門院を治天の歴代に数えていない。しかし後述のように、門院の地位は従前の治天が行なっていた「譲国者」であり、幕府・伝奏が女院に依頼したのが「御政務」であり、践祚(せんそ)の手統きがいっさい「女院の仰(おおせ)」、すなわち令旨(りょうじ)から発せられていること、および女院が長講堂領・法金剛院領・今出川院領など名だたる皇家領の大宗を相続したことなどをみれば、女院は、太上天皇の尊号こそもたぬものの、まぎれもなく「治天」の地位を襲ったと見なさざるを得ない。広義門院は、承久の乱後、関東に立てられた後高倉院とまったく同じ役割を期待されたのである。

 皇位の経験者でなく、まして男性でもない女院を、治天にかつぎ出したこと自体、幕府の切羽詰(せっぱつ)まった立場、窮境をよく現わしている。要するに、なりふり構わず、恥も外聞もなく、室町幕府は強引に北朝を再建したのであった。

 こうして、紆余曲折の末、治天を立てて弥仁を皇位継承者に指定したものの、践祚の具体的段取りになって難題が生じた。神器が後村上〔1328〜68.41歳〕によって賀名生にもち去られていたことである。

 神器なき践祚は、前述したとおり、平家都落ち後の後鳥羽〔1180〜1239.60歳〕の擁立に先蹤(せんしょう)がある。ところが後鳥羽の嗣立は、治天の後白河〔1127〜92.66歳〕が引き続き京都に居座っていたため、便宜「太上天皇の詔宣」をもって践祚を強行した。これが「伝国の宣」とか「譲国の詔」といわれる儀礼で、神器を欠いた場合の便法であった。一方、仁治三年(1242)、四条天皇〔1231〜42.12歳〕急死に伴う後嵯峨〔1220〜72.53歳〕践祚は、神器は問題なかったものの、治天不在の状況で行なわれた(伝国無詔の儀)。

 今回の弥仁の践祚は、広義門院を新治天に立てたとはいえ、引き続きの治天、つまり真の譲国者とはいえず、神器もなくダブル変則というべき事態であった。

 先例の発見に窮した廷臣らは、とうとう継体天皇践祚(「群臣法駕に備えこれを迎う」とある)をもち出し、新帝践祚を合理化しようとした。神器の件は、神鏡を納めた小唐櫃(こからびつ)を捜し出し、「如在の儀」、つまり空箱を神器に見立てて儀式を強行した。こうなれば子供だましというほかはない。

 広義門院自体は、花園〔1297〜1348.52歳〕の准母であり、西園寺氏の出で、出自の高さも申し分なく、旧二院の生母ということもあって、治天にふさわしい身分と資質を備えていたが、無神器の践祚強行は、天皇の地位の正統性に決定的な欠陥とみられ、北朝と幕府の大幅な権威低下をもたらすものであった。

 この弥仁(後光厳)擁立は、幕府に南朝への軍事的圧服を急がせる一方、「天皇を必要としない武家政権」の樹立を将来の課題として与えたといえよう。天皇制度に依存しているかぎり、武家にとって、みじめな屈辱か妥協しかあり得ないことを、弥仁の擁立劇は教訓として残したのである。






むすびにかえて (p.216以下)

 
 室町時代は、天皇の権力と権威を圧伏しようとする動きが極限に達した段階であるとともに、権力・権威をいったんは喪失した天皇が、新たな権威、つまり既成権力よりも高次の調停者としての地位を得て、不死鳥のように復活してくる時期でもあった。

 従って、天皇史上、分岐点となる重要な動向が集中しているという意味で、この時代の王権の問題は、今日まで続く通時代的な天皇問題を解くカギがひそんでいるといえよう。いわゆる「天皇制」を利益としたのは、網野氏が説くような、勅許特権を振りかざす供御人(くごにん)や非農業民だけではない。室町時代の政治構造のあり方そのものが、「天皇制」の維持存続を必要としたのである。

 その意味で、非農業民説は、いわば結果論であり、天皇制度存続の原因論ではない。この問題を解くには、政治史を正面から扱う以外にないのである。

 ここで繰り返し強調しておきたいことは、義満〔1358〜1408.51歳〕が奪った祭祀権だけは、本格的に復活することはなく、その後の天皇の権威復活の上で、ほとんど大きな役割を果たしていないことである。

 このことは、王朝祭祀儀礼が大半廃絶した応仁の乱−戦国期に、かえって天皇の権威が復活上昇している事実から裏付けられる。民俗学者・文化人類学者、一部の歴史家から唱えられる「司祭王としての存続」「祭祀王権としての復活」説は、まったく事実に合致しない一種の“共同幻想”というほかない見解である。わが国中世の祭祀儀礼は、相当の経済力の裏付けを必要とし、天皇家が経済力を失った段階で、自動的に消滅せざるを得ない構造になっているのである。

 義満の絶対主義政策、中央集権化を支持する近習・官僚・伝奏(これらの背後に公家・寺社勢力)らのグループと、それを阻止しようとする有力守護(宿老)グループのせめぎ合いの裡に、室町政治史の力関係によって“万世一系”は結果的に維持されたのである。

 ひるがえって考えるに、天皇制度の分岐点となった応永時代(義満〔1358〜1408.51歳〕・義持〔1386〜1428.43歳〕の執政期)とは、歴史上どのような段階であったのだろうか。

 後円融院〔1358〜93.36歳〕没し、義満が太政大臣に昇った明徳末年(1394)から、義持が死ぬ応永末年(1428)までの三十五年間は、大きな内乱もなく、室町時代、いや中世全般を通しての最も安定した黄金時代であった。

 五山の相次ぐ創建に加え、室町第・北山第の造営と、土御門内裏の再建、さらに火災焼失による相国寺の再建があり、その上、南都北嶺の造営修築が重なるという、集中豪雨的な“大造営時代”であった。これほどの消費的経費の投下が行なわれたにもかかわらず、国庫は疲弊せず、財源は比較的安定していた。

 一四四四年の兵庫北関入船納帳(兵庫湊の税関台帳)から推測すれば、西日本の経済流通は活発で、倉庫・運輸・金融業者らの繁栄は頂点に達していたと考えられる。

 北欧屈指の港湾都市リューベックの一三七五年における年間出入港船舶がわずか数百隻であるのに、兵庫港の一四四四年におけるそれは、実に二千艘を超えていた。

 この事実は、義満時代の大造営が投資の乗数効果を生んで、経済の拡大再生産にプラスに働いていたことを示すものである。以上の経済的発展が、義満の絶対主義志向の政策の背景・条件を構成していたと考えられる。

 王権の交替という現象を世界史的に見れば、多くは、民族間の対立抗争が契機をなしており、易姓革命思想が顕著であった中国の場合ですら、民族移動を契機とする交替が極めて多いことは、周知のとおりである。

 前近代における外民族侵入による戦争が、刀伊入寇(といにゅうこう)・元寇・応永外寇と数えるほどのわが国の場合、王朝交替が起こり得るとすれば、それは義満の簒奪計画のごとき、つまり宮廷革命があり得る唯一のケースといってよかろう。

 その場合、すでに見てきたように、義満以外で簒奪可能な為政者は、信長〔1534〜82.49歳〕・秀吉〔1536〜98.63歳〕はいずれも失格で、私には徳川家光〔1604〜51.48歳〕あたりしか思い浮かばないのである。

 そうなってくると、権力者の性格や資質など、偶然的・個人的要素が大きな比重を占めざるを得ないと思われる。

 しかし、要するに「天皇に取って替ろうとする」行為は、種々の制約・条件が揃っている場合に限定され、一般に考えつくような、「なろうと欲すれば、いつでも天皇になれた」ような安易なことではない、ということだけは、ご理解いただけるのではなかろうか。

 著者はかつて大学院で嘉吉以後の土一揆を研究したとき、綸旨の頻発という現象を見出して奇異な印象を受け、以後室町天皇制度の究明の必要性を痛感してきた。しかし当時の著者には中世天皇の問題は手に余るもので、やむなく幕府・守護権力の分析に十数年を費やした。今となっては迂遠なコースをたどってきた観があるが、室町王権の考察に武家権力の解明は決して無駄ではなかったと思っている。終わりに、この重いテーマでの執筆を非才の著者に託された編集部の木村史彦氏に心からの謝意を表したいと思う。

 一九九〇年六月
今谷 明 



「非農業民や文化人類学的手法」の一例はこちら。(網野善彦氏「後醍醐」)
☆この本が出版された後の反応についてはこちら。(今谷明氏『権力から権威へ』)






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