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加藤周一『日本文学史序説.上.』
(筑摩書房.昭和50年.p264以下)





加藤周一氏の略歴(『朝日人物辞典』より)
(かとう・しゅういち.1919〜)評論家,作家。東京都生まれ。1943(昭18)年東大医学部卒。血液学が専門だが,在学中から文学にも深い関心を寄せる。第2次大戦中は,国を挙げての狂気に抗して醒めた批判精神を堅持。戦後は文学者として華々しく登場し,初め「マチネ・ポエティク」グループの一員として雑誌『方舟』に拠り,日本語の押韻詩を追究。同人の中村真一郎,福永武彦との共著『1946文学的考察』(47年)は,東西の文学に精通した若手文学者による評論として,戦後文学に新しい世界を開いた。51年から3年余りを医学留学生として主にパリで過ごし,現場の西欧文化に触れるとともに,そこから日本を振り返って数々の文明批評を発表。なかでも日本文化の「雑種性」を指摘した『雑種文化』(56年)は大きな反響を呼んだ。
 60年代後半以降は,カナダ,ドイツ,アメリカ,日本などの大学で教鞭をとりつつ,現在まで旺盛な文筆活動を続ける。とくに『日本文学史序説』上下(75・80年,大佛次郎賞)は,独自の方法と視点で,7、8世紀から現在にいたる日本文学を通観した大作である。『ある晴れた日に』(50年),『運命』(56年),『三題噺』(65年)その他の小説,自伝『羊の歌』正続(68年),文芸評論,芸術論,政治論と,活動は多彩だが,とりわけ鋭い感性と該博な知識でラディカルな論理を展開する評論は,他の追随を許さない。国内だけではなく,世界的に認められた知識人といえる。『加藤周一著作集』15巻補巻1巻(78〜80年,平凡社)がある。(鈴木道彦)






封建制の時代


 一三世紀の二重政府は、一四世紀に崩壊した。地方武士団のカは強くなり、鎌倉幕府には内紛が生じて、その支配力が弱まった。京都の政府は、鎌倉の弱みにつけこみ、幕府に反対する関東の武士団の棟梁(足利尊氏〔1305〜58.54歳〕、新田義貞〔1301〜38.38歳〕)を抱きこんで、宮廷に権力を集中する旧体制を復活させようとした(いわゆる「建武中興」、一三三三〜一三三六)。しかし、鎌倉の武士政権に反抗した地方武士団が、京都の貴族政権に服したのは、三年にみたない。足利尊氏は地方武士団を組織し、京都に入って、武士中央政府を再建し(足利幕府)、吉野に逃れて幕府に対抗した「建武中興」の一派(南朝)とは別に、天皇を擁立した(北朝)。足利政府と南朝のいずれかに加担した地方武士団相互の間に戦われた内乱(南北朝の内乱)は、一四世紀の前半を特徴づける。後半には南朝が衰え、武士権力は再び確立された(室町幕府)。

 新しい武士権力は、宮廷貴族権力との妥協の上に成りたっていた一三世紀の鎌倉政府よりも、はるかに大きな権力を独占した。南北朝内乱後の宮廷は、もはや幕府の傀儡にすぎない。他方、地方の武士団に対しては、御家人を通じて支配した鎌倉政府よりも、はるかに広く地方の自律性を許容した。─かくして一四世紀後半から一六世紀前半まで、室町幕府のもとで、おそらく「封建制」と呼ぶにふさわしい社会体制が成立したのである。貴族・大寺院の「荘園」の犠牲において発達した自営農民、農業生産性の向上(多毛作の普及、灌漑技術の発達、肥料の改善)と農業生産物の商品化、対明貿易による商業都市の発達(典型的には堺)、その背景のもとに成りたった地方の武士支配層、その相互の拮抗と中央政府との契約的関係(幕府への忠誠と幕府による保護)。─これは、貴族権力と妥協し、貴族支配の体制を温存した一三世紀社会と、大いに異る特徴である。貴族中央集権制を復活させようとした「建武中興」は、貴族と武士支配層の連合を解消し、内乱を通じて権力の分散を促進し、宮廷勢力を排除するところの武士による「封建制」をつくり出した。一三世紀以前にもどろうとした運動は、一三世紀にすでにあらわれていた新しい傾向を先へ進めることに役立ったのである。意図における「反動」は、結果において「進歩」を生んだ。

 貴族の権力独占が終り、鎌倉幕府が成立したときに、貴族の側において歴史意識が鋭くなったことは、すでに述べたとおりである。慈円〔1155〜1225.71歳〕は『愚管抄』を書いた。貴族と宮廷の権力がいよいよ決定的に失われてゆく過程で、貴族知識人の歴史的関心は再びたかまった。「建武中興」の中心人物、後醍醐帝〔1288〜1339.52歳〕の廷臣で、南北朝の内乱に戦死した北畠親房(一二九三〜一三五四)は『神皇正統記』(一三三九)を書く。「大日本者神国(おほやまとはかみのくに)也」ではじまる『神皇正統記』は、『古事記』の神話にあらわれるカミの子孫として、歴代の天皇(神話的および歴史的)の系譜を述ベ、後醍醐帝の同時代に到る。その目的は南朝の正統性を歴史的に根拠づけることであった。しかしあきらかに、事件の原因、または状況の変化の歴史内在的な理由を、説明しようとすることではなかった。後醍醐帝の叙述には、その政策に対する批判(論功行賞の不適当)もみられるが、たとえばその討幕計画の理由の説明はなく、最初の挙兵の失敗についても、第二の討幕戦争の成功についても、その原因に触れていない。これは『神皇正統記』が『愚管抄』と全くちがう点である。『愚管抄』は、事件の経過を説明するのに、しばしば超自然的なカの作用に訴えたが、具体的な政策の成功失敗については、歴史内在的な原因を分析しようとしていた。『神皇正統記』が史書としてはるかに『愚管抄』に劣るのは、事実の歪曲(神話と歴史との連続、「三種の神器」に関するこじつけ)によるばかリでなく、そもそも事実の原因をもとめ、歴史的発展の構造をあきらかにしようとする知的好奇心を欠いていたからである。天台座主慈円は、摂関家の立場から、しかしおそらく仏教を媒介としてその時代の社会との一定の距離を保ちながら、一流の、─また実に年代記と区別された意味では日本語による最初の、「歴史」を書いた。北畠親房はみずから内乱に参加して地方に転戦し、南朝の立場から、戦陣のなかで、二流の「歴史」を、しかし一流の「デマゴギー」の書を書いたのである。その「デマゴギー」の内容は、儒、仏・神道を混合した修辞で飾りながら、カミの子孫としての天皇を讃美し、その親政を理想とするものである。

 北朝の、すなわち足利将軍の樹てた京都の宮廷の貴族は、むろん、北畠親房のように戦闘的ではなかった。『神皇正統記』よりも後れて、おそらく一四世紀の半ば頃に成立したとされる『増鏡』は、後鳥羽院〔1180〜1239.60歳〕ではじまり、後醍醐帝で終る時代(一一八〇〜一三三三)の宮廷貴族の生活を、およそ年代の順序にしたがって、綿々と語る。その作者はわからないが(二条良基〔1320〜88.69歳〕説がある)、京都の教養ある貴族であったことは確かであろう。『増鏡』の特徴は二つある。第一、その文体が『愚管抄』や『神皇正統記』の漢語を多く混えた簡潔な和文ではなく、『栄華物語』の散文のそれにちかい一種の擬古文であって、平安時代の貴族文化に対する著者の憧憬を示す。第二、その内容もまた文体に応じ、宮廷の行事・男女関係・位階昇進・皇族の出産などの記述を主とする。『増鏡』が後鳥羽院の討幕の失敗(とそれにつづく隠岐配流)ではじまり、後醍醐帝の討幕運動(隠岐配流からの脱出)で終っているのは、天皇個人にとっての劇的な事件で、宮廷の物語の前後をしめくくったということにすぎないだろう。『増鏡』の本領は、むしろ平安朝物語風に男女関係を語る叙述の生彩にある。たとえば斎宮と異母兄との近親相姦のいきさつ(中、第九、「草枕」)、院の出家の後、その妃が従者と契る話(下、第一一、「さしぐし」)。そのどちらにも女の妊娠がからんでいる。そのどちらも、天下の大勢には関係しないが、たとえば蒙古襲来よりもはるかに詳細に述べられている。『増鏡』に代表される宮廷貴族は、その閉鎖的な集団のなかで、過去の価値体系を維持しながら、しずかに滅びるのを待っていたようにみえる。

 しかし『神皇正統記』の戦闘的「デマゴギー」は滅びず、南朝は滅びても、その精神は滅びなかった。すでに『神皇正統記』以前(一三世紀末)に、度会行忠(一二三六〜一三〇五)が作ったとされる「神道五部書」があって、本地垂迹説を排し、アマテラスを中心として、神道の祭祀(心身の清浄、各種の「タブー」など)を理論化しようとしていた。北畠親房はその影響をうけながら、「大日本国者神国也」を説いたのであり、その後、神道の理論化は、室町時代末、吉田(ト部)兼倶(一四三四〜一五一一)この『唯一神道名法要集』においてさらに徹底した(「神道五部書」にも、『唯一神道名法要集』にも、それぞれ奥書があり、古代または平安時代の書とするが、前者はおそらく度会行忠の、後者は吉田兼倶の偽作である。神道の理論化には、儒・仏・易の大陸の体系の用語の借用が必要であったばかりでなく、『記』・『紀』の他に神道の古典的著作はなかったから、それを偽作することも必要であった)。『唯一神道名法要集』は、問答の形式により、「仏教は万法の花実」、「儒教は万法の枝葉」、「神道は万法の根本」と説く。その特徴は、神道の内容(身心の清浄、「タブー」、『記』・『紀』神話に集められた多くのカミ)を、およそ真言密教の体系の枠組のなかで整理し、部分的には陰陽・五行などの概念を用いて分類していること(たとえば天・地・人に、それぞれ火水木金土または火水地風空の五行があるとし、一五のカミをその各々に配当する)、自己の説明を権威づけるためには(みずから「唯一神道」という)、カミの子孫であるト部家の相伝を強調して、系図を示すこと、またその神道の利益は全く個人的現世的であり(寿命・無病・福禄)、彼岸に係らず、社会に及ぶ面は、ただ日本国を神国とし天皇を神とする(「国は是れ神国也。道は是神道也。国主は是神皇也」)以外にはない、ということなどである。北畠親房もすでに、『神皇正統記』以外の著作(たとえば『元々集』や『真言内証義』)において、仏教の抽象的な概念の全く形式的・機械的な適用に長じ、『神皇正統記』において、南朝を系図によって権威づけようとし、天皇=神説を唱えていた。天皇がカミならば、天皇に超越する権威はなく、日本国が神国ならば日本国に超越する価値はない。現実の共同体集団とその主長に超越する権威または価値または原理をみとめぬという点で、このような考え方は鎌倉仏教とまさに対照的であり、土着世界観の基本的構造を保存するものである。北畠親房から吉田兼倶まで、仏教的抽象概念の秩序は利用され、その超越的思考の実質は、まさに鎌倉仏教の場合と異り、全くうけ入れられていなかった。おそらくこれは、日本の知識人の外来「イデオロギー」に対する態度の一つとして、決して例外的なものではなかったろう。
(以下略)





※「南北朝の内乱に戦死した北畠親房」とあるが、親房は1354年4月17日、賀名生で亡くなっており、別に戦死ではない。
 なお、度会行忠に関して、『とはずがたり』では、二条が伊勢外宮に行ったとき、事前に何の連絡もなく訪問したにもかかわらず、親切な人が登場して二条を案内してくれ、名前を聞いたら度会行忠だった、という話が出てくる。度会行忠は1258年生まれの二条より22歳も年上であり、二条が伊勢を訪問したとされる1291年には56歳で、既に理論家として名を成し、また相当な地位にあったにもかかわらず、随分懇切丁寧に一介の流浪の尼に応対してくれたのであり、極めて奇妙な話である。
 度会行忠の思想についてはこちら(高橋美由紀氏『伊勢神道の成立と展開』)。また、二条の伊勢訪問についての詳細はこちら(奥野純一氏『伊勢神宮連歌の研究』)。




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