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| 川田順氏の略歴(『朝日人物辞典』より) |
| (かわだ・じゅん.1882〜1966) 歌人。東京都生まれ。宮中顧問官で漢学者・川田剛の3男。1907(明40)年に東大法科を卒業し、住友総本店に入社、36(昭11)年に常務理事として退社するまで実業界で活躍する。『心の花』同人。18(大7)年刊の『伎芸天』は浪漫的なものであったが、22年刊の『山海経』あたりから人生味を加える。戦時中は愛国歌人として活動し、42年には歌文集『国初聖蹟歌』、歌集『鷲』で第1回芸術院賞を受賞した。46年東宮作歌指導役となるが、49年弟子の鈴鹿俊子との恋愛事件で一切の役職を辞任、“老いらくの恋”として話題になった。52年刊の『東帰(とうき)』には、「相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ」など、俊子との愛を詠んだ作品がある。研究書に『西行の伝と歌』(44年)など。『定本川田順全歌集』(67年、中央公論社)がある。(篠弘) ※写真の横に「1949年、短歌の弟子・鈴鹿俊子(左)と結婚した川田順。“老いらくの恋”と騒がれたが、この時川田は67歳」との記述がある。この略歴を読んで、何か釈然としないと思った人はこちら。 |
| 選定方針の要綱(p.17以下) 大東亜戰争一周年に近き昭和十七年十一月廿日情報局から發表された愛國百人一首は、日本文學報國會立案、情報局後援、大政翼賛會賛助、及び東京日日新聞社・大阪毎日新聞社が参考資料提出に協力(一般世間から愛國の古歌を投書推薦せしめたこと)した事に依つて出來上つたものである。すなはち私選にあらずして、「公選」のものである。この意味に於いても、この百人一首は和歌史上乃至日本精神史上の一つの出來事として永く記憶せられるであらう。 文學會の委嘱によつて佐佐木信綱・齋藤茂吉・北原白秋・尾上柴舟・窪田空穂・太田水穂・土屋文明・折口信夫・吉植庄亮・齋藤瀏・松村英一・川田順の諸氏十二歌人が選定委員となつた。古歌の選擇のことだから歌人のみを選定委員としたのであらう。右諸氏のうちで、北原氏が選定の半途に逝去したのは、くれぐれも残念だ。謹んで弔意を表する。 選定委員以外に、次の諸氏を選定顧問に委嘱した。情報局の第五部長川面隆二・第五部第三課長井上司朗・大政翼賛會の実践局長相川勝六・文化部長高橋健二・文部省の社會教育局長生悦住求馬・國語課長大岡保三・陸軍省の報道部長谷萩那華雄・海軍省の報道課長平出英夫・日本放送協會の業務局長關正雄・東京帝國大學文學部教授の久松潜一・平泉澄・日本文學報國會の會長徳富蘇峰・理事下村海南、これら諸氏がそれである。 顧問は随時随意に選定會場に出席して意見を述べ、又は質問に答へることとした。この愛國百人一首は文學の為めの文學でなく、聖戰最中の刻下、國民精神作興といふ國家的の目的を持つて居り、政治的乃至社會的の觀點を最も重要とするゆゑ、これら諸氏を顧問としたのは當然至極の用意であらねばならぬ。これら諸氏以外にも、辻善之助博士や井野邊茂雄博士などが出席せられ前者は鎌倉時代の、後者は幕末時代の歴史の疑問に封して解決を與へられた。 文學會の事務局長・久米正雄氏及び総務部長甲賀三郎氏が終始幹事として熱心に働かれ、同會短歌部門の幹事諸氏が準備委員として資料提出に盡瘁せられたことなども、忘却してはならぬ。 この企ての發表されたのは九月中旬で、爾來六囘の選定會合を催し、十一月十八日深更に及んでやつと選定委員の手を離れ、翌日情報局の検閲を經ていよいよ確定し、廿日百首の發表を見たのであつた。かやうにして慎重の手續を經たものなることは、一般世人に承知してもらひたいのである。 選定方針の要綱は左の如く決定された。列記すれば、
以上の如き要網の下に選定が進められた。皆熱心に檢討し論議し、往々ロ角泡を飛ばしたことは、佐佐木先生が「かの古への獨鈷鎌首の爭をも思はしむ」と書かれた通りである。 さて、愛國歌資料の最も多き時代は、萬葉時代と吉野時代と幕末時代との三者なりしことは、いふ迄もない。愛國歌を選ぶ以上、作者の人物を考慮したことも勿論だ。ロ先ばかりの愛國歌やいかがはしい人物の作は採らなかつた。眞の愛國者、愛國の事實を體驗した人、武には限らず文によつて盡くした人、自分の職域に於いて國家に功献した人、等々といふやうに考慮を拂った。但、上代の人で傅記不明の人の幾人か入選したのは、やむを得い。 老若共に國家に盡さねばならぬ。依つて、尾張濱主の如き百十餘歳の人や森迫親正の如き十餘歳の人を採るやうにも注意した。婦人は大切の要素なるゆゑ、見落さぬやうに努めた。又、増産を喫緊事とする聖戦下のことだから、農業に關する歌は勿論、鑛業や漁業などに關係ある歌も、採るやうに留意した。 かやうに随分と熟考して選んだのであるけれども、何分にも一百首の中にすべてを包有するわけには行かない。相當大事な對象で、漏れたものもあらう。又、特に世間の諒解を得ておきたいのは、立派な人物や、立派な歌で漏れたものが澤山あらう。 例へばかく申す筆者がずゐぶん主張した歌でも、いろいろの觀點から論じられて入選しなかつたものが數首に上る。それはやむを得ぬことだ。古來無數の愛國者を一百人に限定し、無數の愛國歌を一百首に制限するのだから、どうしても、何人が如何なる方法を盡くして選んでも、完全無缺といふわけには參らぬ。 唯、これだけの事は言へる。すなはち、他に幾多の善き愛國歌が残されてゐるけれども、今囘の百人一首の歌は、いづれも國民の諳誦に値すべき記念的作品である。 選歌確定の上は、一日も早く世間に流布するやう宣傳することが必要だ。情報局も特にそれを希望せられた。日時をおかずして、東京日日・大阪毎日紙上に選定委員其他協力執筆の解説が掲げ始められ、東西の朝日新聞には筆者の解説が載せられ始めた。五萬組の歌留多を急製し、新春の娯樂として、戦地将兵及び銃後家庭への贈物とすることになつたと聞く。 講演會や展覧會なども開かれるだらう。繪畫や演劇や映畫の題材ともなるであらう。又、単行本の解説及び鑑賞の書としては、先づ日本文學報國會編纂の定本が多分十八年三月頃公けにせられ、然る後、何人でも自由に解釋乃至研究の著述を出すといふことに定められた。 (以下、p104まで中略) 藤原為氏(ふぢはらのためうぢ) 勅として祈るしるしの神風に寄せくる浪はかつ碎けつつ 増鏡「老のなみ」の章に出。増鏡の本文を見ると「伊勢の勅使に經任(つねたふ)大納言まゐる」云々とあつて、それから後段に「さて為氏の大納言、伊勢の勅使にて、のぼる道より申し送りける、勅としていのるしるしの神風に云々」と書いてあるので、讀み方に疑問が起り得る。 勅使は經任大納言と書き、次に、何のことわりもなしに為氏の大納言伊勢の勅使にて云々とあるゆゑ、この為氏は經任の誤りにあらずやと、筆者なども従來迷つてゐたのであつた。それで今囘「百首」選定の節、皆で辻博士の説を質したところ、後宇多天皇の勅使として經任、亀山上皇の御使として為氏が遣はされたといふ史實を教へられ、疑問は氷釋した。(筆者はさう了解したが、聴き誤りであつたならば、辻博士にすまない。)とにかく増鏡の叙述ぶりは不精確である。一本に下句「寄せくる浪ぞかつ碎けつる」とあることも言ひ添へておく。 ○初句「勅として」は勅使として、の意に相違ない。然るに、どうもこの句には疑問が残る。一本に「勅をして」とあり、これは勅使をお遣はしになつての意と、普通の増鏡註釋書に書いてある。選定委員會のとき筆者の隣席に在つた尾上柴舟博士に、この疑問の點をささやくと、博士は「勅と、は勅(みこと)を誤寫して勅(みこ)と、と傳へられたのかも知れぬ」といふやうなことを答へられた。もちろん座談で、博士の説と決めるのは如何かと思ふが、参考まで。「いのるしるしの神風」祈願し奉ると直ちに霊験の神風が吹き起つて、の意。「寄せくる浪」は西海の蒙古勢なることは云ふ迄もなし。前出祐春の歌の第二句と一致す。「かつ碎けつつ」の「かつ」は副詞で、片一方よりの意、すなはち、片つ端から。 ○勘仲記によれば中御門經任等公卿勅使は弘安四年閏七月二日京都を出發し、同十一日に帰京せられたのであつた。すなはち勅使發向の前日すでに豪古勢は神風によつて覆滅してゐたのであるが、當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつたのである、公卿勅使も伊勢への旅行の往還いづれかで初めて聞知されたものなることは、明らかだ。依而、為氏の一首も「のぼる道より」帰洛の途中よりとしてある。 ○弘安日記抄閏七月十一日の條に「公卿勅使、有臨幸被發遣之、希代之御願也、叡慮其他之子細、宗廟無納受歟」とあり、壬生官務の日記にも「神カに於いては末代と雖、感涙抑へ難き事なり」と書いてある。 (以下略) |