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川添昭二 「『弘安の御願』をめぐる論争」
(『蒙古襲来研究史論』.雄山閣出版.1977年.p158以下)






川添昭二氏の略歴(※)
昭和2年生れ
昭和27年九州大学文学部史学科卒業
九大学文学部教授等を経て
現在 福岡大学人文学部教授、九州大学名誉教授。
文学博士
主要著書
『注解元寇防塁編年史料−異国警固番役史料の研究−』 『蒙古襲来研究史論』 『鎌倉文化』 『中世九州の政治と文化』 『中世文芸の地方史』 『九州中世史の研究』 『九州の中世世界』

※『人物叢書 今川了俊』(吉川弘文館.平成六年新装版著者略歴より)




三 「弘安の御願」をめぐる論争


(一)八代国治の新説

 八代国治「蒙古襲来に就ての研究」(大正七年一月『史学雑誌』二九編一号、大正一四年九月・吉川弘文館刊『国史叢説』に再録)は『伏敵編』に洩れた蒙古襲来関係の新史料を駆使した研究で、大正時代の蒙古襲来研究中すぐれたものの一つである。本論によってはじめて明らかにされた事実は多いが、『勘仲記』、『弘安四年日記抄』や図書寮・関戸守彦氏所蔵文書などによって、公家側の祈祷関係の事蹟が一層具体的に解明されたことは特筆されねばならぬ。

 その論証の過程で、弘安四年閏七月の伊勢大神宮への亀山上皇の祈願と伝えられていた事実を、後宇多天皇の勅願であると論断した。亀山上皇の祈願は古来から人口に膾炙していたため、八代の新説は世の注目をあび、諸新聞・雑誌に転載報導され、その後この問題をめぐって研究者の間に論難がかわされた。

 この、いわゆる弘安の御願についての基礎史料は『増鏡』第十老のなみで、その解釈いかんによって亀山上皇説ともなり、後宇多天皇説ともなる。関係箇所を岩波日本古典文学大系87(366−7頁)によって示しておこう。

 弘安も四年となりぬ。夏比、後嵯峨院の姫宮、かくれさせ給ぬ。(○中略)其比、蒙古起こるとかやいひて、世の中騒ぎたちぬ。色さまざまに恐ろしう聞こゆれば、「本院(後深草)・新院(亀山)は東へ御下あるべし。内(後宇多)・東宮(伏見)は京にわたらせ給て、東の武士ども上りてさぶらふべし」など沙汰ありて、山々寺々に御祈り、数知らず。
 伊勢の勅使に、経任大納言まいる。新院(亀山)も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老(思円)召されて、真読の大般若供養せらる。太神宮へ御願に、「我御代にしもかゝる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし、御手づから書かせ給けるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」と、なを諌めきこえさせ給ぞ、ことはりにあはれなる。東にも、いひしらぬ祈りどもこちたくのゝしる。
 故院(後嵯峨院)の御代にも、御賀の試楽の頃、かゝる事ありしかど、ほどなくこそしづまりにしを、この度は、いとにがにがしう、牒状とかや持ちて参れる人など有て、わづらはしうきこゆれば、上下思ひまどふ事かぎりなし。されども、七月一日(閏七月一日)、おびたゝしき大風吹て、異国の舟六万艘、つは物乗りて筑紫へよりたる、みな吹破られぬれぱ、或は水に沈み、をのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰にけり。(○中略)さて為氏大納言、伊勢の勅使のぼるみち、申をくりける。
 勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつゝ
かくて静まりぬれば、京にも東にも、御心どもおちゐて、めでたさかぎりなし。

 八代は、『続本朝通鑑』や『大日本史』亀山天皇の本記に、すでに亀山上皇御祈願と解していることをあげ、そのように解されてきた理由と、その当たらないことを四点に分けて説明している。

(一)「太神宮への御願に」という文句が、新院も云々の次にあるから、文章が連続して、亀山上量の御願と認めたのであろうが、この文章は「供養せらる」で一段落付いたので、太神宮の御願は公卿勅使を受けたものと認めるのが穏当で、太神宮の上にさてという字を入れてみると、よく意味が通ずるように思う。

(二)この時は亀山上皇の院政であるから、上皇の御願と考えたのであろうが、国家重大の事柄に関しては、すべて詔勅宣旨でおこなう例であるから、この御願も天皇の御願と認むべきである。ことに「君が御代にも」とあるのは、上皇ではいえないことである。

(三)大宮院は亀山上皇の母で、上皇を寵愛していたから諫めたものと認められたのであろうが、御宇多天皇も大宮院の孫で寵愛深かったことが『増鏡』にみえているから、後宇多天皇とみてさしつかえない。

(四)「為氏の大納言伊勢の勅使にて上る」とあるので、亀山上皇より院公卿勅使が別に立てられて御願があったと認められたものであろう。しかし、院公卿勅使は院司の中の公卿が勤むる例であるが、為氏は院司ではなく、和田英松・佐藤球『増鏡詳解』にいうように、為氏は中御門経任を誤ったものであろう。かつ、『勘仲記」や『弘安四年日記抄』には公卿勅使発遣のことは委しく記されているが、院公卿勅使発遣のことはみえない。

以上が八代の新説の内容である。


(二)八代説への批判

 大正七年(一九一八)四月、龍粛は『史学雑誌』二九編四号に「弘安の御願に就いて」(昭和三二年一二月、春秋社刊『鎌倉時代』下に再録)を発表し、『増鏡』の記事から、この御願は大宮院(後嵯峨天皇の皇后・※子。西園寺実氏の第一女。後深草・亀山天皇の生母)とことに親密な関係の人物でなければならぬとして種々考証し、それは後宇多天皇ではなくやはり亀山上皇であるとした。
※女へんに「吉」

 また八代説の根拠の一つは、『増鏡』以外の諸史料に、院から大神宮への使いの発遣のことがまったく見えず、『弘安四年日記抄』の記事から、この御願が公卿勅使経任が大神宮に捧げたものに違いないとすることにあった。龍は、これに対して、院使発遣の蓋然性がまったくないとはいえないとし、『弘安四年日記抄』の「希代之御願也、叡慮異他之子細」という表現も単なる形容詞にすぎず、八代説=後宇多天皇説のいうように身を以て国難に代らんとする御願を指すものとは限らないとした。

 弘安の御願に関して、八代説を批判した龍粛の前掲論文のあと、ひきつづいて、慎重な行論ではあるが、亀山説を支持して新史料を提示し八代説を批判した栢原昌三の論文「弘安御祈願と通海権僧正」(『歴史と地理』二巻一号、大正七年八月)が発表された。八代はその後再びこの問題を大正八年五月の史学会講演で論じた(「史学雑誌」三○編六号、前掲『国史叢説』に収む)。

 八代は、栢原が亀山上皇祈願の証として挙げた通海の『伊勢大神宮参詣記』の法楽社の記事を疑わしいとして退けた。また栢原があげた『続門葉集』中の通海の歌の詞書にみえる「公家」というのは、天皇しか指さないと論じ、さらに栢原があげた『弘安百首』中の亀山上皇の御製は『新後撰和歌集』によって弘安元年のものと認められるから、弘安四年の祈願に関係はないと断じた。最後に従前からの自説をまとめ、後宇多天皇説が成立する理由として次の三ヵ条をあげている。

第一、増鏡の文章のみでも、天皇の御願と解すれば、文章も調ひ、脈絡も貫通して、意味が徹底する様であります、之に反して上皇の御願と解すれば、或は石清水に御祈願、或は伊勢に御祈願、或は御在位中の御祈願と三様に解せられる上に、文章に連絡もなくなりて、難解なものとなるのであります。

第二、勘仲記、弘安四年日記抄等によれば、後宇多天皇が公卿勅使を発遣せられ、且其の御祈願は委しく記されて、之に希代の御願とさへあって、立派な傍証とすることが出来る様に思はれる、然るに亀山上皇が太神宮に御祈願になられたことは、弘安九年太神宮参詣記に、通海法印が院宣を奉じて法楽社に祈ったとあるが、同書は後世のもので信拠すべき史料でない。従うて上皇太神宮御祈願の証拠は見当らぬことゝなるのであります、

第三、弘安四年閏七月一日の大風雨は、当時の人々は、天皇の御祈願に基づく神風と信じ、弘安四年日記抄に「今出神力給、雖末代猶感涙難押事也」、勘仲記に「今度事神鑒炳焉之至也」と書いてあるのを見ても、天皇の御願であったことの傍証とすることが出来ませう。

 龍・栢原両論文に対する八代の反批判ののち、龍・栢原からの再批判はなされないままにすぎた。その後、以上の三人の提出・依拠した史料にもとづいて論証を展開し、龍・栢原の説を妥当であるとしたのが、大正八年一二月の『史学雑誌』三一編一二号に収めた平泉澄「亀山上皇殉国の御祈願」(大正一五年五月、至文堂刊『我が歴史観』に再録)である。

 八代があげた後宇多天皇説の根拠三ヵ条をいちいち批判し、『通海参詣記』は弘安九年(一二八六)から永仁元年(一二九三)の間に通海か門下法弟の仮託形式かのいずれかで述作されたものとし、八代が上皇には用いることのできないとした「公家」の詞は『増鏡』新島守の条によってそうではないと断じ、『続門葉集』の通海の歌を弘安四年のものと断じて亀山上皇説を強調した。

 弘安の御願については、八代・龍・栢原・平泉の間に、以上のような応酬がかわされたが、亀山上皇説・後宇多天皇説ともに決定的な支証を欠いて、史料の解釈いかんによってはいずれかの説になるという傾向をもっている。しかし後述のように、通海の『伊勢大神宮参詣記』の信憑性はおおむね信頼できるようであるから、その点に即していえば通説の亀山上皇説に有利になっているといえる。

 それにしてもこの問題はいずれかに決定できたというものではない。きめ手になる強力な新史料の出現をまつほかはない。ただ、説の当否はしばらくおくとしても、こと皇室にかかわり、「亀山上皇殉国の御祈願」として国民のあいだに定着していた見解を、果敢に打破しようとした八代国治の勇気ある研究姿勢は敬服にあたいする。


(三)『通海参詣記』

 弘安の御願をめぐる問題は、前述のように、通海の『伊勢大神宮参詣記』(『通海参詣記』または『通海法印参詣記』ともいう)の真偽の論をともなった。八代の偽書説に対して平泉のこれを否定する論が発表されたわけであるが、昭和三年(一九二八)七月から九月にかけて小島鉦作「通海権僧正事蹟考」(『歴史地理』五二巻、一・二・三号)が発表され、平泉説が補強された。

 八代が本書について史実の誤りとしたところは、ほとんどすべて八代の誤解であることを論証し、その成立年代については、文中に「為継朝臣」とあるところに注目して、弘安九年八月下旬から同一一年(正応元年)九月までの約二カ年の間の述作であるとし、作者については大中臣輔親の系統・岩出流の子孫の一人で、通海とみてさしつかえないとした。

 その後昭和一二年(一九三七)に池山聡助「弘安太神宮参詣記の著作年代について」(『皇学』五−二)が出て、新院は亀山上皇で、その新院と呼ばれていた期間は弘安一○年一○月までであるとして、著作年代の下限を一年短縮している。

 なお、水戸の小宮山昌秀が入手して、寛政八年(一七九六)九月に豊崎宮文庫に奉納した室町期書写本上巻と一具をなす高野山金剛三昧院蔵の下巻が久保田収「通海参詣記述作の意図」・「同補遺」(『神道学」二一号・二二号、昭和三四年五月・八月)によって紹介介され、本書が通海の作であることが確認された。その述作の意図は下巻に明瞭で、神は仏法を納受してきたという点の強調にあったとし、蒙古襲来の危機を背景にするものであることを述べ、末法思想の克服との関連を説いている。



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