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小島鉦作 「伊勢公卿勅使駅家役と社寺領荘園」
(『小島鉦作著作集第二巻.伊勢神宮史の研究』吉川弘文館.昭和60年)




※小島鉦作氏の略歴はこちら



伊勢公卿勅使駅家役と社寺領荘園


 (※以下の7節のうち、一と二のみ引用)

一 緒言
二 公卿勅使の街道とその一行
三 公卿勅使駅家役とその勤仕
四 社寺領荘園における駅家役免除の特権の成立
五 社寺領荘園に対する駅家役免除の特権とその影響
六 社寺領荘園に対する駅家役免除の特権の停廃
七 結語 


一 緒言

 伊勢公卿勅使は皇室または国家及び神宮に重大事のある場合、あるいは特殊の神宝・幣物等を奉献せられる際、朝臣の中より特に公卿を選んで神宮に発遣せられる幣使をいい、聖武天皇〔701〜56.56歳〕の天平十年(738)五月に右大臣橘諸兄〔?〜757〕を遣わして神宝を奉り、遣唐使の渡海平安を祈らしめ給うたのを初見とし、以後、孝明天皇〔1831〜66.36歳〕の文久元年(1861)五月に辛酉御慎のために、権大納言広幡忠礼を参向せしめられるに至るまで、その発遣は一百二十七ヵ度に及んでいる。

 しかして本使は後醍醐天皇〔1288〜1339.52歳〕の嘉暦三年(1328)九月に、権大納言万里小路宣房〔1258〜?〕が発遣せられて以後、世上の乱離により久しく中絶し、後光明天皇〔1633〜54.22歳〕の正保四年(1647)九月に及んで再興せられたが、孝明天皇に至るまでのいわゆる近世期においては、僅々七ヵ度の発遣があったに過ぎない。その大部分は鎌倉時代以前のことに属するのである。しかも本使の発遣はもと奈良時代より始まるというも、にわかに頻繁となったのは平安時代の末期、院政時代以後のことであって、白河・堀河・鳥羽の三代、すなわち白河法皇〔1053〜1129.77歳〕の院庁政治の御代のみでも三十七ヵ度に及び、全発遣度数の約三分の一を占め、次の崇徳・近衛・後白河・二条・高倉・安徳の六代にて二十八ヵ度このことがあり、従って院政時代を通ずると、その度数はすでに全体の半ばを超えている。かくてこの余勢は鎌倉時代に及び、後鳥羽〔1180〜1239.60歳〕・土御門〔1195〜1231.37歳〕・順徳〔1197〜1242.46歳〕・後堀河〔1212〜34.23歳〕四条〔1231〜42.12歳〕の五代の御宇において十八ヵ度の発遣があったから、院政時代と鎌倉時代前半期とを合すれば、都合八十三ヵ度となり、全度数のほぼ七割にも達しようとしている。

 公卿勅使自身の紀行及び勅使関係の記録も、もとより右の時代に属するものが多い。私はそれらを中心として、この時代の記録・文書によって、公卿勅使の駅家役、すなわち街道筋の課役がいかなるものであったかを一瞥し、併せて当代社会の支配的体制であった荘園制度、なかんずく社寺領荘園とこの課役との関係、特に社寺領に対しては、この課役の賦課について特例が設けられたことを明らかにすべく、若干の考察を試みたいと思う。 けだし、公卿勅使の課役は、これを分かてば勅使が京都より神都に至る間の供給搬送等の料と、神宝ならびに神宮祠官の禄等に充てた料とになる。概括的にいえぱ、前者はその街道筋である近江・伊勢両国に臨時に課せられた地方的課役であるに対し、後者は全国的性質を帯びた臨時の賦課に外ならないのである。当面の問題である駅家役は、いうまでもなく前者のことであるが、これを説くにはまず勅使の街道とその一行とを、瞥見するところがなければならない。


二 公卿勅使の街道とその一行

 京都より近江・伊勢両国を経て神宮の鎮座される現在の伊勢市に達するいわゆる参宮街道は、その延長三十五里(約百四十キロ)にわたる官道であって、公卿勅使の街道はすなわちこれに外ならない。いま、その路線を考察するにあたって最も重要なる拠証となり得るものは、周知のごとく『延喜式』の「兵部式」に載せられた近江・伊勢両国の駅の位置及び「斎宮式」に記された五ヵ所の頓宮と六ヵ所の堺川との位置である。これについてはさきに大西源一氏が「平安朝時代の参宮街道」において委細考察を加えられたから、ここではそれに譲り、ただ「兵部式」に見える参宮街道上の駅は、近江国において勢多・岡田・甲賀の三駅、伊勢国において鈴鹿○後世の関・市村○市師の誤にて壱志のこと・飯高・度会○離宮院のこと の四駅、併せて七駅であることを挙示するにとどめる。勅使の参宮の往復に、この七駅のいずれかを用いるものであることはいうまでもない。

 公卿勅使参宮の実例について観察すると、同時に七駅をことごとく用いた例はなく、多くは五駅または四駅を用い、三駅を用いた例もままあった。五駅を用いるとすれば、勢多・甲賀・鈴鹿・壱志・離宮によるので、京都を発して参宮するまでに六日を費やすのであるが、勢多に一日滞留して七日を要する例も少なくなかった。寛弘二年(1005)、延久六年(1074)、嘉承二年(1107)、永久二年(1114)、治承元年(1177)等は前者の例であり、長暦元年(1037)、治暦二年(1066)、長治二年(1105)、天永四年(1131)、保延七年(1141) 等は後者の例である。四駅を用いる場合は壱志を除き、勢多・甲賀・鈴鹿・離宮に宿して五日目に参宮するのであって、これは鎌倉時代に入り文治二年(1186)、建久六年(1195)、承元二年(1208)等その例が多く、また三駅を用い、第四日に参宮する際は、甲賀・鈴鹿・離宮により、勢多を省く。保安〔1120-24〕・長寛〔1163-65〕の頃にこれは行われたが、不快の例と見なされていた。こうして勅使は離宮に一宿するや、宮川を渡って神都の地に入り、まず豊受大神宮に参り、次に皇大神宮を拝し、各々の勅のまにまに奉幣し、また離宮に戻って泊り、帰路は鈴鹿・甲賀と併せて三駅を用い、第四日に帰洛し、即日参内して復命するのが普通の例であるが、また壱志を加えて四駅を用い、第五日に入洛することも少なくはなかった。

 以上のごとく勅使の参宮に要する往復の日数は、七日ないし十一日である。けれども、これはもとより原則であって、当時のように交通機関が完備せず、しかも河川の多いこの街道では、風雨等のために妨げられることがあり、まして重大な神事に奉仕する長途の行旅とて、人馬の故障その他について測らざる穢(けがれ)にさえ触れることもあった。されば勅使の往復の日程は、これらの事情で臨時に変更を余儀なくせられたことも、必ずしも稀ではなかったのである。

 次に公卿勅使一行の人数について見るに、寛治四年(1090)の勅使に対して、伊勢国ならびに大神宮司に路次の供給を令した官宣旨によれば、一行は勅使権大納言源雅実〔1058〜1126.69歳〕に従十五人、散位致清王に従五人、中臣・忌部・ト部に従各五人、神部四人に従各一人、執幣四人、馬丁三人、飼丁三人、神宝持丁二十二人、外に御馬三疋である。故にその人数は合計八十人である。この一行の人数は時により多少の増減は免れない。しかし、永久二年〔1114〕正月の勅使が供給の関係から極力その員数を節減したけれども、記録に見えるのみを数えても四十人を超えている。それより約五十年後の仁安三年(1168)の際はその一行総数二百七十余人に上っている。しかるに、下って寛喜三年(1231)の時、勅使の注申するところの人数は八百余人であった。けれども、さらにこれを近江・伊勢両国司ならびに祭主等に下した勅使の人数注文によって、実際に点検すると、寛治四年の官宣旨には見えない私的関係、またはそれに類する従者が甚だ多く、総計千百人に近い。そして諸種の馬匹は二百六十疋に達している。その行列の大規模なること、誠に想像するに余りあるが、さらに嘉暦三年(1328)の勅使について見ても、なおその一行は五百五十一人を算(かぞ)え、外に馬が百三疋加わっているのである。

 かくのごとく、平安時代には勅使ならびに副使以下おおむね理由があると考えられる従者を具して参向し、それに対する分の供給を下知したのであるが、鎌倉時代に入ってはようやく行楽的気風が強く、勅使と私的関係のもの、または勅使本来の使命に関係が薄いものが多人数随従し、それらの供給をも両国に命じたから、両国のこの勅使による負担が、ほぼその人数に比例して重きを加えるようになり、臨時課役といっても実は容易ならぬものとなったであろうことは想像するに難くない。このことは、公卿勅使が次第にたやすくは発遣できないようになり、やがて久しきにわたって断絶するに至る一要因であると考えられる。



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