up10.5/18

| 長坂成行氏の略歴(上掲書による) |
| 1949年生まれ。奈良大学教授。 |
| 二 微温的な歴史語り−『増鏡』 『増鏡』は嵯峨の清涼寺に詣でた筆者が老尼に会い、『弥世継(いやよつぎ)』(逸書)以降の歴史語りを聴くという設定で始まり、『大鏡』以来の和文の鏡ものの伝統をふまえている。ただし、この序に対応する結びはなく、最終記事で四条隆資(たかすけ)還俗のことが大尾にふさわしいか否かの問題ともからめて『増鏡』未完成説(7)もある。 冶承四年(1180)の後鳥羽院の生誕から、元弘三年(1333)の後醍醐天皇の還幸まで、一五代の天皇の一五○年間を扱う本書の叙述の中心は天皇・公家社会であり、例えば天皇については誕生から崩御にいたる人生の要事を余さず記し、また宮廷での遊宴・賀会、諸方への行幸・御幸、勅撰集の撰集事情、和歌の贈答、男女の恋愛・情事など、公家社会のおよそ考え得る「優艶とあはれに満ちた」(8)雅事が、さながら王朝絵巻の如く連綿と綴られる。 こうした『増鏡』の叙述からは、穏健中庸な上流貴族が作者像として浮かぶ。良基執筆の他作の文章との類似などを根拠にした石田吉貞(9)らによる関白二条良基作者説は現在も有力ではあるが(10)、基礎的諸問題に関する宮内三二郎の提言(11)以来、白紙にもどして再検討すべきであるという意見は根強く(12)、作者が生存したと思われる時期の記事の分析から立論する洞院公賢(といいんきんかた)説(13)なども、『太平記』作者圏の周辺の問題(14)とも関連して注目すべき説である。 『増鏡』の諸本は一七巻から成る古本系諸本と、一九巻あるいは二○巻から成る流布本系(増補系)諸本とに大別され(15)、従来主に前者が議論の対象となり、後者は増補されたものとして顧みられることが少なかった。ところが昭和四○年代後半に相ついで二○巻本原態説(16)が出て以来、流布本系諸本の本文研究が急速に進みつつある。 後崇光院本を中心に本文異同を精査した鈴木登美恵は、近衛家・西園寺家の立場に基づく増補改訂の痕跡を探り(17)、伊藤敬は流布本系諸本の総合的考察の結果、宮内説に近い流布本系原態の立場を示す(18)。古本系の桂宮本に拠りつつ流布本系諸本のみに存する文章をも併載する井上宗雄の注釈書(19)もこうした機運を承けたものである。 『増鏡』の叙述は時局の推移をかいつまんで記し、ある事件を仔細に描写し尽くすという情念には乏しい。例えば巻一六「久米のさら山」は元弘の乱の事後処理を記し、『太平記』で言えば巻四前半に相当する。 冒頭からの記事を一部摘記すれば、@宮中での新年の儀、A幽閉中の帝と中宮の和歌贈答、B帝の処置の決定、C京を出立、D供奉人とその行装、E都になごりを惜しむ帝、F淀の渡りでの道誉と帝、G宮々配流、H帝、昆陽(こや)から湊川ヘ、I福原から播磨路ヘ、と続く。 いずれも日本古典文学大系本で一○行前後の分量で淡々とした叙述が進み、例えばGの中では、
といった調子で、配流決定の悲しみは窺えるもののどこか傍観的なことは否めない。名所・歌枕にいたれば、H「生田の里をば訪はで過ぎさせ給ぬめり」と古歌を援用し、S須磨では在原行平・光源氏を流謫の先人として引き合いに出し、塩屋・垂水に関しては「名を聞くよりからき道にこそ」と王朝文学の伝統的表現方法をとる。その結果、流謫行の悲傷性はあまり感じられず、「さながら歌枕(的)道行文のように、口調の良い、朗誦にも充分堪える明るく快い文章(21)」となったのである。 『増鏡』の歴史叙述は総じて穏健隠微で、当事者はともかく、多くの享受者はその叙述意図を掴みかね、「一貫した歴史観や思想は測りにくくなっている(22)」などと評される。しかし前述の本文研究によれば、本書の本文異同も家門の意識から生じていることが多いようで、一見把握しにくい叙述にも家の名誉の問題が反映しており、広義の政治意識があったことを逆説的に物語るものである。 歴史意識を論じた最近の論を挙げておけば、公武両権力の望ましい協調の上に築かれる繁栄と安寧を念ずる書であると規定する加納重文は、後嵯峨院時代の叙述にその理想的な相をみる(23)。また皇位継承史的側面に注目し、皇位継承時に一度は挫折した者が複雑な過程を経て復権してゆく「明暗循環」(24)の構図をみる福田景道には二家系対照(25)・両統併存(26)などの諸論がある。これらを承けつつ皇位継承者を公武対立派(後鳥羽・後亀山・後醍醐)と公武協調派(後嵯峨・後深草・伏見)とに分けて、それらの先例の持つ意味を探る小島明子の論(27)も印象に残る。 いずれも本書の持つ隠微な表現から、共感あるいは批判を丁寧に読み取り、それを歴史的事実に照合しつつ分析するもので、今後も積み重ねてゆく必要がある。ただ、こうした史実と虚構を対比する二項対立の設定自体を疑問視する向きもあるが、この種の作業の蓄積さえ充分でないというのが、『増鏡』のみならずこの期の歴史文学の研究状況であると評するのは不遜であろうか。
|