
| 冷泉貴実子氏の略歴 |
| 昭和22年(1947)京都市生まれ。京都女子大学大学院修了。冷泉家当主為人氏夫人。 |
| 現存する唯一の公家屋敷で、和歌の家・冷泉家。 藤原俊成・定家に始まり、八百年にわたって守り抜いてきた蔵書の数々や宮廷文化の雅(みやび)、今に生きる公家の暮らしを紹介する。 冷泉家時雨亭文庫.俊成・定家以来の和歌の家 冷泉家時雨亭文庫(れいぜいけしぐれていぶんこ)は、冷泉家に伝わる文化財を保存・管理するために昭和五十六年(1981)に設立された財団法人の名称である。その名称の由来は、冷泉家の祖、藤原定家が百人一首を選んだといわれる、京都小倉山の山荘「時雨亭」による。 すなわち冷泉家は、その祖に、歌聖(かせい)と呼ぱれた藤原俊成・定家の父子をもち、その後代々が和歌の家として、宮中に確固たる位置を占めてきたのである。定家の子為家(ためいえ)は、為氏(ためうじ)を嫡男としたが、のちに阿仏尼との間にもうけた為相(ためすけ)を可愛がり、為氏に譲ることに決めていた荘園と父定家、祖父俊成が書き残した和歌の本を、阿仏尼を通して為相に譲るという譲状(遺言状)を認(したた)めてこの世を去った。このことが兄弟間の相続争いを引き起こし、阿仏尼は時の鎌倉幕府へ為家の譲状をもって訴え出た。この道中記が『十六夜日記(いざよいにっき)』である。 阿仏尼の死後、訴えが認められ、多くの財産が為相の元に入った。こうして、兄弟は分立することとなり、為氏の家を二条家、その弟為教の家を京極家、そして為相の家を冷泉家というようになる。南北朝期に二条家、京極家が相次いで滅ぶと、冷泉家は俊成・定家を家祖(かそ)とする歌仙(かせん)正統の唯一の家として、宮中にゆるぎない位置を保った。 江戸時代になると、公家衆だけでなく、武士や町人もその和歌の門人となり、冷泉家は歌道(かどう)の宗家として、日本文化全体に広く影響を与えたのである。 阿仏尼が守った俊成・定家以来の和歌に関する典籍類は、家元(いえもと)の証(あかし)の文物(ぶんぶつ)として大切に守られ、それを収蔵する「御文庫」は当主と嫡男以外の人の出入りを禁じてきた。 旧公家町に残る文化遺産 明治維新と第二次世界大戦は、わが国の文化的価値観を根底からくつがえし、多くの宮廷文化遺産が散逸、焼失した。その中にあって、京都御所近くの公家町を動かなかった冷泉家の文化遺産は、奇跡的に現在に守り伝えられてきた。 冷泉家の住居は、江戸時代の初期、豊臣秀吉から徳川家康にかけての京都再編成期に、御所を整備する一環として設けられた公家町に、慶長十一年(1606)建てられた。以後、元明の大火(天明八年=1788)で焼失し、その翌々年の寛政二年(1790)に再建されたもので、元の地に残る唯一の公家住宅として重要文化財に指定されている。 この住宅で今も続く和歌会を始めとする様々な年中行事は、宮中が明治維新で失った行事のおもかげを今に伝えるものである。ことに御影(みえい)として崇拝の対象となってきた代々の肖像画は、美術史的価値はもちろん、その祭祀の仕方においても、わが国の肖像画の発生と進展の歴史を秘めている。以上のように、冷泉家に伝わる有形・無形の文化財を、生きた文化財として、生活文化のなかに位置づけ、次代へ伝えようとしているのが、財団法人冷泉家時雨亭文庫である。 |
| ※冷泉貴実子氏は確かに嘘は書いていないのであるが、以上の相続争いの登場人物に年齢を付加するだけでも、随分変な話のように思えてくるのである。もう少し客観的な立場からの説明はこちら。(瀬野精一郎氏「悪女阿仏尼」)また、冷泉家のみならず、貴族社会全般についての理解に役立つものとしては、こちら。(角田文衛氏「冷泉家の歴史」) |