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龍粛 「弘安の御願について」
(『鎌倉時代・下』.春秋社.昭和32年.p183以下)


※初出は『史学雑誌』29編4号.大正7(1918)年4月



※暫定的に「参考文献」に置いておきます。

龍粛氏の略歴(『国史大辞典』より)
(りょう・すすむ.1890〜1964)
 昭和時代の歴史学者。明治23年(1890)4月29日、静岡県敷知郡浜松町元城(静岡県浜松市元城町)に生まれた。父は金次郎、母は満寿。7歳の時東京に移り、大正4年(1915)7月、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。ただちに大学院に進んだが、翌5年1月、東京帝国大学史料編纂所嘱託となる。同11年史料編纂官に任じ、『大日本史料』第5編の編纂出版を担当した。昭和13年(1938)辻善之助所長のあとを受けて、史料編纂所長となった。以後、超国家主義者らの圧迫と戦中戦後の物資欠乏の中で、『大日本史料』『大日本古文書』の編纂事業を着実に進め、戦後の同所の出版事業再開へと尽力した。この間、帝国学士院の帝室制度歴史的研究事項調査嘱託、国学院大学教授、金沢文庫評議員などを歴任した。同25年4月、史料編纂所の機構改革により、東京大学教授に任じ、所長を兼務し、学生の指導にあたった。同26年3月東京大学を定年退官し、日本大学教授に就任。昭和34年日本大学より文学博士の学位を授与された。同39年2月25日没。73歳。墓は東京都府中市の多磨墓地にある。専攻は平安時代末から鎌倉時代の皇室史と政治史である。著書に『平安時代』『鎌倉時代』上・下、『吾妻鏡』(岩波文庫、訳注)、『世界印刷通史』などがある。
(鈴木圭吾)



龍粛氏の見解 私の考え方


 一.緒言


後宇多天皇の御願説の出現

 八代國治氏は「蒙古襲来に就ての研究」と題し、これに関係のある根本史料として、弘安四年日記抄・勘仲記等の紹介を兼ね、氏が多年研究された数多の事項を公にされた。斯界に稗益したところは敢えていうまでもなく、これによって在来認められておった史実が変わり、また不確定であったものが確定することになった。

龍粛氏がこの論文を書かれたのは数え年で29歳、史料編纂所嘱託となって2年余りたった時期である。なお、八代氏が史料編纂官となったのが大正9年(1920)、48歳の時であるのに対し、龍粛氏は大正11年(1922)、33歳の時であり、かなりの待遇の差がある。國學院出身の八代氏はノンキャリアの実力派といった感じである。後で参加してくる平泉澄氏が22歳年上の学会の大先輩である八代氏に対して異常に偉そうな態度をとるのも、平泉氏個人の性格の他に、戦前の東京帝国大学の気位の高さが反映されているような印象を受ける。

弘安4年(1281)時点での主要関係者の年齢を確認しておくと、亀山院33歳、後宇多天皇15歳、大宮院57歳、吉田(中御門)経任49歳、二条為氏60歳である。ちなみに、後深草院39歳、煕仁親王(伏見天皇)17歳、西園寺実兼33歳、後深草院二条は24歳である。
 その中でも特に弘安四年の蒙古来襲のおりに、亀山上皇が大神宮に身をもって國難に代らんことを祈られたという従来の増鏡の文の解釈について、その文章の解釈と、弘安四年日記抄、および勘仲記等の記事を傍証として、これは上皇の御願ではなく、後宇多天皇の御願と推断されると論ぜられた一項は、古来から人口に膾炙されたことであるため世の注意を惹き、諸新聞・雑誌に転載され、中にはこのことについて新しく絶対に確実な資料が発見されたように伝えたものもあった。

 この問題についての直接の資料はただ増鏡が一つあるに過ぎないためか、これについて従来特に研究されたものは見えないようで、八代氏のこの研究が恐らく最初のものであろうと思われる。これは頗る興味ある問題で、果して氏の所論のごとく天皇の御願と認むべきものであろうか、在来の上皇と認めた説は成立しないものであろうか、聊かここに卑見を述べて大方の批判を得たい。



「この問題についての直接の資料はただ増鏡が一つあるに過ぎない」ということは、仮に『増鏡』が信頼の置ける史料ではないとしたら、随分不安定な基礎の上に論争を展開させていることを意味する。ただ、論争参加者はあまりそうした危険性を意識せず、『増鏡』に対して暗黙のうちに信頼を寄せているようである。
二.在来の諸家の解釈


亀山上皇説の由来

 まず本問題について従来の諸家の解釈を見ると、第一に大日本史には、亀山天皇本紀に

弘安中蒙古来寇、帝深憂之、御書願文奉大神宮、祈以身代國難(増鏡)
弘安中、蒙古来寇す。帝深くこれを憂ひ、願文を御書して大神宮に奉り、身を以て國難に代らんと祈る、

と見えている。思うに、増鏡のこの御願についての明確な解釈としては最も早いものであろう。

大日本史「歴史書。水戸藩第2代藩主徳川光圀の下に1657年編纂開始。1906年完成。本紀・列伝・志・表4部、計397巻226冊からなり、国初から後小松天皇までの歴史を記載。朱子学の名分論の立場に立ち、尊皇思想の発達に深く影響。史料収集、史籍校訂、考証にもすぐれる。」(平凡社.『日本史事典』)

大日本史が1906年に完成したというのは誤植でも冗談でもない。実に着手から250年、明治39年にもなって、やっと完成させたのである。水戸人の尋常ならざる執念、驚異のねばり強さの賜物である。水戸の名物が納豆であるのも肯ける。

 第二に続本朝通鑑には、弘安四年の条に

秋七月甲午朔乙未、詔使権大納言藤経任奉幣伊勢大神宮、且奉幣諸社祈蒙古之事、○中略 新上皇幸八幡社、留宿祈蒙古之事、自作願文日、當朕執國政之時、有此變、今若我國為異賊所掠、則神可先早奪我命、大宮女院聞而太悲之、於是命西大寺衆僧転読大般若経
秋七月甲午の朔乙未、詔して権大納言藤経任をして伊勢大神宮に奉幣せしめ、且つ諸社に奉幣して蒙古の事を祈る。(中略)、新上皇(亀山)八幡社(石清水)に幸し、留宿して蒙古の事を祈り、自ら願文を作りて曰く、朕國政を執るの時に當って此の変あり、今もし我が國異賊に掠められるところとなれば、即ち神先づ早く我が命を奪ふべしと、大宮女院聞いて太だこれを悲しむ。ここにおいて西大寺の衆僧に命じて大般若経を転読せしむ。

とあって、この御願を上皇と認めたことは大日本史と同様であるが、捧げられた宮を石清水八幡宮とし、大日本史が大神宮としたことと相違している。続本朝通鑑は大日本史ほどに世に流布されなかったためか、この説を受け伝えたものは見えないようである。ただ本書は引用書名を挙げていない。

本朝通鑑「江戸幕府編纂の漢文・編年体の史書。310巻。初め林羅山が神武〜宇多天皇の時期を<本朝編年録>として編纂、これを正編とし、羅山の没後、子の鵞峯が業をつぎ神代を記述した前編と、醍醐〜後陽成天皇の時期を記した続編を編纂、1670年完成。」(平凡社.『日本史事典』)
 第三に國史眼の第九十六章に

亀山帝ノ文永五年、其主忽必烈高麗ヲ属シ、遂ニ我ヲ属セント欲シ、悖慢ノ書ヲ贈ル、朝廷報答セント欲ス、鎌府抑ヘテ遣ラズ、後嵯峨法皇宣命ヲ大神宮ニ奉ジ、山陵二告ゲ、筑紫ノ邊防ヲ巌ニス、八年豪古ノ使節趙良弼、筑前ノ今津ニ来リ國書ヲ致シテ朝貢ヲ詰責ス、答ズシテ之ヲ逐フ、亀山帝親政ニ及ビ大神宮ニ祈リ、身ヲ以テ國難ニ代ント請フ、十一年位ヲ譲ル、

とあって、この御願が亀山天皇であることは、前同様であるが、天皇の御在位中の事としている。本書も出典を拳げてないのて何に拠ったかは不明であるが、恐らく増鏡と五代帝王物語(八参照)とに拠ったものらしい。吉田東伍博士の倒叙日本史も國史眼の説を受けたように思われる。


國史眼(こくしがん)は明治前期の官撰日本通史。1890年刊。








吉田東伍(1864〜1918)「歴史学者。新潟県生まれ。小学校教員、新聞記者をしながら独学。1893年『日韓古史断』『徳川政教考』で学者として立った。のち早大教授。日本歴史地理学会を創設し、『大日本地名辞書』(1900〜1907)を完成。ほかに著書『倒叙日本史』『世阿弥十六部集』など。」(平凡社.『日本史事典』)
風宮考證の諸説

 以上の三説は何れも多少の相違はあるが、亀山天皇の御願と認めていることは一致している。これに対して後宇多天皇の御願であるとの説を述べたものには、宮内省図書寮所蔵の六人部是香(むとべこれか)の著風宮(かぜのみや)考證がある。

 本書は奥に嘉永七年五月廿九日六人部是香(花押)とあり、宛名を大中臣卿の御許へとしているものである。「伊勢内外(ないげ)の大御神の別宮風宮(かぜのみや)の本末また弘安の神験の論(あらが)ひ、風宮の祭神本縁などくさくさの事」との題下に記されたもので、所要の箇所を拳げれば次のごとくである。

今夜神祗官に行幸ならせ賜ひしは、全伊勢に勅使を発遣たまはんとての行幸にはあれど、殊更に官に行幸し給るは、官にてみづから御祈の旨乎とて遙拝したまひて、直に其叡慮に大御神には白したまひつるなるべし、共遙拝なからましかば恒の如く内裡より発遣たまひて、殊更に官には行幸べくもあらじかし、さて此時ものしたまひし宸翰の祝詞の事乎、増鏡に大神宮へ御願にわが御代にしもかゝる乱れいできて、まことにこの日本のそこなはるべくば、御命をめすべきよし、御手づからかゝせ給へるを、大宮院いとあるまじき御ことなりと、諌め聞えさせ給ふとことわりにあはれなる(大宮院は※子と申して後嵯峨院の皇妃にましてこの後宇多院の大御祖母に坐り)とありて、掛巻も忌々しく深く念じ入らせ給たりし叡慮を、内外の大御神も聞食したまひて、忽ち神験をも顕したまひしなるべし、



亀山天皇(1249〜1305.57歳)

後宇多天皇(1267〜1324.58歳)


六人部是香(むとべよしか.1806〜1863)は幕末の国学者、神官。平田篤胤に師事した。
 本書は、神祗官の行幸に増鏡の記事を連続させて、この御願を天皇の御事としたため、大宮院の注において女院と天皇との御血統関係を記したものに過ぎなく、特に考証したものとはいえない。されば天皇説は実にこの八代氏の論説によって、はじめて委曲の考証が尽されたものというべきであろう。

 天皇説はかく八代氏によって詳細に説明されたが、在来の上皇説の諸書は、上掲のものをはじめ、単に上皇の御事と記述しているに過ぎなく、如何なる論拠によったかは全然伝えておらぬ故、詳細は全く不明で、現存の資料から推考するに過ぎない。八代氏の論説の中にも、この上皇説のよって起った所以を述べられている。恐らくは然るべきであろうが、ただそれがすべてであるが否かは明らかでない。



三.増鏡の解釈


基本史料増鏡の文意

 現在においてはこの問題についての直接の史料は増鏡があるばかりで、その文章の解釈が本問題の中核をなしている。亀山上皇説も後宇多天皇説も実はただその文章の解釈の如何に存するに過ぎない。まず必要の箇所を抄出して、その二様の解釈を比べて見たい。

[増鏡]老いのなみ そのころ○弘安四年、蒙古おこるとかやいひて、世のなかさわぎたちぬ。色々様々におそろしう聞こゆれば、本院新院はあづまへ御下あるべし。内春宮は京にわたらせ給ひて、東の武士ども上り候ふべしなど沙汰ありて、山々寺々に御いのりかずしらず、伊勢の勅使に経任大納言まゐる、新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、真読の大般若供養せらる、太神宮へ御願に、我御代にしもかゝる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくば、御命を召すべきよし、御手づからかゝせ給けるを、大宮院いとあさるましき事なりと、なをいさめ聞えさせ給ふぞことはりにあはれなる、東にもいひしらぬ祈りどもこちたくのゝしる、故院の御代にも、御賀の試楽のころかゝる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、此度はいとにがにがしう、牒状とかや持ちて参れる人などありて、わづらはしう聞ゆれば、上下思ひまどふ事かぎりなし。○中略、さて為氏大納言、伊勢の勅使にてのぼるみちより申しおくりける。
 勅として祈るしるしの神風によせくる浪そかつくたけつる
かくてしづまりぬれば、京にも東にも、御心どもおちゐてめでたさかぎりなし。



『増鏡』の引用文中の「本院」「新院」「内」「春宮」は、それぞれ後深草院、亀山院、後宇多天皇、煕仁親王(伏見天皇)のこと。

 この文章によって、亀山上皇説は「経任大納言まゐる」までを情況の一般的の記事とし、その次を特に亀山上皇の御動静について述べたものと見て、さらに為氏の勅使を経任の公卿勅使と並べて上皇の御使と解釈したものであり、後宇多天皇説は「大般若供養せらる」までを一般的記事とし、その次を特に委しい事情を述べたものと解し、大神宮の御願を、経任の勅使と連絡あるものと認めたもので、したがって為氏の勅使のことは、照応するものがないので、前文との比較上為氏は経任の誤であろうと推断したのである。


吉田経任(1233〜1297.65歳)

二条為氏(1222〜1286.65歳)

両説発生の原因

 なおこのニつの説には、この増鏡鏡の文章以外に、他の事情が考慮の中に加えられていることは勿論であるが、増鏡の文の解釈としては上述の相違があるに過ぎない。続本朝通鑑はさらに一歩を進めて、八幡の御幸と御願を連絡あるものとしたのである。

 上皇説の背後には、当時は亀山上皇の院政であること、上皇と大宮院とは御母子の関係で、且つ上皇は女院の御鍾愛であったこととが、ながんずく重要な説明となっており、これに対して、天皇説は、当時、上皇から神宮への御使のことが、他の記録に見えないという事情が背景となって、増鏡の記事をこれにあてはめるように説明したのである。

大宮院(1225〜1292.68歳)
 それ故、その説明にあたっては、この御願を経任の勅使と連絡させることが必要となり、大宮院の御鍾愛の事情をば御孫の天皇に及ぼし、為氏は経任の誤写であると推定し、且つ当時天皇は宝算すでに十五で、親しく宣命を書かれたものと推量し、また御願に「我御代」と仰せられているのは、位を退かれた上皇では申されぬことであると論及したのである。


我御代の意味

 これについて、亀山上皇からの伊勢へ御使の発遣された有無を、増鏡以外のものによって確認して置くことは必要なことであるが、今増鏡の解釈のみから、この両説を比較して見れば、いずれの句までが一般的の事情を述べ、どこからが特殊な事情を書いたものであるかは、人々の解釈次第で、要するに、水掛論に終るけれど、上皇説の方が増鏡の解釈としては穏当であるらしく思われ、「我御代」という御願の文句は、増鏡の記者が要を摘んで書いた、すなわち記者の文と見る方がよくはないかと考えられる。

 若し然りとすれば、そのすぐ次に後嵯峨法皇の院政の時代を記して、故院の御代と書いているから、「御代」の語は、院政を見たまえる上皇の御代であっても差支なく、上皇では申されないという推論は如何かと思われる。それ故、これだけでは、増鏡の文章は上皇説にも天皇説にもなり、敢えて一方の説が成立しないという理由はない。








「故院の御代にも、御賀の試楽のころかゝる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、」という部分のこと。
 四.大宮院との御関係


大宮院の御所は常磐井殿

 しかしさらに一歩をすすめて増鏡の記事を読むと、この御願は大宮院と殊に親密な関係の方についての事でなければならぬようである。御願文が勅草であるほど大切なものであれば、殊更に母后の女院に伝えられることは如何であろうか。この場合勅草の内容を女院が承知されたということであるから、御座所でも同じくされたほどでなければ、あり得ない事情ではなかろうかと思われる。それ故ここに大宮院と上皇および天皇との御座所の関係を見る必要がある。

大宮院(1225〜1292.68歳)

以下、龍粛氏は「この場合勅草の内容を女院が承知されたということであるから、御座所でも同じくされたほどでなければ、あり得ない事情ではなかろうか」との仮定のもとに、大宮院・亀山院・後宇多天皇の居所の分析を徹底的に試みている。そして結論としては、大宮院と亀山院の関係は密接であるのに対し、後宇多天皇との関係はそれほどでもない、とされている。この部分は極めて長いので、他の論点を先に検討したい方はこちらへ。
 弘安四年の蒙古来襲の頃を中心として、その前後にわたって大宮院と上皇との御所の関係を見ると、大宮院の御所は常盤井殿であったことが勘仲記に見えている。

弘安元年十一月十九日、○中略 次大宮院推参、常磐井殿、人々連歩行○下略
弘安二年正月三日、○中略、今日御幸始供奉、幸大宮院常磐井殿、歩儀○下略
弘安五年正月五日、丙寅、晴、新院幸常磐井殿、大宮院御座、○下略
弘安元年十一月十九日、(中略)次に大宮院に推参す、常磐井殿、人々連って歩行す、(下略)
弘安二年正月三日、(中略)今日御幸始に供奉す、大宮院の常磐井殿に幸す、歩儀(下略)
弘安五年正月五日、丙寅、晴、新院常磐井殿に幸す、大宮院御座あり、(下略)



「勘仲記」とその著者の勘解由小路兼仲についてはこちら
 この間女院が諸所に御幸になったことはおりおりあり、また勘仲記には記事の欠漏があって、その間の事情は不明であるが、この頃、常盤井殿が女院の御所であって、大抵ここに御座になったことが認められる。


亀山上皇常磐井殿に御座

 また亀山上皇の御所は御譲位後しばしば変更され、また所々に離宮があってそれらへの御幸もたびたびあったが、仙洞としては弘安元年に萬里小路冷泉殿が修造されて、八月に御移徙になると間もなく、閏十月十三日に二條高倉の内裏が炎上して、天皇が萬里小路冷泉殿に御幸があったのて、上皇は常盤井殿に幸せられて、ここを仙洞となされたことが増鏡と勘仲記とに見えている。

亀山院は豪放磊落というか、かなり我が儘な性格であり、御所をあちこちに持って、気分次第でどんどん移動するので、臣下は相当苦労している。『勘仲記』には、ちょっと勘弁して欲しいよ、という気持ちがにじみ出ている箇所がある。


〔増鏡〕老のなみ 弘安元年になりぬ、十月ばかり又二條内裏に火出で来て、いみじうあさまし、萬里小路殿はありし火の後、又つくられて、今年の八月に御わたましありて、新院すませ給へれど、内裏焼けぬれば、この院又内裏になりぬ。

〔勘仲記〕弘安元年閏十月十三日壬辰、晴、丑刻、皇居炎上、○中略 主上駕腰輿出御、即渡御萬里小路殿、○中略 上皇即御幸常盤井殿可為仙洞云々、○下略
弘安元年閏十月十三日、壬辰、晴、丑刻、皇居災上す、(中略)主上腰輿に駕して出でたまふ、すなわち萬里小路殿に渡御す、(中略)上皇すなわち常盤井殿に御幸し、仙洞となすべし、と云々(下略)

 

弘安元年は1278年。
 この後、天皇は十一月八日に三條坊門萬里小路第を皇居とされたことが勘仲記に見え、上皇が常盤井殿から萬里小路冷泉殿に還御のことは明文はないが、前掲の勘仲記弘安元年十一月十九日の条に、常盤井殿を大宮院の御所としており、且つこの日に亀山上皇がここに御幸あらせられたことが、同じく勘仲記に見え、また二年の正月三日に常盤井殿の大宮院御所への御幸始の順路を、勘仲記に

幸路、萬里小路北行、大炊御門東行、京極北行、入御常盤井殿
幸路は萬里小路を北行し、大炊御門を東行し、京極を北行して、常盤井殿に入御す、

とあって、この事情から見れば、萬里小路冷泉殿に還御あらせられたようにも見えるが、吉続記の弘安二年四月十五日の条によれば、上皇は前日に御幸あらせられた禅林寺殿から常盤井殿に還御のことが見え、五月三十日には上皇が晩頭に常盤井殿に御幸のことが仁部記に見えておって、この頃の仙洞は主としていずれであったか分りにくいが、勘仲記の七月十四日の条に、

参院、常磐井殿、被発遣御瓮、院司光顕奉行、
院常磐井殿に参る、御瓮を発遣せらる、院司の光顕奉行す、

とあれば、常盤井殿も仙洞であったことは疑う余地がない。さらに勘仲記の弘安三年正月三日の条に、

弘安3年は1280年で、弘安の役は翌4年の出来事。

即参院、常磐井殿、今日御幸始也、院司右少辨信輔奉行、先有御薬儀不見及、人々参集之後有出御、寄御車於中門廊、大宮院御同宿故歟、頭殿並信輔付御車、関白殿令候御車寄給、先之公卿殿上人降立、次第歩列、京極南行、大炊御門西行、富小路南行、至本院富小路宮
朗ち院常磐井殿に参る、今日は御幸始なり、院司右少辨信輔奉行す、先づ御薬の儀あり、見及ばず、人々参集の後に出御あり、御車を中門廊に寄す、大宮院同宿の故か、頭殿並びに信輔御車に付く、関白殿御車寄に候せしめ給ふ、これより先き公卿殿上人降り立ち、次第に歩列す、京極を南行し、大炊御門を西行し、富小路を南行して、本院の富小路殿に至る。

とあって、これによって常盤井殿が仙洞であったことと、当時、上皇が大宮院と御同座あらせられたこと、これと前掲の弘安二年正月三日の御幸始の幸路とから、常盤井殿の位置を知ることができる。

 また弘安四年五月三日の院最勝講の記事を、勘仲記に見ると、

自今日被始行院最勝講、藤宰相頼親奉行、於常盤井殿、被整道儀
今日より院の最勝講を始め行なはる。藤宰相頼親奉行す。常盤井殿において道儀を整えらる、

とあり、また同書の弘安五年十一月廿六日の条に

夜半自冷泉朱雀火災出来、常盤井仙洞焼亡、泉屋竝京極面北門等焼残云々、新院大宮院新女院俄幸靡殿、月卿雲客馳参、此御所連々焼失、以外事歟、
夜半冷泉朱雀より火災出来す、常磐井仙洞焼亡す、泉屋並びに京極面の北門等は焼け残る、と云々、新院・大宮院・新女院、俄かに靡殿(なびきどの)御所に幸す、月卿雲客馳せ参ず、此の御所連々焼失す、以ての外の事か、
と見え、園太暦(えんたいれき)文和二年二月五日の条の小槻匡遠の勘申した仙洞火事例に、

弘安五年十一月廿六日、丑剋、新院御所常盤井殿焼亡、于時上皇並大宮院御所也、共御幸靡殿
弘安九年十一万廿六日、丑冠、新院の御所常磐井殿焼く亡す、時に上皇並びに大宮院の御所なり、共に靡殿に御幸す、

とあり、さらに勘仲記の同年十二月五日の条に

「園太暦」とは洞院公賢(1291〜1360.70歳)の日記。文和2年は北朝歴で1353年。なお、洞院公賢を『増鏡』の著者とする説も近時有力であるが、家祖の洞院実雄とその息子・娘の扱いひとつとっても洞院家の子孫が書いたものとは到底思えず、私は賛成できない。洞院公賢説の概要はこちら
上皇御幸近衛殿、常盤井殿炎上、靡殿銀花己下恠異出現之間、當時依無仙洞、暫可為御所云々、
上皇近衛殿に御幸す、常盤井殿は炎上し、靡殿は銀花己下の恠異(かいい)出現するの間、当時仙洞なきによつて、暫く御所となすべし、と云々、

と見えているところを綜合して観察すると、弘安三年に大宮院と常磐井殿に御同座あった頃から、この炎上までは常盤井殿が主として仙洞であって、大宮院とは大抵御同座せられたものらしく思われる。

 勿論、上皇にも大宮院にもその間に諸所に御幸になったことは勘仲記等に見えていて、常磐井殿が弘安三年からこの炎上まで、引き続いての仙洞であったとはいわれないけれど、ほとんど大部分が仙洞であって、またその中には大宮院と御同座のあったことを勘仲記等の文面から推断し得られる。

 かく推断すれば、あたかも弘安四年の蒙古襲来のおりには、上皇が大宮院と頗る密接で御同座さえあらせられたことも考えられる。


大宮院と亀山上皇

 かく上皇は大宮院と御所を同じくされ、また御同座あったばかりでなく、御動静を共にせられたこともおりおり見えている。すなわち弘安三年三月一日に上皇が大宮院とともに富小路殿に御幸になったことは、飛鳥井雅有の春の深山路に見えており、五月十三日、靡殿において新陽明門院の御沙汰として御逆修が行なわれた際、上皇が大宮院とともに入御になって御聴聞せられたことは勘仲記に見え、四年の八月十日に上皇が大宮院・新陽明門院とともに石清水八幡宮に御幸して、報賽(ほうさい)を行なわれたことは弘安四年日記抄に見えている。

 これらの事情は当時の記録に散見しているところであって、なおかかることが多かったことはおのずから想像されるのである。


飛鳥井雅有(1241〜1301.61歳)は家業の蹴鞠と歌で、朝廷と幕府の両方に伺候した。頻繁に京と鎌倉を往復し、弘安3年(1280)には、後深草院から、恐らく皇位継承に関する何らかの密命を帯びて、鎌倉に下っている。この鎌倉下向の様子が『春の深山路』に描かれているが、軽妙洒脱な良い文章である。

新陽明門院(1262〜1296.35歳)は、殆ど注目されていない存在であるが、私は『増鏡』の作者を考える上で極めて重要な人物だと思っている。詳細はこちら
大宮院と後宇多天皇

 これに反して、大宮院と天皇との関係を見るに、その上皇との御間のごとき御所を共にされたこと、または御行動を共にされたごときことは、現存の史料にはほとんど一つも見えない。勿論、現存の史料にないからとて、絶対に否定することはできないが、上皇が大宮院と御親密であったことが、天皇と大宮院とのそれ以上であったことは否まれないようである。

 殊に上皇が大宮院と御座所を共にされたことのあったということは、増鏡のこの事情を解釈するにあたって見遁せないことである。殊に、当時、大宮院が蒙古の難について憂慮されたことは、八代氏の論説に見えている如く、勘仲記や弘安四年日記抄に明文があって、女院が上皇とともに、諸社寺等への御祈に配慮されたことは、おのずから推量し得られる。

 したがって、上皇が長い御願を天祖の宮に捧げんとされるにあたって、女院は御座所を共にされたがために、勅草の願文も親しく承知され、御母子の情として諌められたのであろうということは、上皇説にとって極めて穏当な推論であって、単に御母子の愛情ばかりが、大宮院の諌められた原因ではあるまいと思われる。


※続きはこちら


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