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※初出は『史学雑誌』29編4号.大正7(1918)年4月

※暫定的に「参考文献」に置いておきます。
| 龍粛氏の略歴(『国史大辞典』より) |
| (りょう・すすむ.1890〜1964) 昭和時代の歴史学者。明治23年(1890)4月29日、静岡県敷知郡浜松町元城(静岡県浜松市元城町)に生まれた。父は金次郎、母は満寿。7歳の時東京に移り、大正4年(1915)7月、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。ただちに大学院に進んだが、翌5年1月、東京帝国大学史料編纂所嘱託となる。同11年史料編纂官に任じ、『大日本史料』第5編の編纂出版を担当した。昭和13年(1938)辻善之助所長のあとを受けて、史料編纂所長となった。以後、超国家主義者らの圧迫と戦中戦後の物資欠乏の中で、『大日本史料』『大日本古文書』の編纂事業を着実に進め、戦後の同所の出版事業再開へと尽力した。この間、帝国学士院の帝室制度歴史的研究事項調査嘱託、国学院大学教授、金沢文庫評議員などを歴任した。同25年4月、史料編纂所の機構改革により、東京大学教授に任じ、所長を兼務し、学生の指導にあたった。同26年3月東京大学を定年退官し、日本大学教授に就任。昭和34年日本大学より文学博士の学位を授与された。同39年2月25日没。73歳。墓は東京都府中市の多磨墓地にある。専攻は平安時代末から鎌倉時代の皇室史と政治史である。著書に『平安時代』『鎌倉時代』上・下、『吾妻鏡』(岩波文庫、訳注)、『世界印刷通史』などがある。 (鈴木圭吾) |
| 龍粛氏の見解 | 私の考え方 | ||
一.緒言 後宇多天皇の御願説の出現 八代國治氏は「蒙古襲来に就ての研究」と題し、これに関係のある根本史料として、弘安四年日記抄・勘仲記等の紹介を兼ね、氏が多年研究された数多の事項を公にされた。斯界に稗益したところは敢えていうまでもなく、これによって在来認められておった史実が変わり、また不確定であったものが確定することになった。 |
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| その中でも特に弘安四年の蒙古来襲のおりに、亀山上皇が大神宮に身をもって國難に代らんことを祈られたという従来の増鏡の文の解釈について、その文章の解釈と、弘安四年日記抄、および勘仲記等の記事を傍証として、これは上皇の御願ではなく、後宇多天皇の御願と推断されると論ぜられた一項は、古来から人口に膾炙されたことであるため世の注意を惹き、諸新聞・雑誌に転載され、中にはこのことについて新しく絶対に確実な資料が発見されたように伝えたものもあった。 | |||
| この問題についての直接の資料はただ増鏡が一つあるに過ぎないためか、これについて従来特に研究されたものは見えないようで、八代氏のこの研究が恐らく最初のものであろうと思われる。これは頗る興味ある問題で、果して氏の所論のごとく天皇の御願と認むべきものであろうか、在来の上皇と認めた説は成立しないものであろうか、聊かここに卑見を述べて大方の批判を得たい。 |
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| 二.在来の諸家の解釈 亀山上皇説の由来 まず本問題について従来の諸家の解釈を見ると、第一に大日本史には、亀山天皇本紀に
と見えている。思うに、増鏡のこの御願についての明確な解釈としては最も早いものであろう。 |
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第二に続本朝通鑑には、弘安四年の条に
とあって、この御願を上皇と認めたことは大日本史と同様であるが、捧げられた宮を石清水八幡宮とし、大日本史が大神宮としたことと相違している。続本朝通鑑は大日本史ほどに世に流布されなかったためか、この説を受け伝えたものは見えないようである。ただ本書は引用書名を挙げていない。 |
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第三に國史眼の第九十六章に
とあって、この御願が亀山天皇であることは、前同様であるが、天皇の御在位中の事としている。本書も出典を拳げてないのて何に拠ったかは不明であるが、恐らく増鏡と五代帝王物語(八参照)とに拠ったものらしい。吉田東伍博士の倒叙日本史も國史眼の説を受けたように思われる。 |
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| 風宮考證の諸説 以上の三説は何れも多少の相違はあるが、亀山天皇の御願と認めていることは一致している。これに対して後宇多天皇の御願であるとの説を述べたものには、宮内省図書寮所蔵の六人部是香(むとべこれか)の著風宮(かぜのみや)考證がある。 本書は奥に嘉永七年五月廿九日六人部是香(花押)とあり、宛名を大中臣卿の御許へとしているものである。「伊勢内外(ないげ)の大御神の別宮風宮(かぜのみや)の本末また弘安の神験の論(あらが)ひ、風宮の祭神本縁などくさくさの事」との題下に記されたもので、所要の箇所を拳げれば次のごとくである。
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| 本書は、神祗官の行幸に増鏡の記事を連続させて、この御願を天皇の御事としたため、大宮院の注において女院と天皇との御血統関係を記したものに過ぎなく、特に考証したものとはいえない。されば天皇説は実にこの八代氏の論説によって、はじめて委曲の考証が尽されたものというべきであろう。 |
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| 天皇説はかく八代氏によって詳細に説明されたが、在来の上皇説の諸書は、上掲のものをはじめ、単に上皇の御事と記述しているに過ぎなく、如何なる論拠によったかは全然伝えておらぬ故、詳細は全く不明で、現存の資料から推考するに過ぎない。八代氏の論説の中にも、この上皇説のよって起った所以を述べられている。恐らくは然るべきであろうが、ただそれがすべてであるが否かは明らかでない。 |
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| 三.増鏡の解釈 基本史料増鏡の文意 現在においてはこの問題についての直接の史料は増鏡があるばかりで、その文章の解釈が本問題の中核をなしている。亀山上皇説も後宇多天皇説も実はただその文章の解釈の如何に存するに過ぎない。まず必要の箇所を抄出して、その二様の解釈を比べて見たい。 |
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| この文章によって、亀山上皇説は「経任大納言まゐる」までを情況の一般的の記事とし、その次を特に亀山上皇の御動静について述べたものと見て、さらに為氏の勅使を経任の公卿勅使と並べて上皇の御使と解釈したものであり、後宇多天皇説は「大般若供養せらる」までを一般的記事とし、その次を特に委しい事情を述べたものと解し、大神宮の御願を、経任の勅使と連絡あるものと認めたもので、したがって為氏の勅使のことは、照応するものがないので、前文との比較上為氏は経任の誤であろうと推断したのである。 |
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| 両説発生の原因 なおこのニつの説には、この増鏡鏡の文章以外に、他の事情が考慮の中に加えられていることは勿論であるが、増鏡の文の解釈としては上述の相違があるに過ぎない。続本朝通鑑はさらに一歩を進めて、八幡の御幸と御願を連絡あるものとしたのである。 |
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| 上皇説の背後には、当時は亀山上皇の院政であること、上皇と大宮院とは御母子の関係で、且つ上皇は女院の御鍾愛であったこととが、ながんずく重要な説明となっており、これに対して、天皇説は、当時、上皇から神宮への御使のことが、他の記録に見えないという事情が背景となって、増鏡の記事をこれにあてはめるように説明したのである。 |
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| それ故、その説明にあたっては、この御願を経任の勅使と連絡させることが必要となり、大宮院の御鍾愛の事情をば御孫の天皇に及ぼし、為氏は経任の誤写であると推定し、且つ当時天皇は宝算すでに十五で、親しく宣命を書かれたものと推量し、また御願に「我御代」と仰せられているのは、位を退かれた上皇では申されぬことであると論及したのである。 |
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| 我御代の意味 これについて、亀山上皇からの伊勢へ御使の発遣された有無を、増鏡以外のものによって確認して置くことは必要なことであるが、今増鏡の解釈のみから、この両説を比較して見れば、いずれの句までが一般的の事情を述べ、どこからが特殊な事情を書いたものであるかは、人々の解釈次第で、要するに、水掛論に終るけれど、上皇説の方が増鏡の解釈としては穏当であるらしく思われ、「我御代」という御願の文句は、増鏡の記者が要を摘んで書いた、すなわち記者の文と見る方がよくはないかと考えられる。 若し然りとすれば、そのすぐ次に後嵯峨法皇の院政の時代を記して、故院の御代と書いているから、「御代」の語は、院政を見たまえる上皇の御代であっても差支なく、上皇では申されないという推論は如何かと思われる。それ故、これだけでは、増鏡の文章は上皇説にも天皇説にもなり、敢えて一方の説が成立しないという理由はない。 |
| 四.大宮院との御関係 大宮院の御所は常磐井殿 しかしさらに一歩をすすめて増鏡の記事を読むと、この御願は大宮院と殊に親密な関係の方についての事でなければならぬようである。御願文が勅草であるほど大切なものであれば、殊更に母后の女院に伝えられることは如何であろうか。この場合勅草の内容を女院が承知されたということであるから、御座所でも同じくされたほどでなければ、あり得ない事情ではなかろうかと思われる。それ故ここに大宮院と上皇および天皇との御座所の関係を見る必要がある。 |
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弘安四年の蒙古来襲の頃を中心として、その前後にわたって大宮院と上皇との御所の関係を見ると、大宮院の御所は常盤井殿であったことが勘仲記に見えている。
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| この間女院が諸所に御幸になったことはおりおりあり、また勘仲記には記事の欠漏があって、その間の事情は不明であるが、この頃、常盤井殿が女院の御所であって、大抵ここに御座になったことが認められる。 亀山上皇常磐井殿に御座 また亀山上皇の御所は御譲位後しばしば変更され、また所々に離宮があってそれらへの御幸もたびたびあったが、仙洞としては弘安元年に萬里小路冷泉殿が修造されて、八月に御移徙になると間もなく、閏十月十三日に二條高倉の内裏が炎上して、天皇が萬里小路冷泉殿に御幸があったのて、上皇は常盤井殿に幸せられて、ここを仙洞となされたことが増鏡と勘仲記とに見えている。 |
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| この後、天皇は十一月八日に三條坊門萬里小路第を皇居とされたことが勘仲記に見え、上皇が常盤井殿から萬里小路冷泉殿に還御のことは明文はないが、前掲の勘仲記弘安元年十一月十九日の条に、常盤井殿を大宮院の御所としており、且つこの日に亀山上皇がここに御幸あらせられたことが、同じく勘仲記に見え、また二年の正月三日に常盤井殿の大宮院御所への御幸始の順路を、勘仲記に |
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とあって、この事情から見れば、萬里小路冷泉殿に還御あらせられたようにも見えるが、吉続記の弘安二年四月十五日の条によれば、上皇は前日に御幸あらせられた禅林寺殿から常盤井殿に還御のことが見え、五月三十日には上皇が晩頭に常盤井殿に御幸のことが仁部記に見えておって、この頃の仙洞は主としていずれであったか分りにくいが、勘仲記の七月十四日の条に、
とあれば、常盤井殿も仙洞であったことは疑う余地がない。さらに勘仲記の弘安三年正月三日の条に、 |
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とあって、これによって常盤井殿が仙洞であったことと、当時、上皇が大宮院と御同座あらせられたこと、これと前掲の弘安二年正月三日の御幸始の幸路とから、常盤井殿の位置を知ることができる。 |
また弘安四年五月三日の院最勝講の記事を、勘仲記に見ると、
とあり、また同書の弘安五年十一月廿六日の条に |
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と見え、園太暦(えんたいれき)文和二年二月五日の条の小槻匡遠の勘申した仙洞火事例に、
とあり、さらに勘仲記の同年十二月五日の条に |
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| と見えているところを綜合して観察すると、弘安三年に大宮院と常磐井殿に御同座あった頃から、この炎上までは常盤井殿が主として仙洞であって、大宮院とは大抵御同座せられたものらしく思われる。 勿論、上皇にも大宮院にもその間に諸所に御幸になったことは勘仲記等に見えていて、常磐井殿が弘安三年からこの炎上まで、引き続いての仙洞であったとはいわれないけれど、ほとんど大部分が仙洞であって、またその中には大宮院と御同座のあったことを勘仲記等の文面から推断し得られる。 かく推断すれば、あたかも弘安四年の蒙古襲来のおりには、上皇が大宮院と頗る密接で御同座さえあらせられたことも考えられる。 |
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| 大宮院と亀山上皇 かく上皇は大宮院と御所を同じくされ、また御同座あったばかりでなく、御動静を共にせられたこともおりおり見えている。すなわち弘安三年三月一日に上皇が大宮院とともに富小路殿に御幸になったことは、飛鳥井雅有の春の深山路に見えており、五月十三日、靡殿において新陽明門院の御沙汰として御逆修が行なわれた際、上皇が大宮院とともに入御になって御聴聞せられたことは勘仲記に見え、四年の八月十日に上皇が大宮院・新陽明門院とともに石清水八幡宮に御幸して、報賽(ほうさい)を行なわれたことは弘安四年日記抄に見えている。 これらの事情は当時の記録に散見しているところであって、なおかかることが多かったことはおのずから想像されるのである。 |
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| 大宮院と後宇多天皇 これに反して、大宮院と天皇との関係を見るに、その上皇との御間のごとき御所を共にされたこと、または御行動を共にされたごときことは、現存の史料にはほとんど一つも見えない。勿論、現存の史料にないからとて、絶対に否定することはできないが、上皇が大宮院と御親密であったことが、天皇と大宮院とのそれ以上であったことは否まれないようである。 殊に上皇が大宮院と御座所を共にされたことのあったということは、増鏡のこの事情を解釈するにあたって見遁せないことである。殊に、当時、大宮院が蒙古の難について憂慮されたことは、八代氏の論説に見えている如く、勘仲記や弘安四年日記抄に明文があって、女院が上皇とともに、諸社寺等への御祈に配慮されたことは、おのずから推量し得られる。 したがって、上皇が長い御願を天祖の宮に捧げんとされるにあたって、女院は御座所を共にされたがために、勅草の願文も親しく承知され、御母子の情として諌められたのであろうということは、上皇説にとって極めて穏当な推論であって、単に御母子の愛情ばかりが、大宮院の諌められた原因ではあるまいと思われる。 |
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