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| 瀬野精一郎氏の略歴(上掲書による) |
| 昭和6年、長崎県佐世保市に生まれる。昭和32年九州大学大学院修士課程終了、同年九州大学国史学科助手、昭和35年東京大学史料編纂所に転じ、大日本史料の編纂に従事、昭和51年東京大学史料編纂所助教授、昭和52年早稲田大学文学部助教授、昭和57年同教授、文学博士。 |
| 瀬野精一郎氏の見解 |
私の立場からの補足 |
| 正和二年七月廿日播磨国細河荘所領裁許状は、『十六夜日記』の著者として有名な阿仏尼の細河荘に関する相論の内容を知り得る裁許状として知られ、これまでも多くの研究論著がある。 (中略) さて阿仏尼と細河荘をめぐる相論については、日本古典全書『十六夜日記他』の石田吉貞氏の解説、玉井幸助著『日記文学の研究』、福田秀一著前掲書ほか多くの研究があるが、特に福田氏の著書で詳細に論及されている。 |
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| それによれば阿仏尼は生年、実父母は不明であるが、幼くして平度繁の養女となり、十四〜五歳で安嘉門院に仕えた後、建長五年(1253)、当時歌壇の巨匠として名声を馳せていた藤原定家の子為家に接近し、間もなくその側室となり、為家との間に為相、為守、女子の三人の子を生んでいる。 |
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| 為家には正妻である東国御家人宇都宮頼綱の女との間に為氏、源承、為教ほか数人の子供があり、為相が生まれた弘長三年(1263)には為家六十六歳、嫡子為氏四十二歳、阿仏尼も為氏とほぼ同年齢と推定されている。 | |
| 阿仏尼はそれまで愛の遍歴を重ねた情深き女であったらしい。阿仏尼は高齢で生んだ子供達の将来を案じ、為家に迫って種々身勝手な要求をし、年老いた為家は阿仏尼のいいなりになっていた。そこで正妻との間に生まれた為氏以下の子供達にとって、阿仏尼は父為家を誑かす悪女と映じていたことは疑いない。 | |
| 阿仏尼も為氏らの悪口を為家に吹き込んでいたらしく、阿仏尼の吹聴を真に受けた為家は、文永十年(1273)、嫡子為氏に不孝行為があったとして義絶してしまった。そしてすでに正元元年(1259)為氏に譲っていた播磨国細河荘を悔返し、為相に譲り与えている。この時為氏は五十二歳、為相は十一歳であった。 | |
| 鎌倉時代、父母より義絶された子供は相続権を放棄せねばならず、すでに譲られていた所領所職は悔返しと称して、父母に没収されることになっていた。したがって為家の為氏に対する悔返権の行使は何等非難さるべきことではなく、為氏としては父為家の命に従わざるを得なかったのである。 | |
| しかし為家の背後に阿仏尼が存在していることは明らかであり、為氏らの阿仏尼に対する敵意はますます尖鋭化したものと思われる。しかし為氏としては、父為家の生存中は、阿仏尼の身勝手な行動に対し手の施しようはなかったと思われる。ところが為家は建治元年(1275)五月一日、七十八歳で没した。 | |
| 為家の死は、阿仏尼、為相母子の細河荘知行にとって容易ならぬ事態の到来を意味した。果せるかな為氏は、細河荘の悔返と為相への譲与を不当とし、その知行権の行便に対して押妨行為に出たらしい。これに対し阿仏尼は、文永十年の為家の後判の譲状を証拠として、細河荘の領家職、地頭職の進止権を主張し、公家と六波羅探題に提訴している。 | |
| しかし、公家、六波羅探題共に阿仏尼に不利な判断を示したので、阿仏尼をして関東に下向し、直接鎌倉幕府に訴えることを決意させることになった。かくて為氏、阿仏尼は相ついで関東に下向して、鎌倉幕府の問注所で相論することになり、『十六夜日記』が書かれることになったことは周知のことである。 |
| ところが、阿仏尼は相論に対する裁許を得ないまま、弘安六年(1283)没してしまった。その後、弘安九年(1286)六月四日、細河荘領家職は院宣によって為氏の相伝領掌が認められた。その直後に為氏も六十五歳で鎌倉で没している。 そこで細河荘地頭職に関する相論は、為氏の子の為世によって引き継がれ、以後為相と為世によって争われることになった。為世が曾祖父定家の二条邸を伝領したことから二条家を称したのに対し、為相は冷泉家を称することになり、以後歌学家として相対立することになった。 |
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| このようにして細河荘をめぐる冷泉家と二条家の相論は益々激化の一途をたどり、正応二年(1289)十一月七日、鎌倉幕府は細河荘地頭職を為相に与える裁許を下したが、直ちに為世が異議を申し立てたので、二年後の正応四年(1291)八月十四日には、逆転細河荘地頭職を為世に与える裁許を下した。その根拠は、「先判状」とある正元元年十月十四日の為家が為氏に与えた譲状であった。 |
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| しかし冷泉家側が「以正元髪髴先状、被破文永※懃後状之条、違傍例」と反論している如く、鎌倉時代の裁許においては、後判の譲状が先判の譲状に優先するという原則があり、それに違背する裁許であった。かくてこの裁許に不服の冷泉家は再び幕府に訴え、それに対する幕府の裁許がこの正和二年七月廿日の関東裁許状である。 |
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| 判決の主文は「於当荘地頭職者、任文永両通譲状並正応二年下知状、所被付前右衛門督家(冷泉為相)也」にあり、後判の譲状を優先するという原則に則り、為相に安堵され、阿仏尼の悲願はようやく実現されることになった。 |
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| 歌学の道のみでなく、草創期において、冷泉・二条両家は細河荘の進止権をめぐって、激しく相争った歴史を有していたのである。 | |
| (『天理回書館善本叢書』月報七三昭和六一年五月) |
| ※以上の争いについて、冷泉家の立場から綺麗に整理された説明はこちら。(冷泉貴実子「冷泉時雨亭文庫」) |