更新10.10/11 up10.5/20
| 次田香澄氏の略歴(上掲書による) |
| (つぎた・かすみ)1913年生れ。1936年東京大学文学部卒業。中世文学専攻。大東文化大学教授。文学博士。 著書、(岩波文庫)『玉葉和歌集』、(日本古典全書)『とはずがたり』、共著『うたゝね・竹むきが記』、(講談社学術文庫)『うたたね』など。 |
| 次田香澄氏の見解 |
私の考え方 |
| 一 時代 『とはずがたり』は、作者久我雅忠女の、文永八年(一二七一)、十四歳から嘉元四年(一三〇六)四十九歳まで、三十数年間の自伝的日記文学である。作品の背景をなす時代は、ほぼ鎌倉の中期から末期にわたる。後鳥羽院の計画した承久の乱(一二二一)で公家側が敗北したのち、政治の実権は大きく武家の側に移っていたものの、京都の貴族政権は依然、朝廷としてのいちおうの形態と、伝統文化の継承者としての位置を確保していた。一方幕府もまだ朝廷の権威を完全に無視することはできず、公武の二重政権は、一種の微妙なバランスを保っていた時期である。 |
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| 作者の父久我雅忠の仕えた後嵯峨院は、承久の乱に関与しなかったといわれる土御門(つちみかど)院の皇子であり、過激派と目された順徳院の皇子をしりぞけて幕府の擁立するところとなった。同院の一代は温和な院の性格もあって、朝幕の間も宮廷の内外も、比較的平穏に過ぎたが、生前にその皇位継承についての意見を明示せぬまま没したため、同院の没後、その遺志をめぐって、作者の後宮として仕えた同院の大宮院所生の長子後深草院と、同母弟亀山院との間に、皇位継承について内紛が起った。後嵯峨院も大宮院も、もともと病弱でやや女性的な後深草院より、活発で才気のある次子亀山院を愛し、その皇子後宇多院も早く東宮に立っていた。幕府の諮問に対する母后大宮院・異母兄円満院等の証言により、皇統は亀山院側に定まろうとし、後深草院は失望から出家の意志を表明した。しかし幕府の斡旋によって、後宇多院の次に後深草院の皇子伏見院の立坊が実現したので、院は出家を取りやめ、ここに両皇統迭立(てつりつ)の端緒がひらけた。 |
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| たださえ古来の政治・経済の基盤を失いかけている貴族にとって、皇位のゆくえ、官位の争奪は、一族の死活の問題であった。幕府もまた再度の蒙古の来襲、警備による財政の窮乏、御家人制の行きづまりなど困難な問題をかかえ、社会の各層に矛盾と分化をはらんで、南北朝動乱の前夜へとつづく。その間にも地方の豪族が次第に実力を持ちはじめ、京・鎌倉を中心とする地方交通もひらけてきて、地方の小都市が栄え、各地に小文化圏が生れている。新しい現実的な潮流は武家・民衆の側から容赦なく押し寄せてきていた。 |
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| 一方自覚のない日常を送る既成階級の内部には、相当ひどい退廃的な風潮が瀰漫(びまん)していた。このことは『増鏡』の記事にも詳しく、それら新旧文化の錯綜、交替してゆく過程は、この『とはずがたり』の作者の体験からも読みとることができる。表面は王朝時代の華麗な夢を追いながらも、実質ははげしく流動する実力競争の時代であった。 |
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| その中で作者の生家久我家は村上源氏の嫡流、清華としての家名を誇り、当時土御門院・後嵯峨院の外戚として、一族あげて朝廷に親近していた。しかし同族の中でも限られた官位栄誉をめぐり、暗闘が行われていた。作者の父雅忠は、祖父太政大臣通親、父同通光、兄右大将通忠のあとをうけて首席大納言まで昇り、氏長者、淳和・奨学両院別当を兼ねたが、大臣任官を目前にして世を去る。このことは作者の生涯に大きな暗影をなげかけた。 | |
| 作品に「雪の曙」の隠名で登場する実兼の西園寺家は、藤氏公李流で幕府と近く、承久の乱後、関東申次(もうしつぎ)という有利な条件のもとに、天皇家の外戚となり、摂関家をしのぐ権勢をもつが、この作品の当初は、実兼はまだ若き当主として雌伏時代であった。実兼の大叔母大宮院は後嵯峨院の后で後深草・亀山両院の母である。作者の母方四条家は院政期に台頭した実力者の家柄で、代々権勢家と姻戚関係を結び、大宮院・東二条院の母、北山准后貞子の実家として、西園寺とも近く、准后の弟にあたる彼女の祖父隆親の勢威は「アマリアリ」とまで評された。作者の周囲は、衰退しつつある宮廷貴族の中でも陽のあたる階級に属していたから、庇護者の健在であった間は、かなりわがままに振舞うことができた。それらに死別し、御所を退出して以後の彼女の経済生活については、詳しいことはわからないが、生家もすでに久我家の嫡流の位置を失い、けっして裕福でなかったことだけは確かである。おそらく亡父の遺産の相続分を乳母(めのと)家にでも管理させて、生活を維持していたものであろう。 |
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| 二 作者と作品 作者は中院大納言久我雅忠の女、母は大納言四条隆親の女大納言典侍である。成長した皇子がなかったため、『皇胤紹運録(こういんじょううんろく)』にも、また『尊卑分脈』その他にも記載されておらず、名前は不詳である。幼名はあかこ。宮廷での女房名はいちおう二条と呼ばれていたが、父はこれを不満として異議を申し立て、院も内々には「あかこ」と呼んでいた(「あがこ」ではない)。 |
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| さて作者は、生涯をじつに大胆に奔放に生きた女性であった。家柄と容色と才智にめぐまれ、芸術的な天分も豊かで、文学・和歌・音楽とくに琵琶、絵もよくしたようであるし、なによりもきわ立ってみずみずしい、男性を惹きつける魅力を持っていたはずである。 十四歳の春、後深草院の後宮となって一皇子を生み、宮廷では花形のように扱われていた時もあった。しかし幼時に母を失い、まだ少女期に彼女の意に反して後宮とされたことが彼女の第一の不幸であり、彼女の身内に激しい情熱と奔放さと強い自我を持ち合わせていたことが第二の、十五歳で父を失い、叔父まで早く死んで、親身に保護してくれる人がいなかったことが第三の不幸であった。矜(ほこ)りだけは高く、実質は伴わなかったのである。 |
『とはずがたり』では、史実としては1279年に死んだはずの四条隆親が1283年に死んだように書かれていて、そのときまでに隆顕も死んだことになっているのであるが、隆顕の孫で南朝の闘将として活躍した四条隆資(1292〜1352.61歳)は、父が早世したために祖父の隆顕に養育され猶子となっていて、甚だしい矛盾が存在しているのである。 |
| 院は作者をかつての愛人大納言典侍の形見として、四歳の幼女の時から膝下(しっか)に引取り、長ずるのを待って後宮としたのだが、院はもともと弟亀山院より虚弱で、女性的、やや陰湿な性格だった。時には彼女を溺愛してみせるが、けっして彼女を包みこんで愛してはくれず、親しさに甘えて他の女との情事の手引をさせたり、来訪する貴人たちの接待を命じたりする。父の死後、生れた皇子も夭折し、正妃東二条院や他の女房の嫉妬や中傷の中で、ついに父と約束していたはずの大臣の女としてのふさわしい名も与えられず、終始院の後宮兼上臈女房、高級貴族の接待役として、絶えず誘惑の中に身を置かねばならなかった。 | |
| ほかの女性だったら、あるいは賢明に耐えて身を処しただろうが、彼女の美貌と才気は目立ちすぎた。彼女のほうにも鬱積した不満があり、ついつぎつぎと不羈(ふき)の行動に走った。後には院もこれを知って逆に使嗾(しそ)したり、強要したりもしたが、最後には亀山院との噂のひろまったことから、院と正妃との不興をかって、宮廷から追放され、世俗的な女の幸福も名誉も生涯得られずにしまった。愛人の形見として生れた子供たちにも、おそらく公然と名告(なの)ることはできなかったし、女として母として、しみじみ悲哀を感じていたに違いない。 |
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| 作者はいったんそれをのりこえ、さらに新しい土地、新しい人間への興味を求めて旅立つ。女の身でよくも、と後深草院でなくても思うほどの旅程である。宮廷時代、最高貴族たちと心と体でせいいっぱいの恋愛を経験した作者は、旅でも行ける限りの処までたずねて行って、さまざまな事を経験した。地方の武士や豪族たちとも交わりをもった。遍歴の間も念頭を去らなかった後深草院も東二条院も世を去り、亡父の三十三回忌、院の三回忌も終った。五部の大乗経も、独力で完成間近になった。 |
| ふり返って、我ながらよくぞと思い、この生涯をだれかに語りたい欲求が強く起ってきたものであろう。しかし語るべき相手はもはやだれもいない。だれにも聞いてもらえないとすれば、書き残すほかはない。だれかが読んでくれるであろう。問われないのに語る、いたずらごとのおしゃべり、という謙遜の形をもちながら、内実はもっと切実なとはずがたりである。作者の跋文にいう、「年月の心の信も、さすがむなしからずやと思ひつづけて、身の有様をひとり思ひゐたるも、飽かずおぼえ侍るうヘ、……その思ひをむなしくなさじばかりに」という発想は、いわば自己の存在のあかしを残したいということである。ことに「さすがむなしからずや……飽かずおぼえ侍るうヘ……その思ひをむなしくなさじばかりに」と繰返す表現は、この欲求の強さと、同時にある種のむなしさの背反を痛切に物語っている。 |
※原文の傍点を下線とした。 |
| 前三巻は作者をめぐる多くの男性との愛欲の葛藤を経として、宮廷に登場する多くの人々の織りなす人間絵巻であり、その中にあって絶えず出離をねがいながら、逆にますます深まってゆく作者自身の人間の苦しみの記録である。後二巻は一転して作者が出家の後、新しい天地を求めて漂泊する意欲的な旅行の記で、その間に培われてゆく作者の心の軌跡がうかがえるが、作者はけっして一定の諦観に達していたとは思えない。 |
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| 当時の女性の一人として、多くの先行の和歌・文芸・歌謡、ことに源氏物語をはじめとする物語の要素を十分にとり入れているが、作者の体験は具体的事実そのものなのだから、その描写は物語の発想の枠を突き破って、迫真性をもって読者に迫る。 |
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| 先行のどの日記文学よりも素材もスケールも大きく、多様性があり、思想も表現も自由である。日本古典の豊かな抒情性を踏まえながら、現象の正確な把握、ものごとの核心に迫ってゆく理知的な手法など、近代的な写実性さえ持っているのは特筆に値する。 | |
| ことに作者は、自分を中心に多くの人物の錯綜(さくそう)した人間像を見事に再現し、その時点時点で精いっぱいに生きた一人の女性の姿を浮彫りにする。恋愛といっても作者の場合、あまりにも豊かな感受性と肉体を持ちあわせていたために、さまざまの男性との愛情の喜びも、悲しみも、全身で受けとめざるを得なかった。その結果起る妊娠・出産という女だけが負わねばならぬ肉体的負担も、心身の微妙な変化も、あいまいさを残さず克明に描き出して、それがこの作品を女性史上にも稀有(けう)のものとしている。 |
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| この作品は、人間記録の文学として、日本文学史上特異の存在であるとともに、東西古今を通じても傑作と称するに恥じない名作であると思う。作者雅忠女は時代的に早く生れ過ぎ、彼女の生れた社会に順応して生きてゆくためには、あまりにも豊かな資質を持ちすぎていたために、女としてはけっして幸福ではなかったのだが、逆にいえば、不幸であったがゆえにこれだけの作品を書き残し、今日まで作品の価値が伝えられたことを思うと、人間の生涯についての深い感慨なきをえない。 |
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| 三 制作の動機についての一考察 さて、作者の半生をかけて語りたいと思った真実は何だったのだろうか。ここで筆者らは、この作品全体の一作品としての一貫性とともに、前三巻と後二巻との間に存在するある隔絶した異質なもの、矛盾を指摘しないわけにはいかない。 |
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| もちろん作者は作品を完成するまでに、それまで書き誌(しる)してきた細密な日記ふうの覚え書・メモ・歌稿や手紙の控えなどを十二分に生かして、ある時期に整理編集したことはまちがいない。それぞれの箇所での濃密な描写、心理表現などはそれを物語る。しかし前篇と後篇とはその整理の方法・発想が明らかに異なる。 |
| 前三巻のいわゆる宮廷生活篇では、ほとんどが本音で書かれている。自分の行動を記述するときの自己顕示と弁解は目立つが、その他の人物─とくに後深草院・東二条院・前斎宮・近衛大殿・祖父隆親らの言動については、仮借ないほどの筆致でその性格や行動を暴露している。有明についても、実名を朧化しただけで、やはり記載どおりの事実があったものと思われる。四回の出産の記事も、その時どきの状況に応じて正確に描き分け、その前後の自分や関係者の心理や人々の動きも克明に叙述している。雪の曙の記事だけには相手に配慮した態度がみえるものの、彼との恋愛事件の記述そのものは三巻の終りまで綿々とつづく。亀山院事件については、よく読めば推察がつくように、むしろ容易に推察できるように、意識して順を追って書いており、これが原因となって御所追放につながったことも、「いかでか知らん」と一言言い放って、何も弁解していない。有明の没後の悲嘆や追善供養は委曲を尽くし、秘密の子への愛情もすべて隠していない。三巻全体を通してみる彼女と院は、けっしてよい関係ではなく、院のわがまま、それに反発する彼女のわがまま、院の劣等感、女院の嫉妬、他の男性との関係、それらが相乗し合い、結局は女性であり一女房に過ぎない彼女の、なんの栄誉も与えられず一方的な破滅に終る経過であり、最後に院は恨めしさの対象であっても、思慕の対象とは程遠かった。それを描く筆致もほとんど遠慮なく、院への敬語さえしばしば省く。とにかく前篇は、相手により潤色はあっても、とくに院との関係に関しては現実そのままである。前三巻は、当時の関係者には少くとも読まれることを憚るものだったろう。 |
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| 後二巻でまず驚くのは、あれほど哀哭(あいこく)した愛人有明のことが一切出てこないこと、そのほかの関係者も同僚もまったく出てこないこと、そしてただ宮廷への懐旧の情、院への思慕を要所要所で繰返すこと、院への恨めしさをけっしてあらわに書かぬことである。地方の新しい知己や経験にふれてはめざましい清新な記述をするが、こと過去となると、わざとのように院しか思い出さないことにしている。そして院や皇室への最高の敬語が煩瑣(はんさ)なほど繰返される。用語は当時の女房詞で、実際使っていたものであり、持別なものではないが、前篇とのあまりの言語感覚・発想の相違に戸惑いを覚える。二度の院との再会では、一度はことさら卑下してみせるが、二度目は院の執拗な質問に、一々反論して出家後の身の潔白を証明し、ついに院の反省の言葉を引出す。その後数年を経て、院の死去前後はまったく院への追慕と父の家名への執着に終始し、院の遺女遊義門院との再会を一つの山場として後篇を終る。 |
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| 前篇では多少の曲筆はあっても、かなり事実・素材そのままの迫真力があるのに対し、後篇は、純然たる紀行の部分にはむしろ淡々とした味があるが、宮廷関係になるとにわかに作者の意図的な素材の選択と、無理に院への思慕に統一したごとくに叙述をしぼっているあとがみえる。どうみてもいかにも不自然で、とくに後篇についてはかなり特定の宮廷関係の読者を意識したと思わざるをえない。 |
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| では作者は後篇をはたしてだれに読んでもらいたかったか。この二巻は宮廷関係に限っていえば「たてまえ」であり、後深草院の周辺、とくに遊義門院の反応を念頭においているように思えてならない。院のもっとも尊貴な皇女である遊義門院に、事実の一部は切り捨てても、作者と院との関係をできるだけよいものとして印象づけたかったのではないだろうか。 |
| それに反して前篇は、あくまで「ほんね」であり、事実であり、自らの誇り高き出自、得べくして得られなかった名誉、裏返せば自分の苦しい立場、御所追放の経緯、ひいては秘密に生んだ自らの子どもたちの出生の経緯になる。これらは後篇ではまったく触れるのを避けた内容であるが、その子女が成長しているのも事実であれば、母としてこれはいつかは語っておかねはならぬ事であったのではないか。作者は、こちらにはみずから制限を加えることなくすべてを書いた。いつか真実を知ってもらいたいために。雪の曙との間の女児、亀山院妃となって一時は立坊も期待された恒明親王の母である昭訓門院も、当然その意識の中に入っていただろう。当時実兼が依然健在で政界の重鎮であったことを考慮に入れると、前篇における雪の曙の記事への周到な配慮も説明できる。作者は自身の見果てぬ夢を、かつての女児と恒明親王に秘かに託していたかもしれない。補注参照。 |
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| 筆者らは前篇と後篇が、同時に公表されたとは思わない。整理の態度に相違があり予想している読者にずれがあると思えるからである。ところが後篇─たてまえのほうを執筆中か執筆後かに、遊義門院はにわかに病んで亡くなった。前篇のほうは内容や記述態度からいって、遊義門院や同院の関係者には読んでもらうつもりはなかった。しかし細心の注意を払って書いた後篇も、はたして予想した人に読んでもらえたかどうかは疑問である。ただこの五つに綴じられた冊子が、いつの日か「とはずがたり」一・二……の名で五巻の作品にまとまって残り、前半と後半の内客や記述態度に明らかな予盾と不統一を残したまま、一つの作品として今日まで伝えられたというほかはないのである。 |
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| 四 成立と流伝 この作品がともかくも全体として完成した時期の手懸りは、この作品に記された最後の年時、嘉元四年(1306)七月十六日以後であり、「禅定仙院」、および「今の大覚寺の法皇の御ことなり」の古注の存在によって、正和二年(1313)十一月(伏見院の出家)以前となる。また新後撰集の次の勅撰集を強く意識していること、「書くべき経はいま一部なほ残り侍れども、今年はかなはぬ」の「今年は」という言い方からすると、嘉元四年(徳治元年)から一両年のうちに写経も完成し、この作品も完成したという感じが強い。 |
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| 『とはずがたり』の伝本はただ一本、宮内庁書陵部蔵の写本があるのみである。五巻五冊。水色地の表紙に古短冊切を貼って、「とはすかたり」の題名と各巻の番号とを記す。内題も同様に記し、本文は縦約二八センチ、横約二○・四センチの楮紙(ちょし)を袋綴にしたものに、一ぺ−ジ十一行に書く。和歌は一字乃至三字下げで一行に記す。 答巻別筆で、多少巧拙の差がある。本文の枚数は、
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| 末尾の跋文のあとなど、本文中、刀で切り取られたむねを記した古注のある箇所が四ヵ所あり、また、巻四の末尾が中断しているほか、文が行の途中でとぎれて、以下その行を空白にしてある所や文章の接続しない所などが数ヵ所あって、本文の欠脱が考えられるが、その他の点はよく保たれていて、虫喰・損傷などもない。巻三の次に一巻の欠巻を考える説には賛成できないことは、すでに述べた通りである(巻四の一段解説参照)。外題が霊元院と推定されることから、この写本は江戸元禄期以前に成るものだろうといわれている。 |
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| 今日伝わる『とはずがたり』は、何回かの転写を経てゆく間に、誤写・脱落を生じたほか、表現の上で多少原本から離れてきたと推測されるところがあり、種々表記上の不都合や不統一を生じている。しかしひどく原形を損じていると思われるようなことはなく、誤写上のこととともに、『とはずがたり』では代々比較的に良心的な書写が行われてきて、現伝のものは格別性質の悪くない写本である。 |
| この作品は、すくなくも三回は転写を経過して今日に至っている。前記の古注は、すでに嘉元四年(一三〇六)から正和二年(一三一三)までの間に、誰かによって注記されていたことを証する。しかし作者がいつまで生存していたかは知る由もない。 『増鏡』(一三三三−一三七六年)は、『とはずがたり』の巻一から巻五にわたって何段かを計画的に盗用し、その取方は資料としてばかりでなく、露骨に用語・文体等に至るまで用いている。しかも引用した記事において、『増鏡』の著者はこの『とはずがたり』の作者の身分をひたすら隠している。このことは『とはずがたり』がその内容上一般に流布されず、一部の者にだけ秘かに読まれていたことを立証する。『増鏡』の著者(二条良基と推定されている)はその地位上これを所持し得て、編纂の重要な資料としたのである。 |
若手の学者では阿部泰郎氏も「剽窃」という言葉を用いている(『「とはずがたり」の王権と仏法』)。 |
| その後の流伝をみても、東山御文庫の目録や三条西実隆の『実隆公記』(一四九七年の条)などに、『とはずがたり』の書名が出ている程度で、現伝の御所本となるのであって、この作品が皇室関係の狭い範囲に秘蔵されていたことが推測される。 | |
| それ以後の状況はまったく不明であるが、昭和十五年、初めてこの作品の内容と価値が紹介され、昭和二十五年、桂宮本叢書の一として公刊されるに至ってようやく普及するようになった。そして作品の研究も年とともに進展し、研究論文・注釈書等が輩出した。外国でもはやく注目され、アメリカ・イギリス・ドイツ・ソヴィエトと、相次いで翻訳書が出版されている。 |
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| 補注 参考二 恒明親王をめぐる情勢について すでに政界の第一実力者となっていた西園寺実兼は、正応二年その一女※子(永福門院)を伏見帝の中宮として入内させたが、その前年ごろ妹相子(公相女、のちの土御門准后)を後深草院の後宮に送り、皇女●子(陽徳門院)が生れている。永福門院に皇子は生れなかったが、後伏見院を養子とした。 実兼はさらに伏見院治世の終りごろ、二女瑛子(昭訓門院)を亀山法皇の宮に入れて、両皇統への布石を行った。これが『とはずがたり』の作者所生の女子と思われる。 |
※金へんに章。 ●女へんに英。 |
| 亀山院は晩年に得た瑛子を溺愛(できあい)し、翌年恒明親王が生れるや、これを末子であるにかかわらす莫大な所領を相続させ、それのみならず、次の大覚寺統の皇太子として立てることを熱望し、長子の後宇多院、持明院統の伏見院らの諒解をとりつけ、三歳の恒明親王にも置文をのこすと同時に、後事を実兼の子公衡に託して没した(『宸翰英華』その他)。 |
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| 公衡は亀山院の遺志を奉じて幕府側にも奔走したようだが、亀山院の没後は後宇多院がこれに従うことは無理で、そのうえ持明院側ではこの状況を奇貸として、幕府に対し花園院の即位の促進と持明院統の正統の主張を行うなどの波瀾があり、公衡は後宇多院から勅勘をうけて一時所領を没収されたことがある。 |
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| 大覚寺統ではすでに次の東宮候補尊治親王が成人しており、また亀山院の没した翌年、後二条院に皇子邦良が生れ、諸情勢から恒明立坊は不可能になったが、昭訓門院と恒明親王は母方西園寺の縁で持明院統に接近し、その子孫は常盤井宮として南北朝合一後まで残った。 |
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| 作者としても、みずからが生んだ女子の上に起った微妙な運命の波瀾を、どんな思いでいつまで見守っていたことであろう。亀山院が親王自身にあてた死去直前の置文が、伏見宮の記録の中に残っていたことも、いろいろなことを想像させる。 |