更新10.10/7 up10.8/27
※角田文衛氏の略歴はこちら。
| 角田文衛氏の見解 |
私の立場からの補足 | |
| 上巻 序章 『北山の准后』 貞子の回想 北山の准后(ずごう)の名で朝野の尊崇を一身にあつめていた藤原貞子がその永い生涯を閉じたのは、後二條天皇の乾元元年(一三〇二)十月一日のことであった。日本の歴史を通じて、この貞子ほど栄耀と長寿に恵まれた女性は稀であって、『増鏡』(第十『老のなみ』)にも、
と見え、貞子の幸福は、藤原道長の正妻で、九十歳の高齢まで生きた源倫(とも)子に劣らぬ旨が叙べられている。 |
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| 実際、貞子の九十歳の算賀が盛大に催されたのは、弘安八年(一二八五)二月三十日のことであったが、その祝賀は、後宇多天皇、後深草上皇、亀山上皇、大宮院(藤原※子)、東二條院(藤原公子)、新陽明門院(藤原位子)、東宮(後の伏見天皇)の臨御のもとに、北山の西園寺第(今の金閣寺のあたり)で華々しく催され、まことにそれは未曾有の盛儀であった。その次第は、『増鏡』(第十『老のなみ』)や藤原(滋野井)実冬(一二四四〜一三〇四)の『北山准后九十賀記(くじゆうのがのき)』、などに詳しく書きとどめられており、ほとんど余すところがない。 |
※女へんに吉。よし子。 | |
弘安八年に九十歳を慶祝された貞子は、その後も健在であって、乾元元年まで生き続けたのであるから、彼女の享年はなんと百七歳であった。柳原家の藤原紀光(のりみつ.一七四七〜一八〇〇)などもこれに触れて、
と、愕きを示している。 | ||
| 享年が百七歳であったのであるから、貞子は後鳥羽天皇の建久七年(一一九六)に生まれたわけである。つまり彼女は、鎌倉時代のほとんど全部を生き抜いた、世にも稀な貴女であった。建久七年と言えば、壇ノ浦の合戦から十年ばかり後であって、幼い頃の貞子の周りには、壇ノ浦から生還した女性たちや、平家の縁故者、同情者がまだ群(むれ)をなしていた。 |
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| 貞子の父は、四條家の権大納言・藤原隆衡(たかひら.一一七二〜一二五四)であった。この隆衡の母、つまり貞子の祖母は、太政大臣・平清盛の娘で、建礼門院のすぐ下の同母妹であった。祖母は、貞子がまだ四歳の時に歿したから、彼女の記憶には祖母の俤(おもかげ)はほとんどあとをとどめていなかったであろうが、平家の強力な同情者、支持者として終始一貫した祖父の権大納言・隆房(一一四八〜一二〇六)は、なお健在であった。 |
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| 後に述べるように、隆房夫妻は、建礼門院を大原(おはら)から四條家の菩提寺の善勝寺に引き取ってお世話していたし、また平知盛の未亡人の治部卿局(じぶきょうのつぼね)を自邸−四條大宮第(てい)−に住まわせていた。貞子は、少女の時分から年に何回となく祖父や両親につれられて白河の善勝寺に参詣したに相違ない。そしていくたびかその寺で静かに余生を送っておられる建礼門院を拝し、昔語りを承ったことであろう。この悲劇の女主人公であった女院の印象と懐旧談の数々は、生涯彼女の脳裡に鮮かに残っていたはずである。 |
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| 治部卿局も、壇ノ浦で夫・知盛の壮烈な最後や安徳天皇の入水を傍近くで目撃したばかりでなく、建久七年には息子の知忠の首実検を強いられた悲劇の女性であった。同じ邸内に住んでいた治部卿局は、折にふれて平家の栄光と惨劇の次第を貞子に語りきかせたに違いないのである。 |
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| 小督局(こごうのつぼね)とのロマンスで有名な貞子の祖父の隆房は、高階(たかしなの)泰経(一一三〇〜一二〇一)と並んで後白河法皇の寵臣中の双壁であった。そうした背景もあって、隆房は、壇ノ浦の後においても公然と平家の支持者としての態度を表明して憚(はばか)らなかった。父の隆衡は、平清盛の孫であったから、これまた平家に対して親近感を抱いていた。以上によってもその一端が窺える通り、貞子は平家の縁者、同情者、関係者に囲まれた環境で成人したのである。 |
| やがて貞子は、西園寺家の藤原実氏(さねうじ.一一九四〜一二六九)の正妻となり、娘を二人ほど産んだ。西園寺家は、『承久の乱』後、著しく脚光を浴びて政界に雄飛し、実氏は太政大臣にまで昇進したし、また娘のよし子(後の大宮院)は、後嵯峨天皇の中宮に立てられ、後深草・亀山両天皇を産んだ。さらにはもう一人の娘の公子(後の東二條院)は、後深草天皇の中宮となった。 |
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| これに加えて健康に恵まれていたため、貞子の福慶は、たぐい稀なものであった。しかしその間にも彼女は、残された平家の人々のさまざまな運命に心を寄せ、八、九十年に亘って彼らの禍福、浮沈を見守り続けたのである。 |
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| 実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、極めて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遣さなかった。『とはずがたり』の作者・二條は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二條に口述・筆記させなかったのであろうか。 |
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| これは今さら悔んでも為(せ)ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后−従一位・藤原朝臣貞子−に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようと言う意欲も旺(さか)んに盛り上るのである。 |
| 下巻 終章 『恩怨無常』 四条家の隆昌 四條天皇の治世(一二三二〜一二四二)の都において、圧倒的な権勢を誇っていたのは、九條家の摂政・藤原道家(一一九三〜一二五二)であった。天皇は、道家の外孫に当たっていたし、天皇の女御の彦(ひろ)子−後の宣仁門院−は、彼の孫娘であった。さらに鎌倉にいる将軍・頼経は、虚位を保つに過ぎなかったとは言え、とにかく彼の息子であった。嘉禎三年(一二三七)の三月、道家は摂政の職を女婿にあたる近衛家の藤原兼経(一二一〇〜一二五九)に譲り、ついで翌年四月、出家の素懐を遂げたけれども、光明峯寺殿と呼ばれ、政界の元老として睨みをきかせていた道家の威勢は、依然として他を圧していた。 |
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| 道家の姉の立子(東一條院)は、順徳天皇の中宮であり、そうした意味からも道家は、承明門院(土御門天皇の母后)こと源在(あり)子などよりも、脩明門院に厚意を寄せていた。道家が息子の摂政・教実(一二一〇〜一二三五)と共に嘉禎元年(一二三五)四月、幕府に使を遣し、後鳥羽・順徳両上皇の都への還御を要請したことは、たとい不成功に終ったとは言え、彼の態度を明示している。 |
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| やがて不慮の災難が起った。すなわち仁治三年(一二四二)の正月、四條天皇は四、五日病床にあっただけで俄かに閑院内裏において崩御したのである。御年は、僅か十二歳であった。四條天皇には、兄弟も皇子もおらなかったから、入道前摂政の道家は、皇嗣について幕府に意向をただした。 脩明門院は、道家や公経と共に順徳天皇の皇子・忠成王の登位を切望されていた。正月十九日、幕府の使の城介(じょうのすけ)義景こと藤原義景(一二一〇〜一二五三)らが入京して一條室町の道家第に参入し、執権・平泰時の意向として、『承久の乱』に関与されなかった土御門天皇の第七皇子で未だ出家されていない宮が皇嗣にふさわしい旨が伝えられた。 |
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| 祖母・承明門院(源在子)の土御門万里小路(までのこうじ)第に淋しく過ごされていた第七皇子は、俄かに脚光を浴びた。正月二十日、皇子は土御門第で元服し(23歳)、諱を邦仁(くにひと)と定められた。ついで皇子は、乳母の夫にあたる権大納言・藤原隆親(四條家.1203〜1271)の冷泉万里小路(れいぜいまでのこうじ)第(冷泉小路北・万里小路西)に行啓し、そこで践祚された。後嵯峨天皇がすなわちそれである。 |
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| 公経や道家らは、幕議には不満であったけれども、一旦、皇子・邦仁の登位が決定すると、彼らの変身は迅速であった。後嵯峨天皇の后妃については、政界の長老たる公経(入道太政大臣)と実力者たる前摂政・道家の間で速かに詮議されたらしい。関白・良実(1216〜1270)は、父・道家との仲が芳しからず、こうした最高等の政策には関与しなかったものと臆測される。 |
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| 仁治三年(1242)の四月二十八日には、公経の孫で、実氏の娘の藤原よし子(1225〜1292)の入内が正式に決定し、彼女は先ず従三位に叙された。それから間もない六月三日、よし子は母の貞子につき添われ、公経や父の前右大臣・実氏の住む冷泉富小路第を出、西隣の冷泉万里小路内裏に参入した。 よし子は六月十日、女御に任じられ、翌十一日、貞子は実氏の庇車(ひさしぐるま)に乗り、車副(くるまぞい)・前駆を整え、女房の出車(いだしぐるま)三輛を従え、権大納言・藤原公相(実氏の子)以下の公卿や殿上人たちに扈従され、美々しく里内裏より退下したことであった。 |
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越えて八月九日、よし子は中宮に冊立された。その際に発令された宮司のうちでは、左のような人びとの名が注意される。
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| 総じて中宮職の大夫や権大夫は名目的なものが多く、実務の中心は、亮(すけ)や大進(だいじん)である。この亮や大進に堂上の桓武平氏が登用されている点が注意される。中宮の生母・藤原貞子は、しばしば指摘した通り、平清盛の孫・藤原隆衡(四條家)の娘であった。右の人事は、四條家と堂上平氏とが密接な関係を保っていたことを示峻していると言えよう。 |
| 中宮・よし子は、健康で多産的な女性であって、後深草天皇、恒尊親王、亀山天皇、雅尊親王、貞良(さだなが)親王、月華門院(綜子内親王)と言った皇子女を次ぎ次ぎと産み、後深草天皇の即位後、すなわち宝治二年(1248)六月には女院に列せられ、大宮院の号を賜わった。 |
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| 大宮院の同母妹の公子(1232〜1304)は、九條家の前関白・実経(1223〜1284)と婚儀を拳げることになっていた。ところが後嵯峨上皇は、入道前太政大臣・実氏に命じ、実経との婚約を破棄させ、公子を後深草天皇の後宮に納れられた。康元元年(1256)十一月、公子は母の准后につき添われ、入内したけれども、天皇が十四歳であるのに対して、公子の方はすでに二十五歳であった。翌正嘉元年(1257)の正月、公子は中宮に立てられ、やがて※子内親王(遊義門院)と貴子内親王を産んだのである。 |
※女へんに令。さと子。 |
| 以上によっても明祭される通り、十三世紀の後半における西園寺家の隆盛は絶頂を極め、摂関家を凌ぐものがあった。これに即応して西園寺家と密着した四條家も勢望を昂めた。序章に述べたように、大宮院と公子−院号を賜わって東二條院−の生母である藤原貞子−清盛の曾孫−は、後深草・亀山両天皇、遊義門院の祖母となり、一品准后を授けられ、その声望は世を覆うものがあった。 |
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| 貞子の妹たちのうち、儷子は二條家の関白・良実(1216〜1270)の正妻に迎えられて左大臣・道良の母となり、従二位に叙された。良実が早世した後、彼女は、良実が本妻に産ませた師忠を養子に迎えた。師忠は関白に至り、二條家を継いだ。貞子のもう一人の妹の親子は、西園寺家の右大臣・公基(1220〜1274)の妻室となり、やはり従二位に叙されたのであった。 |
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| 一方、隆衡の姉妹、つまり貞子の叔(伯)母の蔵子は、西園寺家の左大臣・実雄(1217〜1273)の室となり、※子(1246〜1329)の母となった。しず子は成人して後深草天皇の後宮に入って皇子(伏見天皇)を産み、後には玄輝門院の院号を授けられたことであった。 |
※りっしんべんに音。しず子。 |
| 四條家の権大納言・隆衡−平清盛の孫−は、権勢ある貴族たちの間に、網の目のように姉妹や娘たちを配したが、それらの布石はいずれも成功を収め、北山准后・貞子を中核として四條家の勢威は隠然たるものとなった。 |
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| 貞子の弟で、四條家を継いだ隆親(1203〜1271)は、妻が後嵯峨天皇の乳母の典侍であった関係も加わって、政界における実力者の一人となり、これまでの家格を破って大納言にまで昇進した。後嵯峨天皇はしばしば彼の鷲尾の山荘−金仙院−に御幸された。また彼の娘の識(さと)子は、伏見天皇の乳母になり、後には従一位に叙され、『鷲尾の一品(いっぽん)』と呼ばれた。その関係から金仙院には、持明院統の上皇や女院の御幸が度々みられたのである。 |
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| 『とはずがたり』に浮彫りにされている通り、四條大納言・隆親は、権力者にありがちな厳しさ、気難しさを備えていた。『承久の乱』後、政略的な意味から彼は、平時政の外孫にあたる足利家の源義氏の娘・能子を本妻に迎えた。二人の間に生まれた隆顕は、父の威勢を背景に迅速な昇進を遂げ、早くも正二位権大納言に至った。 しかし建治三年(1277)五月、三十五歳の時、彼は父・隆親との不和から官を辞し、出家した。このためもあって、隆顕の子孫は同じ四條家でありながら大覚寺統に走り、持明院統に属する同家の主流とは対立するに至った。隆顕の孫で、その養子となった大納言・隆資(1292〜1352)とその子息たちの南朝方に対する尽忠は、壮絶を極め、周知されている。 |
| この結果、南朝に属した隆資の系統は断絶し、隆親の子で北朝方についた大納言・房名(1230〜1288)の四條家と、権中納言・隆良(1296薨)(鷲尾家)の孫の従三位権中納言・隆職(たかもと.1347薨)の子孫が存続を見たのである。 |
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| 平清盛は、その絶大な権力を背景に娘の徳(のり)子を中宮に納れ、安徳天皇の外祖父となった。しかし彼が強行した計画は稔らなかった。けれども徳子の妹は四條家の隆房の妻となり、その孫の貞子−北山准后−は、平和裡に清盛の血統を皇室に伝え、清盛の宿願を果たしたのであった。 |
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| 北朝に仕えた方の四條家と鷲尾家とは、政治的、経済的に困難の多い幾星霜の試練に堪え、連綿として存続し、両家とも羽林家(すべて二七家あった)の地位を保持したのであった。 |
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(中略) 六波羅家の後裔 (中略) ところで、『平家物語』(巻第十二)は、六代丸(妙覚)の斬首に触れて、『それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ。』と述べ、これを長編の物語の大団円としている。この一句は、冒頭に強調した『盛者(じょうしゃ)必衰の理(ことわり)』に対応して書かざるを得なかった物語の作者ないし作者達の結論であり、要諦(ようたい)であった。 |
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| また『増鏡』(第二)の作者は、壇ノ浦で一門が滅んだ後の動きについて、『この頃は、あるかなきかにぞさまよふめる。』と記している。これは劇的効果を狙った誇張した叙述であり、上来述べた通り、史実に反することが夥しい。さらに平家の女人たちを無視した叙述は、いかに中世の物語とは言え、赦し難いものがある。それにつけても、百七歳の長寿を全うした『北山の准后』こと藤原貞子が壇ノ浦以降の平家の動静について記録を遺してくれなかったことが、衷心より悔やまれるのである。 |